第9話
ペンギンショーを見終え、水族館を出たのは二十一時になってからだった。
外は既に真っ暗で、都心部ながらも人の通りは多くない。会社帰りらしい人達の姿が散見される中、二人はそれに紛れるようにして駅まで続く道を歩く。
居心地の悪くない沈黙が間を漂い、畑野は晩秋の夜風を浴びながらそれに身を委ねる。
眼前に伸びる横断歩道、その歩行者信号が点滅し始める。普段だったら小走りに抜けていたかもしれないが、少しの気の迷いで足を止めると、示し合わせたように篠宮も止まる。ふと、篠宮がこちらを横目に見て尋ねてきた。
「今日、どうでしたか?」
何が、とは言ってこないものだから何を示しているのか理解ができずに小首を傾げる――「何の話?」。そんな畑野の反応に自身の言葉の不足を理解しつつ、しかし言いづらそうにしながら、篠宮は不満そうに畑野を睨んだ。唇を尖らせ、追うように並び始めた通行人に聞こえないよう、頬を染めながら小さな声で囁く。
「デート」
彼女がまさか、先程までの時間をそう称することがあるなどとは欠片も思っていなかった。畑野は信じられなくて目を丸くすると、篠宮は不機嫌そうに「……水族館!」と言い直す。彼女が自分を誑かそうとしているのか、それとも少しだけでも心を開いて甘えようとしてくれたのかは定かではなかったが、自分を誘惑したところで誰が嫉妬することも無いだろうと思い直し、畑野は笑う。
「退屈を忍ぶような人間に見える?」
そう尋ねれば、彼女は少しだけ考えた後に溜飲を下げたように溜息をこぼす。
元々、娯楽施設が特別に嫌いな性格でもない。水族館は相応に楽しかったし、誰かと行楽する時間も、大学に上がってからは減っていた。そういった時間も、存外に悪くないものだと認識を改める良い経験だった。それに、誰の目も気にしない素直な篠宮の一面を見ることもできたのだから、文句など無いだろう。
淡く曇る呼気の奥で滲む赤信号を眺め、篠宮が目を細める。
「……本当に変な人ですよね。変わってるって言われませんか?」
眼前を駆け抜けていく車を見送りながら、思い当たる節が無いかを探す。
「常識人と名高いけど」
「嘘ですね」
軽口や罵声も無く即答で否定するものだから、反論の余地も無かった。実際、嘘だ。友人はそう多くは無いが、その殆どが畑野を変人だと称している。肩を竦める畑野を少しだけ楽しそうに見ていた篠宮は、「常識や良識はもう少し窮屈ですから」と呟く。
そんな篠宮の言葉を聞いた畑野は、喉奥から込み上げてくる言葉を、一度口を噤んで止める。彼女の達観したような横顔を眺めながら己を顧みた。
「……私も大概、縛り付けるような文句を言ってるでしょ」
言っていたし、これからも言い続けるだろう。
それを聞いた篠宮は思い出したように目を丸くして、少ししてから苦笑をした。「そうでしたね」と噛み締めるような表情で呟き、視線を黄色くなった自動車信号に投げた。
ドミノ倒しのように変遷していく信号機。歩行者信号が青になり、一斉に歩き出す。
退勤中の会社員に比べて歩調の緩い彼女に合わせながら歩き、そうして対岸に渡り切った頃。ぼそりと、左折する自動車の排気音に紛れさせながら彼女は尋ねてきた。
「今でも、思っていますか?」
質問の真意を図りかねて、畑野は彼女の横顔を見る。
夜の闇に紛れるような暗い表情と、青信号を反射させた寂寥感の宿る瞳。皆から認められたいと願う者が懸命に繕った仮面の中にあったのは、人からの愛情に飢える、至って普通の、少しだけ生意気な少女の顔だった。
少し、距離が縮まっていたような気がしたから、返答には躊躇った。しかし、親しい間柄だから主張を変えるというのは主義に反する。何よりも、親しくなったからこそ、主張は変わらない。彼女の、その破滅的で歪な承認欲求は見るに堪えない。
「……人に色目を使って、誰かの情欲を買うことまでは別にいいと思う。でも、そうして誰かの嫉妬を煽って、そうすることでしか自分を満たせないなんて生き様は、いつかは破綻する。そうなった時に支えが無くなれば、立ち続けることも難しくなる」
酷く曖昧ながら、漠然と、心の中で抱いていた彼女への想いを紡ぐ。
「以前まではどうでもよかった。アンタがどんな人生を歩んでも、私には無関係だから。でも、今は無関係だって切り捨てられないくらいアンタの良い所を知ってしまった。もしも人から認められたいと思うなら、私がその役回りを買ったって構わない。だから――」
言葉が熱を帯びるのを自覚しながら語ると、彼女の表情が嬉しそうな、それでいてどこか苦しそうな笑みに変化する。形容しがたい苦しげな表情に言葉を呑んで瞬きした次の瞬間、その表情は腹を括ったような笑みに変わった。
「先輩」
篠宮は畑野を見詰めながら立ち止まり、行き交う自動車と黄色と赤の残像を背景に、畑野の名を呼んだ。視線を返すと、彼女はそれを相槌と受け取って言葉を続けた。
「今晩、もう少しだけ時間ありますか?」
『面白い場所』としか答えなかった彼女が畑野を連れて向かったのは、都内、○○駅から十分程度の距離にある美術館だった。驚異的なまでに広い敷地と大きく清潔な外観に言葉を失う畑野だったが、篠宮は随分と慣れた様子だ。しかし――閉まった門と暗い順路、現在時刻は二十二時にも迫ろうかという頃。明らかに開館時間は過ぎていた。
「閉館してるんじゃないの?」
「大丈夫です」
彼女は門の傍に立つ警備員に歩み寄って鞄から何かを取り出し、提示する。
訝しそうにこちらを見ていた警備員だったが、篠宮の提示した通行証らしきそれを目にした途端、佇まいを正して丁寧な一礼をする。「確認しました。ご協力ありがとうございます」と謝意を述べ、館の方を見ながら無線に何かを告げた。
途端、門が音を立てて開き始める。彼は開いた門扉を通り抜けるように手で示した。
「ただいま展示室1-Aから3-Cにかけて関係者の方々が作業中です。最終退館時刻は二十四時となっておりますので、それ以降になる場合は館の職員に一報ください」
「ありがとうございます――こちらも私の関係者です」
篠宮は畑野を手で示し、学生証でも提示しようかと鞄に手を伸ばしたが、警備員は確認をすることもなく「承知いたしました」と館を手で示す。促されるまま閉館後の美術館に踏み入った畑野は、隣を歩く篠宮を見る。
色々と聞きたいことはあったが、雑談に興じるような様子でもない。それに、聞かずともその答えはすぐに分かるのだろう。何より、想像もついた。
普通であれば閉館後の美術館に立ち入るなどできないだろう。
だが、彼女は芸術家の家系で、彼女の姉は海外で個展を開いていた。国内で開いていない道理が無く、そうなれば彼女の姉は、或いはそのパトロン達は展示に際していつかは実地に足を運ぶだろう。勿論、通行証も発行される。
身内である彼女がそれを所持していることは何らおかしなことではない。
だが、彼女がこうして立ち入ることができたということは、今、この美術館には彼女の関係者が何かを展示しているということだ。
暗く、燻るような感情を瞳に宿す彼女の横顔を一瞥し、その奥の掲示板を見る。
『楼海個展』――稀代の水彩画家と持て囃すその一枚を見て、疑念は確信に変わった。
正面入り口から館内に入ると、二人の姿を視認した警備員がデスクから腰を浮かす。しかし、通行証を提示すれば腰を落とし、照明が点いている方を手で示した。
示された通りにその方向に進んでいくと、談笑するような声が通路の奥、曲がり角の方から聞こえてくる。やがて、そこから数名が顔を出した。
一部はこちらの存在に気付くと「お疲れ様ですー」と挨拶をしつつ、訝しそうにしていた。恐らく美術館の職員だろう。顔に覚えは無いが、警備を越えて入館しているということは関係者だろうと判断したようだ。
しかし、美術館職員ではなさそうな面々は篠宮の存在に気付くと、信じられないと言いたげな驚きをその表情に宿した。ここに居るはずの無い人間を目の当たりにするような。そんな表情で篠宮を見てから、深々と頭を下げる。
「お疲れ様です!」
まるで大企業社員が社長にでもするような挨拶を、一介の学生に過ぎない小娘に。驚き目を剥く畑野と美術館職員。篠宮は、そんな挨拶に気まずそうに顔を伏せた。
何事かと言いたげな表情をする美術館職員に、上背の女性が篠宮を手で示す。
「先生のご令妹です」
それを聞いた途端、美術館職員の職員は顔色を変えて身なりを整えた。「お、お疲れ様です!」と不揃いに告げて頭を下げる。まるで非礼を詫びるような言葉を聞きながら、篠宮はその表情に微かな寂寥感を覗かせる。
「……お疲れ様です」
初めて聞く、酷く無機質な彼女の言葉。蚊帳の外に居る畑野は余計な口を挟まず、脇でその光景を見守っていた。しかし、『先生のご令妹』ということはつまり、彼女の姉が先生な訳だ。それはつまり、この個展が楼海とその関係者たちにより開催されていることを示している。そして、その関係者にとっては大先生の妹に当たるのだから、この対応も道理だろうか。
代表者らしい上背の女性は畑野をちらりと一瞥した後、篠宮に尋ねる。
「夜分遅くに、どうなさいましたか?」
「姉の……楼海の個展を見に来ました」
聞くと、途端に上背の女性は緊張や警戒心のようなものをほどく。そして、幾ばくかの喜色を表情に覗かせた。まるで、聞き分けの悪かった子供が理解を示してくれた時のような、想いが届いたとでも言いたげな表情だった。
「そうでしたか」
上背の女性は微かな笑みを見せながら篠宮の瞳を見詰める。
「でしたら昼に来てくだされば、先生もお喜びになったでしょう」
「落伍者が楼海の妹として白昼に出るのを、両親は望まないでしょう」
篠宮が冷めた表情でそう切り捨てると、女性は返す言葉も無いように押し黙る。肯定も否定もできず、そんな気まずい雰囲気に美術館職員達はおろおろと狼狽えていた。
そんな彼女の言葉を聞いた畑野は、疑念が確信に変わって、それを噛み締めるように瞳を瞑る。妹が白昼に姉に会いに行くことを望まないとは、とんだ家族関係だ。同時に、彼女を取り巻く環境がどんなものであったかが容易に想像できた。
上背の女性は寂しそうな顔を覗かせた後、話を逸らす。
「先程、業者の方々が全員撤退したので展示室には誰も居ません。もうしばらく照明を点けておいてもらうので、お帰りの際は警備デスクにお立ち寄りください」
「分かりました。ありがとうございます」
「ごゆっくり、ご覧になってください。先生が昨年に手掛けた『群青』は圧巻ですよ」
篠宮は俯くようにして頷き、そのまま歩き出して面々の脇を抜けようとする。
しかし、上背の女性は先程から気になっていたようで、畑野を見て口を開いた。
「そちらの方は?」
蚊帳の外のまま終わろうかと思っていたところに呼び止められ、畑野は後ろ髪を掻く。篠宮は彼女からの質問に立ち止まり、畑野を一瞬だけ振り返る。畑野をどう紹介するか迷った様子だ。しばらくして、彼女は無難なところに行き着かせようという気配を表情に、上背の女性に向き直って畑野を示す。
「大学の先ぱ――」
「――友人です」
彼女の言葉を遮って、畑野は上背の女性を真っ直ぐに見据える。
何故だか、そう言わなければいけないような気がした。
畑野の揺るぎない視線を受け、女性は動揺したように瞳を揺らす。驚きに口を開きかけ、閉じて、口を噤んで篠宮を見た。篠宮も幾らか驚いたように畑野を見たが、遠い世界の姉や、その姉との繋がりを外部に見せたがらない両親や、楼海の関係者など。絵の世界と地続きに居る彼女達がそう接するなら、きっとそこから離れている自分こそが、絵に触れない彼女の存在を認め、その友人であるべきだ。
女性はしばしの間、畑野を見詰めた後、噛み締めるように瞳を瞑って笑った。
「楼海は七年前に小さなコンクールから台頭を始めた水彩画家です。同年にその類稀な才能を見出され、とある大企業が彼女のパトロンになりました。さっきの人達はその企業の中で編成された部署の方々で、篠宮家も懇意にしている美術の専門家の集まりです」
篠宮は語りながら歩き、やがて、通路を抜けて広い空間に出た。
そこには水彩画家『楼海』の描いた様々な水彩画が展示されていた。
随分と長く丁寧な説明文が一枚ごとに用意されている。覗き込めば、どうやら一枚一枚に宿る歴史を記載しているようだった。
説明文から顔を上げて作品を見れば、うなじの辺りに焼けるような痛みが走る。瞳を奪うような奥行きは、その額縁の中に広がるもう一つの世界を見せた。繊細な色使いと、独特な感性からもたらされる見慣れた情景の新たな側面。絵画には疎いが、彼女が天才と呼称される所以は、誰に何を説明されずとも理解できてしまった。
篠宮はふと、一つの絵画の前に立ち止まる。それから、その絵に向かい合った。
畑野は彼女の視線を辿るようにその絵画を見て、途端に血流が加速するのを感じる。
「姉がこの絵を描いた時でした。私が、筆を捨てたのは」
題は『戦火』。描かれるは見惚れるようなブルーアワーの鮮やかな景色と、それに紛れるような遥か彼方の赤い灯の群れ。遠い海の向こう、対岸の屍山血河を遠い世界での出来事として描いている。赤い光の一つ一つが幾つの命を奪うのか、見た途端に考え込んでしまった畑野は、心臓を鷲掴みにするような感覚に唇を噛む。
「姉が十六歳の時の作品です。それまでは『若き才覚』や『神童』なんて呼ばれていましたが、この一枚を契機に、楼海を子供と認識する芸術家は消え失せました。とある著名な作家は、現代の画家を紹介するときに彼女を『筆を握る怪物』と表現したそうです」
静かに振り返った篠宮は、寂しそうな瞳で畑野を見る。
「楼海は紛れも無く天才です。私は、『この天才には追い付けない』と悟りました」
そう言いながら、再び歩き出す篠宮。畑野は彼女の言葉を否定したかったが、しかし、『努力は必ず報われる』なんて言葉は、報われた人間かそう自分に言い聞かせる人間しか吐かないものだ。むしろ、客観的事実を持ち出して説いてやるべきだろう。『この人間には勝てないよ』と。
「篠宮の家系は代々伝わる芸術家の一族です。『偶然そうなっている』なんてことはなく、一族郎党がそう在ることを渇望し続け、生まれてから物心が付くまで、そう生きることを自分で選ぶように、そういう物にしか触れさせてこないんです。どんな分野でも構わない――美を表現する者であれば、なんでも」
酷い話だった。例えば、親の背を見て育って、そういう世界に生きたいと思った子供が親の後を継ぐ。そこで留まれば綺麗な話ではあるが、もしもその背しか見せてこなかったのだとしたら、そこに選択の自由は無いだろう。
道を舗装することと線路を敷くことはまるで別の話だ。
「アンタ達が選んだのは、水彩画だった」
「……ええ」
篠宮は肯定をすると、楼海の作品の海に溺れるようにそれらを見回す。
「姉は昔から私に甘いんです。水彩画なら自分が教えられる、水彩画なら一緒にやれる。筆を折ろうとした時も、彼女は作品に向き合う時間を捨ててまで私を励まして」
楼海にとって、彼女はそれだけ大切な妹だったのだろう。
しかし、愛情は何でも叶う魔法の力ではないのだ。
「私も最初は姉のような画家になろうと思いました。でも、差は開くばかりで埋まらないし、周囲の視線と期待は次第に楼海へと戻っていく。掛かる言葉は『お姉ちゃんのように頑張ろう』。二人称や三人称の多くは『楼海の妹』。アトリエにはゴミばかりが積まれていきました。いつだったか、父からこう提案されました」
一つ目の展示室を見終え、二つ目の展示室に続く通路に足を運ぶ。
ふと立ち止まった彼女は振り返り、畑野を見た。
その顔を見て、畑野は思わず呼吸も忘れて目を開く。何と形容すればいいか――彼女は、怒りと、やるせなさと、無力感と、苦痛と、諦観と、それらを混ぜ合わせて叩き潰した感情を、今にも泣き出しそうな笑顔に滲ませていた。
「『別の名義で挑戦してみないか』」
畑野は思わず立ち止まり、信じられないと言いたくなりながら彼女を凝視した。
確かに、対外的に見れば結果は全てだ。結果を残さない創作の多くは自己満足で、きっと篠宮の家系は自己満足の芸術を認めなかったのだろう。だが、それは、世間や世界の役回りだ。身内までもが努力を否定し、貶してどうするというのだ。
乾いた笑いをこぼした篠宮は、前を向いて歩き出す。
「篠宮の家系に生まれた姉妹。その片方は稀有な才能で名を轟かせ、その片方は名に傷を付けるばかりで何も残さない。篠宮の家系にとって、私は楼海の名を汚す枷でした。私以外にも、篠宮の家系には名を残せなかった芸術家は多く居ますが、私は例外です。楼海という宝石の傍に、石炭は鬱陶しいでしょう」
二つ目の展示室は、彼女が去年に描いたものが飾られている。
楼海が新藤の元同級生であることを考えれば、畑野とも同い年で。つまり、彼女が二十歳の時に描いた作品ということになる。畑野はそれを加味して作品群を見る。
「――父が私に吐いた言葉を知った姉は、激怒し、誰もが完成を待ちわびていた傑作を壊しました。筆を折って、撤回しなければ二度と絵を描かないと迫りました。以降、親族から何を言われることも無くなって、私の絵からは否定すら消え去りました」
肯定も否定も共感も拒絶も無い創作物に、果たして何が残っているのか。
追い縋り、枷とまで周囲に思われるような憧れの人物に庇われ、そうして庇護された芸術が何の実も結ばないのだとしたら、彼女は何の為に筆を握るのか。『他者から認められる』という、普通の日常を送る者達が日常的に満たされている願望を、誰よりも渇望する人間が安易にそれを実現する術を持っていたら。
それに逃げるのは道理なのではないだろうか。
「先輩は以前、私の生き方に『理解できる部分もある』って言いましたよね」
「……言ったわね」
彼女を二回目に部屋に招いた日だ。
その前に、彼女から言われた言葉だって覚えている――『辛くないですか。誰にも評価されないのって』。そして、自分は『辛いに決まってる。だから、評価させるために書くのよ』と。思い出した畑野は、彼女と自分との本質的な違いを理解する。
篠宮は泣きそうな笑顔で振り返り、震える、弱い声で吐き捨てた。
「こんな月並みな言葉を言いたくありませんけど……先輩には分かりませんよ、私の気持ちは。誰に認められなくても頑張れる人間に、私のことは理解できません」
その通りだ。何ら言い返す言葉も無くて、畑野は瞳を瞑って俯く。
「結果を残すだけが才能じゃありません。世界に名を轟かせるだけが才能じゃないんです。折れずに努力を続けるのだって才能が要るんです。私には、そんな素敵な根性が無かった。路傍の雑草みたいな弱い人間の気持ちを、強い人が推し量ろうとしないでください。膝を抱えて目線を合わせないでください。誰も彼もが、歯を食い縛って前に進める訳じゃないんです。自己満足の為に理解なんてしないでください。上から見下ろして、邪魔だったら踏みつぶしてください。そういう世界じゃないですか」
感情的になりそうな声色を、どうにか冷静なままに抑え込み、それでも感情のままに言葉を吐き連ねる篠宮。全てを言い切って微かに息を切らした彼女は、自己嫌悪を顔いっぱいに浮かべて、苦しそうに呟いた。
「私は、絵から逃げました。一人で向き合い続けるなんてできなかった」
そこに至ってようやく、畑野は彼女の感情的な言葉の数々が、己の心を整理するために吐かれているのだと悟る。今まで誰にも言ってこなかっただろう。今まで、己の心の中で抱えたまま苦しみ続けてきたものを、初めて誰かにぶつけた。
だからきっと、今の畑野の役割は励ましたり諭したり、そんな正しい行いじゃない。ただ、彼女の言葉に耳を傾け続けることだけだ。
「……逃げて、絵を捨てて。その時はじめて、自分には絵しか無かったんだって気付きました。何にもできないし、誇れるものも逃げる先も無かった。でも、接点すら無かったクラスの人気者の男子生徒から告白された時に、気付けました。女子からの嫉妬の感情を受け止めた時に、理解をしました」
篠宮は前を向いて歩き出し、軽い調子で言葉を続ける。
「どうやら私は可愛い人間なんだって。ちょっと色目を使うと色々な人が振り向いてくれるし、そんな私を羨んだり妬んだりしてくれる人が居る。初めて同性に小突かれて、その現場を見た男子生徒が私を庇った時、誰かに認めてもらうことの心地よさを知ってしまいました。もう、戻れないんですよ。もう変われないんです」
ふと、立ち止まった篠宮が見上げるのは藍色の絵画。『群青』――楼海のパトロンが圧巻だと語ったその作品は、『戦火』と同じくブルーアワーの時間帯を描いている。しかし、先程の作品と異なるのは、それが描くのは『孤独』であること。どこに書いてある訳でもないのに、それが示すテーマを理解できてしまったのは、霧の落ちる町、滲む信号機にフォーカスを浴びせた絵が、一人で歩く都心の情景に酷似していたから。
「……コンクールで受賞するのって、誰かが私に欲情して、誰かが私に嫉妬してくれた時に似ているんですかね。誰かに認めてもらっているってことは同じなのに、その二つにどんな違いがあるんでしょうか。分からないけど、そうしてもらっている間は、私がここに生きているんだって実感できるんです。ここに居てもいいんだって」
そう語る彼女は、その言葉が真実なら、きっと満たされている筈だ。
しかし、畑野の目にはとても寂しそうで、空虚に見えた。そして、それが錯覚ではないことはこの短い付き合いで理解しつつあった。大学の文芸同好会、劣情を催す男子と嫉妬に駆られる女子の中。そんな居場所なら無くなってしまえばいいだろうと、畑野はそう思ったが、きっと彼女にとってはそんな居場所が心地よいのだ。
そんなことを考えていると、不意に篠宮が畑野を見て驚いたように目を丸くする。それから、呆れるように笑って、どこか嬉しそうな調子で呟いた。
「なんで先輩が泣きそうになってるんですか」
「――は?」と、彼女が何を言っているのか理解できなくて眉を顰めるが、同時に、熱いものが目尻に浮かんだ。慌てて指でそれを拭うと、それは誤魔化しようも無く涙で、畑野は忌々しく「くそっ」と吐き捨てながら頭を振って意識を切り替えた。
そんな様を見詰めていた篠宮は、どうしようもなく愛おしいものに触れるような表情で口を開く。
「先輩のことは良い人だと思っています。今日のことも感謝してるし、初めて、絵とか色恋とか性欲とは無縁なところで楽しいと思える時間を過ごせました」
「でも」と彼女は言葉を続けた。少しだけ、表情が寂しそうだった。
「結局私は何も変わらないし、これからもきっと、そういう生き方をして自分の心を満たしていくんだと思います。だから、もしも私の変化を期待しているなら、諦めて私を捨ててください。先輩は一人で生きられる人間じゃないですか」
『群青』を背にそう言い切る彼女の表情は、とても寂しげだった。
畑野はどんな言葉を返していいかも分からずに押し黙る。彼女の言葉を否定したかった。変化をしたいというのなら幾らでも協力するから、一緒に変わろうと。しかし、彼女がそれを望んでいないのに、自分が何をしていいのかなんて分からない。
何をしていいのか分からないだけでなく、自分が何をしたいのかもよく分かっていなかった。彼女に生き方を改めさせたいのか、彼女の友人で居たいのか。元々、見切り発車で彼女を呼び出した今日、改めて畑野は、自分の心と向き合う必要があると理解した。
楼海の作品を全て見終え、美術館を後にした終電も無くなりそうな二十三時頃。
ぎりぎりのところで終電に間に合った篠宮が改札を抜け、ホームへと降りていく様を畑野は見送る。何度も振り返っては手を振ってくる彼女に、転ぶから振り向かずにさっさと行け、と手を払うような素振りを見せると、彼女は不貞腐れたように頬を膨らませて駆けて行った。
自分だって終電に余裕は無いくせに、冷える駅舎内でポケットに手を突っ込み、畑野は彼女が去って行った方向を見詰め続ける。篠宮という尻軽女はあまり好きではなかった。しかし、酒に酔って一線を越えた日に、少しだけ彼女に興味が沸いた。ふとした切っ掛けで彼女のことを知る度に、少しずつ気になって行き、気付けば目を離せなくなっていた。
これが恋愛感情などとお花畑なことを言うつもりは無いが、少なからず友愛や親愛は抱いている。そんな中で知った彼女の過去と境遇に、畑野は自分が何をすればいいのか、何をしたいのかも分からなかった。
溜まり切った膿を捨てるように溜息をこぼし、後ろ髪を掻いてから終電が無くならない内に、と踵を返して自身の向かうべき改札の方へ足を伸ばす。
その時、知らぬ声が呼び止めてきた。
「こんばんは。初めまして、『畑野』さん」
知らぬ声だが、明らかに自分を呼ぶその声に畑野は立ち止まり、声の方を見た。
そして、声を詰まらせて目を丸く見開いた。
肩先程度に伸ばした黒髪と、見知った後輩を彷彿とさせる黒瞳。
つい今しがた見送ったばかりの彼女と瓜二つで、先日、新藤から見せられたニュース記事に名画と共に映っていた人物。寒がりなのか、晩秋の時分にマフラーとトレンチコートを着けているその若い女性は、畑野を見て微かな笑みを浮かべていた。
なぜ自分の名前を知っているのか、何の用なのか。様々な疑問が渦巻くが、そんな些細な疑問よりも今は、目の前にこの人物が居ることに驚くべきだ。
「――楼海」
名を呼び捨てると、彼女は気を悪くした素振りも見せず、こちらの人柄を探るように瞳を覗きながら用件を切り出した。
「妹がお世話になっております。終電も迫って急いでいるかとは存じますが……タクシー代をお渡しするので、少々お時間よろしいでしょうか?」
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