第8話
水族館に到着した頃には、時刻は既に十九時を迎えようとしていた。
ペンギンのショーまでは随分と時間が残っていたものだから、二人は人気の減りつつある水族館をゆっくりと巡った。熱帯魚、深海生物、甲殻類に軟体生物――多種多様な水の生物が暮らす幻想的な水の世界を見て回る。
畑野と篠宮は、二人で水族館を巡るという、つい先日までは考えられなかった状況を不思議に思いながらも水族館を楽しんだ。畑野も、初めは篠宮が楽しめればそれでいいだろうと考えていたものの、すっかりと奇怪な水生生物達に熱中してしまった。
「あ、フグ!」
ふと、篠宮が興奮を隠せない様子で頬を緩めながら一つの水槽を示す。目を輝かせながら畑野にも見るように視線を送ってくる。岩場や砂の敷き詰められた水槽を見ると、ぷくりと浮かんだ間抜け面と、ちょうど視線が合ってしまった。
思わず鼻で笑ってしまいながら「何見てんのよ」と軽口を叩けば、ふよふよと数匹のフグが寄ってくる。愉快に思いながらその光景を眺めていると、集まってくるフグを、篠宮は頬をだらしなく緩めながら見詰めていた。
目を輝かせ、誰に取り繕うこともなく、まるで宝物を見詰める少女のような姿を見せる篠宮を、畑野はぼんやりと眺めた。整った横顔と、媚を売ったり誤魔化したり、人を食ったようなそれではない、心からの笑み。――そういう笑顔もできるじゃないか、と口には出さずに胸中で呟いて、彼女の興味が尽きるまでその姿を見守った。
それから、篠宮は満足した調子でフグの水槽から離れる。
もういいのかと視線で尋ねれば、返ってきたのは歩きながら紡がれる昔話だった。
「……子供の頃。よく、絵を描いていたんですよ」
ぽつりと、語り出した篠宮の言葉に耳を傾ける。
初めて彼女の口から語られた、絵に関する話だ。畑野がずっと気に掛けていた彼女の家系に関わる話を語ろうとしてくれているのだから、それに耳を傾けない訳にはいかない。畑野は興味や関心を露骨には示さないように取り繕いながら相槌を返す。
「昔は風景画がどうも苦手で、簡単な輪郭の手に取れるモチーフばかりを題材にしていました。思えば、そうやって楽な方に逃げ続けた結果が今に繋がってるのかもしれませんけど――当時は、楽しい絵を描くことばかりが楽しかったんです」
篠宮は時折立ち止まって、小魚の群れや甲殻類、不自由な世界を優雅に泳ぐ彼等を見詰め、その向こう側に過去の己を見出す。
「よく、図鑑を見ながら魚の絵を描いていました。――ほら、小学校って本の貸し出しとかできるじゃないですか。よく借りて、家で絵を描いていたんです。だから、模写みたいなものですね。私は自力で何か、感動するような芸術を生み出すこともできない、ありふれた創作家だったんです」
その過去形に、畑野は口を挟みそうになる。ありふれた創作家だったというのなら、今はどうなのか。非凡な画家になれたのか、或いは何を作ることも無くなったのか。尋ねようとした口を閉ざして、聞くまでもない質問を殺した。畑野は微かに寂しげな表情で近くの水槽に視線を投げ、ひょっこりと顔を覗かせたウツボと視線を交えた。
「一度だけ、中学校に上がったお姉ちゃ――姉に、水族館に連れてきてもらったことがあるんです。コンテストの賞金で、ここじゃないけど立派なところに」
フラッシュバックするのは、あの日、新藤に見せられた一人の傑物と、彼女が描いた水彩画。脳裏に焼き付いて離れない、人の心を鷲掴むような情景を生み出した彼女によく似たあの人物を思い出し、立派な人間も居たものだと胸中に呟く。
「良いお姉さんね」
「そうですね。何から何まで……世話になってばかりでした。私が伸び悩んだ時に絵を教えてくれたのも、折れそうになった時に励ましてくれたのも、姉でした。水族館に連れてきてもらったのも、ちょうど、絵の世界から逃げようと思った時でした」
「よく、見てくれていたんでしょうね」と、懐かしむように目を細めて語る。
「……その時に訪れた水族館でも、確かこうしてフグを見ていました。今更になってそれを思い出したってだけの、変哲もない昔話です」
篠宮はそう締めくくると、畑野と顔を合わせることもせずに水族館の各地を見回す。
立派な姉だったのだろう。彼女の家族との関係性はほとんど分からないままだが、きっと姉は常に篠宮を想っていた。しかし、結果が報われなかった様を目の当たりにしている畑野は、やるせない気持ちになった。
感情を押し込んだ溜息を肺から絞り出すよう溜息をこぼすと、ちょうど篠宮が畑野を振り返る。微かな憂いを宿しながらも、それを笑みで取り繕った畑野の嫌いな表情だ。
水銀灯が生み出した水影が一瞬、頬で揺れた。
「家族のこと話したの、先輩が初めてでした」
それは決して、ラブコメにおける特別な感情の発露のようなものではなく、ただ、時間と感情の交わりが生み出した友愛の証明だ。複雑な表情でそれを聞く畑野に、篠宮はにやりと笑って前を向き、言い残す。
「それだけのお人好しだって自認しながら余生を過ごしてくださいね」
余生と言われたって、生憎と目先のことにいっぱいで、折り返し地点すら見えぬ人生だ。そんなことを心中で独り言ち、畑野は物言いたげな表情で篠宮の背を眺める。
自分がお人好しだとか、初めて家族の話を聞いたとか。そんなことはどうでもよくて、今はただ、彼女が絵から目を背けたという事実が心を蝕んでいた。自分がどうしてこれだけ篠宮に入れ込むのかは、きっと心の底で彼女に対して抱いている友愛が理由なのだろうが、同時に、彼女が筆から手を離した理由が自分にも理解できるからなのだ。
何かを作る人間は、この世に嫌というほどありふれている。俗世から隔離でもされなければ、自分よりも才覚に溢れた人間を嫌というほど目にする。彼女の場合は誰よりも身近で誰よりも自分に寄り添ってくれる人間が、誰よりも才能に富んだ人間だった。
劣等感は、目に見えぬ圧力で持つ筆を折るのだ。
「アンタの絵――私も見てみたかったわ」
内側に抱えた本心を気取られないように、何気ない様子を装いながら畑野は告げた。何を伝えればいいかも分からないまま、ただ、失意に折れただろう画家に再起してほしくて、彼女の気まぐれに縋るように言葉を絞り出した。
一瞬、篠宮の歩調が崩れる。
けれども彼女は何事も無かったように歩き続け、振り返ることもせず呟いた。
「やめといた方がいいですよ。資源の無駄遣いですから」
そう呟く篠宮は、既にキャンバスなど見ようとはしていなかった。
ペンギンショーの会場は、水場に囲まれた小さな陸のステージと、それを囲うように半円に敷き詰められた段差状の座席群だ。イルカなどと違ってダイナミックさに欠き、水に濡れる心配も無い分、会場は狭く座席はステージに近い。
二十時。この時間にしては存外に人が多いことに驚きながら、二人は会場の端の方に並んで座る。まだショーの準備中らしく、飼育員とペンギン達のたどたどしいコミュニケーションが見えた。飼育員の一人が餌の魚を取り出せば、ペンギン達は両手を広げて駆け寄っていく。一人ずつ餌を食べる度に撫でていくも、内の一人がバケツに口を突っ込んで魚を食べ始めるなど、散々な様子だった。けれどもその拙さが愛おしかった。
「かわ……」
思わず呟こうとした篠宮は、慌てて口を閉ざす。
畑野に弱みは見せられないだろうと彼女を盗み見れば、畑野はどこか物憂げな表情を浮かべ、ステージをぼんやりと眺めていた。そんな彼女を見てしまった篠宮は、どこか心に冷や水を差し込まれた気持ちになる。
それは彼女に対する不満や苛立ちの感情などではない。
それは、僅かに芽生えた不安のようなものだった。
物憂げな表情は退屈が故のものではないだろうか。――篠宮はそう考える。彼女は自分の意思を汲んで水族館に行かないかと提案してきたのだが、果たして彼女はこの時間を楽しんでいるのだろうか。ただ、自分に付き合っているだけなのではないだろうか。
それに対して罪悪感を抱くことは無い。提案は彼女からしてきたことで、無理に連れてきた訳ではないのだから。だが、それでも、心の隅で親しい人物との行楽に胸を弾ませていたから、寂しいと思う感情もあった。
篠宮は微かに表情に陰りを落とし、『つまらないですか』と彼女に尋ねようとした。しかし、聞けばまるで責めているようではないかと思い直して、口を閉ざす。
それでも篠宮は膿を抱えたまま目を背けることができず、畑野に視線を投げた。
「……つまらないですか?」
尋ねた途端、彼女のぼんやりとした瞳が実像を帯びるように焦点を得る。畑野は驚いたように見開いた瞳を篠宮へと向け、驚きに言葉も紡げぬまま口を噤み続ける。
「ずっと暇そうな顔してます」
いつもの癖で、彼女に対しての言葉が少しだけ喧嘩腰になってしまいそうだったが、どうにか口を抑えて冷静に尋ねる。畑野はしばらくしてから自らを叱責するように額に手を当て、「……ごめん」と詫びた。
殊勝に詫びるものだからそれ以上何かを言うこともできず、篠宮は押し黙る。嘘でも『そんなことないよ』と言ってくれればお互いに楽だったのだが、目の前の人物がそういう嘘を吐くような器用な人間ではないと、篠宮は今までの付き合いで知っていた。
畑野はしばらく悩ましそうに唇を噛んで俯いていたかと思うと、徐に顔を上げて篠宮を見た。その表情は、酷く辛そうだった。
「つまらない訳じゃないわ。ただ――考え事をしていた」
「……考え事?」
「『辛くないですか。誰にも評価されないのって』」
かつて篠宮が彼女に尋ねた言葉を、彼女はなぞるように繰り返す。
忘れてなんていない。あの時、彼女の芸術に対するひたむきな生き様が、そう生きられる心の強さが羨ましく、妬ましくて投げた言葉だ。それに気付くと同時に、彼女の考え事が自分に関わるものだと気付いて、篠宮は自分のことを心配してもらっている申し訳なさと嬉しさの間で複雑な表情を覗かせた。
「あれ、私に自分の姿を重ねていたんでしょ?」
続けられる畑野の指摘に、篠宮は何と言い返していいか分からなかった。
勿論、大正解だ。だが、素直に正解といえば彼女の悩みが更に深く迷宮入りするのではないかという懸念と、同時に、そう愉快に語りたい内容でもなかった。それでも、この期に及んで否定はできず、篠宮は観念したように瞳を瞑る。
「……だとしたら何ですか?」
「何か自分にできることは無いかって考えてた」
篠宮は思わず目を見開いて畑野を見る。彼女は至って真剣な表情でステージの方を見詰め、熟考していた。信じられないくらい人の好い、底抜けの善人のような、常人なら素面で言うのも憚られる綺麗事を心の底から言っているのだ。
畑野という人間は、心から自分の為に何か行動を起こそうとしている。
いや、分かっていた筈だ。彼女は冷静沈着なリアリストを気取ってこそいるが、その性質は親しい間柄の人間を捨て置けない昭和ドラマの熱血教師だ。だから分かっていた筈なのだが、それでも改めて真剣にそんなことを言うのだから、少しだけシュールで篠宮は笑ってしまいそうだった。
その癖に、そんな彼女の言葉に熱くなっていく心を自覚する。冬に、石油ストーブの前で手をかざすような心地よい温かさがそこに在った。篠宮は麺棒で滅多打ちにされたような複雑な心境の中で、目の前の不器用な人を見詰める。
誰かに認めてもらうのが好きだ。それは、色情や嫉妬の感情であっても構わない。ただ篠宮という人間がここに居ることを肯定してもらえるのなら何でも良かった。けれども、今まで経験してきたどんなものとも異なる存在の肯定が、心地よかった。
快楽や安堵ではない。ただ、ずっとそうしていないような温かさがあった。
「私も何かを作って届ける側の人間だから、アンタの抱えている苦悩は少しでも理解できるつもり。言いたくないなら聞かないけど、もし吐き出して楽になれることがあるなら、私が聞く。その苦悩が今のアンタの生き様を作ってるなら、私はそうしたい」
畑野は酷く辛そうな表情でそう絞り出す。――本当に、お人好しだ。
篠宮は緩んでしまいそうな頬を手で隠し、思案に耽る。
『篠宮』の家は、芸術家の家系だ。両親や姉どころか、血縁のある親戚の殆どがそこに属する。誰かが何かを作る度に、その世界に居る人間は篠宮の姓を讃えた。そんな中、稀代の水彩画家『楼海』は家柄や界隈、国の枠組みを越えた華々しい結果を出した。
採掘者とも呼ばれる、表面化していない深層心理における欲求や願望、感情を風景に乗せる天才だった。それが、篠宮の姉であり、両親の誇りであった。
「……家のことは、誰に何を言われても何も変わりません」
篠宮は静かにそう呟き、悲しそうな顔を見せる畑野を見た。
罪悪感が、燻った火種のように心を燻す。しかし、これは自分の問題で、誰かが何かをできることではない。弱くて逃げた自分の問題なのだから、責任転嫁はしない。それでもほんの少しだけ、彼女に心を開こうという意思が自分の中に芽生えつつあった。
篠宮は数秒だけ考えた後、仕方が無いなという表情を懸命に作った。
「でも、一度だけ。一度だけですよ? 正直に言ってあげます」
最悪なファーストコンタクトから始まり、更にはお互いがお互いの生き様を尊重できない関係だけれども。自分の為に苦悩をしてくれている相手に対して、少し心を開くくらいは、人間としては至って健全で正しい行動だろう。
怪訝そうな顔をする畑野。篠宮は少しだけ顔が熱くなるのを自覚しながら、始まろうとするペンギンショーを横目に、他の誰にも聞こえないように囁いた。
「――今、凄く心が満たされている気がします」
畑野は怪訝そうだった顔を驚きに染めた。照れくさくて、夏かと思うくらいに顔が熱くなった。篠宮は手で耳を隠したりと、焼け石に水をかけながら言葉を紡ぐ。
「絵を捨ててから……いえ、たぶん、筆を握った日から今までで、初めて。利害とか下心じゃない関係性でこういう場所に来て、お互いを見て、真面目に話して。初めて、こういう楽しさがあるんだって知ることができたような気がします」
喉が渇くくらい身体が熱くなったから、篠宮は生唾を飲み込む。正直に心を打ち明けるのがこれほどまでに恥ずかしいことだとは知らなかった。涙が出そうなくらい顔が熱くなって、彼女の目にどう映っているのか確かめるのも怖くなりながら、篠宮は少し俯く。
しかし、自分が今のこの関係性を好むのはきっと、目を見て話し合える間柄だからで、篠宮は恥ずかしくなりながらも顔を上げて畑野を見た。彼女は自分の打ち明けた本心を、信じられないとでも言いたげな表情で見ていた。ほんのりと朱を帯びた頬はきっと、彼女も少し照れくさいからなのだろう。
性行為やお泊まりと、色々な一線を越えた後に今更、お互いに何を恥じているのだか。
滑稽だったが、そんな関係も居心地が良く思えた。
「色々と心配してくれているのは凄く嬉しいですけど、今、私は先輩のお陰で楽しいです。だから、あまり余計な心配ばかりしないでください」
正直な言葉はこれで最後だ。伝えるべき言葉は伝えた。篠宮は熱い顔を手で扇ぎながらふい、と畑野から顔を逸らす。彼女が連れてきてくれた水族館で、見たかったペンギンショーを見るのだ。これ以上は、余計な会話なんてしていられない。
ちらりと、畑野を盗み見れば、彼女は驚いたままの表情で硬直している。何か言ってくれればいいのに、とモヤモヤを心で抱えた篠宮の隣で、畑野がようやく動き出す。
彼女も少し照れたような表情を見せた後、小さく笑った。けれども、そんな笑みでは感情を抑えきれないと言いたげに、しばらくして、心の底からの嬉しそうな笑みを見せた。
「そっか。よかった」
たったそれだけの言葉と、彼女にしては珍しい無邪気な笑みを見た途端、篠宮は何かが自分の心を締め付けるような感覚を覚えた。ドクドクと跳ねだす心臓と、呼応するように熱を帯びる血液と身体。腹の奥が疼くような飢えを感じた。
けれども篠宮は心の奥底に抱き始めたそれから目を逸らし、ステージを見た。
「……始まりますよ」
「ああ、うん。そうね」
篠宮は締め付けるような甘い痛みを覚える胸を押さえ、話題を必死に逸らす。
先程の憂いを全て捨て、心から楽しむようにステージを見る畑野を横目に見た。今度は自分がステージに集中できていない様を嗤うように客観視しながら、篠宮はふと、置かれた畑野の手を見る。忙しなく跳ね続ける鼓動を押さえるように胸に当てた手に力を込め、彼女に聞こえないよう深呼吸をした。
何か行動を起こさないとどうにかなってしまいそうで、彼女を恨んだ。
――全て、貴女のせいだ。
そんなことを言い訳がましく胸中で呟き、篠宮は自らの手を、置かれた畑野の手の上に重ねた。逃がさないように人差し指を絡めて。驚くようにこちらを見る畑野だったが、篠宮は熱くなる耳をそのままに、ステージを見続ける。
大丈夫、昔から自分はこういう人間だ。
誰かに色目を使って、自分を認めてもらって。だから今もきっと、『またやってるよ』くらいにしか思われていないだろう。少しの不安と緊張を抱えたままステージを見詰めていると、やがて、畑野は自身の人差し指を少し曲げ、篠宮の指を掴んだ。驚いて彼女を見そうになるが、それを懸命に堪える。じわり、と心の奥底から湧き出てくる感情に気付かないふりをして、それからようやく、ステージに集中することができた。
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