第7話

 背もたれに背を投げたまま、手も動かさずにディスプレイを眺める。


 文章の最前線で点滅し続けるカーソルを意味も無く眺めて、ただ思索に没頭した。


 思考の海に溺れるようにして考え込むのは篠宮という女のこと。昨晩、新藤より告げられた彼女の境遇が頭にこびりついて離れなかった。どこかに流すように冷水を呷れば思考はクリアになるものの、それは都合が悪いことから目を背けることと同義ではない。寧ろ鮮明に、払っても消えない靄が頭の中で渦を巻く。


 彼女の歪な承認欲求のルーツは、その生まれと育ちにある。


 畑野が嫌悪する彼女の生き様は、その環境が要因となっていた。


 だから、何だと言うのだ。


「――知るか」


 合理性を重んじる節のある自分自身の問いをばっさりと切り捨てた。深呼吸やら溜息やら判断もつかぬ呼吸の末に背もたれに身体を投げ直す。


 何故自分はこんなことばかり考えているのか。自分は自分に何をしろと訴えているのか。合理的な回答どころか自分の感情すらわからないまま思索に耽ったところで、解を求めようとしていない数式と睨み合うようなもの。その行為に意味は無く、やがて、畑野は思考を放棄することにした。


 代わりに取り出したのはスマートフォンであり、畑野はそれを少しの間、眺める。


 少し悩んだ後に、指は篠宮の連絡先を追う。画面いっぱいに表示される彼女の連絡先と、小さな受話器のアイコン。それをもう一度見つめて、歯を食い縛ってコールした。


 静かなアパートの一室にコール音が小さく響く。数回鳴って、繋がった。


『はい? 先輩?』


 疑問符を言葉尻に宿した篠宮の怪訝そうな声が迎え入れた。


 感情任せに彼女と電話をするべきだと考えた畑野は、同時に、彼女に何を言うべきか決まっていないまま電話をしていることを思い出し、一瞬、言葉に詰まる。


「あ、うん。私、畑野」


『黒電話じゃないんですから、そんなの発信者を見れば分かるんですよ。馬鹿ですか? 私の投げた疑問は休日のこんな時間にいきなり電話を掛けてくるその大層な用件は何か、速やかに答えろという挨拶です』


「悪いんだけど会話でZIPファイルは使わないでほしいわ」


『温かく綺麗な言葉で解凍してください』


 鼻で笑いながら随分なことを言ってくる篠宮に、何か言い返したくなる。


『それで、本当に何の用ですか?』


 しかし、続いた篠宮の言葉に口を噤んでしまう。改めて用件を聞かれると、彼女に特段の用事があったわけではないのだ。ただ、心の中の靄を晴らす手段は、きっと彼女との対話の先にあると思っただけ。


 しかし、間違っても『篠宮と話したかった』などとは言えまい。「あー、その」と言葉を探すように声を絞り出していること数秒、返答はそれでも出てこない。


『え、ただ掛けただけですか?』


「あ、いや。用件はあるんだけど」


『だったら早く言ってください。私の人生のリソースを先輩に割きたくないです』


 辛辣な言葉だが、無意味な時間の浪費をさせてしまっている現状を鑑みると言い返せまい。畑野はしばらく悩むも、ただ会話するだけでは胸の奥、頭に渦巻く靄が晴れないものだから、ここはいっそ、腹を括って核心に迫る話をするべきだと覚悟を決めた。


「……その、篠宮と話がしたかった」


『うわ、キモっ!』


 畑野は青筋を浮かべながら反射的に通話を切る。通話終了の画面を眺め、沸き上がる怒りで思わず笑ってしまいながら、歯を食い縛ってスマートフォンをベッドに投げ捨てた。「あのクソ女!」と思わず叫ぶ。「どうして私がアンタのために悩まないといけないんだ馬鹿が!」と、怒りに任せて続け、額に手を当てながら深呼吸を繰り返す。


 もう知るか、好きに生きればいいと椅子に座り直す。


 すると、枕の方まで飛んで行ったスマートフォンが、軽快な電子音で着信を訴えた。「む」と唸りつつ振り返れば、遠くで『篠宮』の名前が表示されている。畑野は少しだけ悩んだものの、こちらから掛けた手前、無視はできまいと立ち上がった。


 渋々とスマートフォンを拾い上げて着信に応じた。


「はい、こちら畑野」


『こちらから発信してるんですから、そんなの分かるに決まってるじゃないですか。それより、自分から掛けておいて急に切るとはどういう了見ですか』


 反射的に親指が通話終了を押そうとしたが、鋼の理性で堪えた。


「……悪かった」


 どちらかが大人にならねばならないだろうと、畑野が殊勝に詫びた。そんな謝罪を受けて、調子が狂うとでも言いたげに言葉を詰まらせた篠宮は、不満そうに唸りつつ溜息をこぼした。『別にいいですけど』と篠宮は寛容に許す。


『で、何の話をしたかったんですか? 暇なので少しだったら付き合ってあげます。ただし、一分に一回私を笑わせなかったら切ります』


「イロモネアかよ」


『ふぐっ……ん、に、二分の会話を許します』


 思わず噴き出した篠宮は、声に笑いを宿しながら、素直に二分の会話を許してくれた。仕掛けてくる割には弱い彼女に、畑野は切り出す。


「……最近、色々と話す機会があって、アンタのことが分かってきたような気がしている。でも、アンタのことを知る度に人に媚を売る生き方が気になって仕方が無くて、身勝手だって重々承知してるけど、悩みを解消したくて電話した」


 畑野は伝えるべき言葉を少しずつ紡ぐように頭の中で整理しながら言葉に書き起こしていく。詩を紡ぐように伝えた言葉を聞いて、彼女は『……そうですか』と、いつもの軽口を吐くこともしない。どこか、噛み締めるような気配があった。


「人の生き様に口を出せるほど立派な人生を送っていないし、誰かに認めてほしいと思う感情も私は理解できる。だけど……」


『……一回エッチしただけで彼女面ですか?』


 拗ねるような、僅かな不快感を声に宿した篠宮の言葉だったが、そこに拒絶する意思は見られなかった。立場上そうしなければいけないと考える者の、素っ気ない言い方だ。分かっている――彼女はこういう真剣な話をするとき、口では茶化すかもしれないが、心では面と向き合っている。だからこそ、人から認められることに飢えるのだ。


 畑野は電話越しの彼女の顏を想いながら胸中を明かす。


「彼女面をした覚えはないけど、友達面はしてるかもしれない。急に電話を掛けて、上から目線で――悪いとは思ってる。ごめん」


 篠宮は珍しく言葉に詰まった。数秒、静かで規則的な呼吸音だけが微かに聞こえてくる。やがて、溜め込んだ何かを噛み締めた後、吐き出すように溜息を捨てた。髪を掻くような音と、どこか吹っ切れたような声が聞こえた。


『――タオル』


 タオル。そんな脈絡のない言葉に眉を寄せる畑野だったが、続く彼女の思いがけぬ言葉が疑念を払拭した。


『まだ弁償してないので、その分と相殺してくれるなら会います』


 先日、彼女と同じ部屋で自慰に耽った時を思い出した畑野は思わず咽そうになりながらも、自分でも忘れかけていたものをよく覚えているものだと感心した。それに、そう不快感を抱かなかった畑野は構わず洗濯して使いまわしているので、特に弁償代を請求する意図は無い。


 ただ、それが方便だということは分かっている。


 畑野は彼女の意外な申し出に驚きつつも、頷いた。


「……分かった。大学最寄りの駅前で」








 改札を抜け、駅構内も抜ける。昼下がり、夕刻にも迫ろうかという時刻の肌寒さを和らげる日差しを受けながら、畑野は晩秋に白い吐息を漏らして視線を巡らせる。


 休日の夕方というだけあり人混みは随分だったが、数秒も辺りを見回せば、すぐに篠宮の姿は見つかった。駅舎の壁に背を預け、ぼんやりとスマートフォンを眺めている。


 余人が思わず振り返るような美貌を持つ彼女が目を引かない道理も無く、すぐに見つかった彼女へと畑野は歩み寄っていく。近付けば、彼女もこちらを視認した。


「篠宮」


 呼び掛けながら歩み寄れば、彼女の深い黒の瞳が畑野の顔を覗き込む。上機嫌でも不機嫌でもなく、ただ少しだけ物憂げな調子の表情だった。彼女は言葉を発することも無くスマートフォンを鞄の中に押し込んで、駅舎に預けていた背を離す。しばらく畑野の顔を眺めていた篠宮は、憂うように深い嘆息をこぼした。


「何やってるんですかね、私。休日に先輩の顔を見るとか」

「そりゃこっちも同じ気持ち。我ながら変なことしてる」


 畑野は額を抑えながら小さな溜息をこぼして、しかし小さく首を振る。


「……来てくれてありがとう。協力的で驚いた」

「タオルの弁償代ってだけですよ。それに――ちょうど、気分転換に出かけようと思っていたので。そのついでです」


 その言葉の真偽は定かではなかったが、彼女がそう言うのならそういうことにしておこう。畑野とて、ああいった真剣な話を電話だけで終わらせるのは難しいだろうと考えていた。畑野が微かに笑うと、篠宮はそんな表情をむっとした顔で一瞥し、呟く。


「それで? 後輩を呼びつけておいて駅前で立ち話ですか?」


 すぐにいつも通りの辛辣な彼女が戻ってきて、畑野は苦笑をする。


「そりゃ悪いとは思うけど、私と一緒に落ち着く空間に行くよりマシでしょ」

「ああ、まあ、そうですね。先輩とデートするくらいなら下水で平泳ぎします」


 性病より先に破傷風にでもなりそうな話だった。


「とはいえ、私は人に甘やかされないのが嫌いです。私のご機嫌を窺ってください」


 どうやら駅前の立ち話より下水の平泳ぎの方がマシなようで、彼女からそう申し付けられる。勿論、自分から彼女に連絡を取った手前、要請があればその場を設けよう。


「分かった分かった――近くに美味しいクレープのフードトラックを知ってる。近くに利用できるテラス席もあるから、そこにしましょう」


 幸いにも同じ講義を受けている女生徒の中に、こういった話に詳しい人物がいるのだ。積極的に輪に入ろうとする人間ではない畑野が親しいと言える数少ない相手だ。そんな人物から以前に聞いた話を思い出し、その方角を目で探す。


「クレープ」


 小さく呟いた篠宮の目が微かに興味を示し、口元が高揚感に緩む。


 露骨に興味津々な彼女は、けれどもそれを隠そうとするように唇を噛んで表情を引き締め、そわそわとし始める。性器と酒しか口にしない種族だと思っていたばかりに意外だったが、年相応の可愛らしい反応に、小馬鹿にする気にもなれなかった。


「奢ったる」

「当然です」


 やはり、可愛くない女であった。




 休日、都心の人気店というだけあり、テラス席は満席に近かった。


 ちょうど二人が人気メニューの中から選んだクレープを持って席を探す頃、木陰の風情あるベンチ席が空いた。畑野が視線で促せば篠宮はそこに腰掛ける。


 目はクレープに釘付けだった。


 枯れ葉もほとんどない、清掃の行き届いたベンチに座した畑野は、篠宮からの物言いたげな視線に気付く。彼女を見れば、クレープに口を付けぬまま畑野の許しを待っているようだった。存外に律儀なものだと苦笑しつつ、「食べましょ」と促した。


 揃って「いただきます」と告げ、クレープを口にする。途端、綿菓子を噛んだのかと錯覚するような柔らかさに驚く。驚き、口からこぼしてしまいそうだった。ザラメのような主張の強い甘みではなく、果実やホイップの滑らかで瑞々しい甘みが上質な生地に包まれて、なるほど、と畑野は得心する。人気が出る訳だ。


 スイーツ類は得意な方ではなかったが、これは熱中してしまいそうだ。そんなことを考えながら篠宮の方を見れば、彼女は口の端にホイップを付けながらクレープに夢中になっている。目を輝かせながら嬉しそうに食べるその様がどんぐりを齧るリスのようで、邪魔しないようにしてやろうと、畑野は本題を切り出すのを待つことにした。


 ふと、篠宮の丸い瞳が食べ掛けている畑野のクレープを盗み見ていることに気付く。


 畑野が購入したのは、店名を冠したまさしく王道といった商品。


 対して、彼女は彼女の好物らしい柑橘類をふんだんに使用した逸品で、その事実と行動から、言葉にせずとも『一口よこせ』という意思が伝わってくる。仕方が無いと笑いながら、畑野はクレープの口を付けていない方を差し出した。


「ほら、一口だけね」


 彼女はクレープを飲み込み、葛藤を瞳に示す。


 しかし、「べ、別に」と絞り出すような声色で視線を逸らして食べ終えてしまいそうな自分のクレープを見た。「別に、いい……です」と。


 寸前で働いた理性を讃えながら「あっそ」と構わず残りを食べようと口元にクレープを運ぶ畑野だったが、直前、篠宮の手が畑野の腕を掴む。見れば、非常に悔しそうな表情を浮かべて視線を逸らしながら阻止してきていた。


 呼びつけた手前、負い目もある。素直に言えば渡すのだが、どんな意地を張っているのだか。呆れつつも愉快になりながら、畑野は無言で彼女にクレープを差し出す。


 差し出されたクレープと畑野を順番に見た篠宮は、恐る恐ると言いたげに口を開く。畑野が食べた部分に構わず口を重ねると、そこを口にした。


 途端、彼女は驚くように目を見開き、もぐもぐと口を動かしながら興奮を瞳に宿す。好物に関しては感情表現が豊かで素直で、そんな彼女の知らない一面を微笑ましく見守っていると、一転、彼女は少しだけ不服そうな表情をした後に、食べ終えてしまいそうな自分のクレープを見詰め、畑野の口元に差し出した。


「……等価交換です」


 渋々と差し出している。それだけ美味しそうに食べられるのなら篠宮が食べたほうが店も喜んでくれるだろうと思うものの、瞳には畑野が食べることを期待しているような気配があった。好物を共有したいような、そんな感情を垣間見て、畑野は柑橘のクレープを口にした。ほんのりと、晩秋の風に紛れるような柑橘の風味が奥深い味わいを感じさせてくれる。なるほど、どちらかといえば、こちらの方が好みだった。


「こっちのが好きかも」


 素直に言うと、なぜか彼女は誇らしそうにしながら残りのクレープに口を付けた。




 数分後にはお互いにクレープを食べ終え、包み紙を折り畳みながら人気の少なくなりつつあるテラス席を眺める。フードトラックも閉店作業を始めた。


 篠宮はそんな情景を眺めながら、風に乗せるように言葉を紡ぐ。


「フードトラックって、なんか良いですよね」


 あまりにも漠然とした切り出しに困惑しながらも、僅かながら言いたいことは理解できた。とはいえ、彼女からまるで友人のような、そんな話題が出てくることには驚いた。


「珍しいわね、アンタがそういう感性を持ってるの」

「普通の生活を送っていたら見せる機会が無いだけで、元々そういう人間ですー」


 篠宮は唇を尖らせて反感の意を示し、懐かしむように続けた。


「少し前、動画配信サイトでそういう洋画を見たんですよ。一流のコックがホテルを追い出されちゃって、ぎこちない関係だった息子とフードトラックをやる話」

「……『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』」

「そう、それ!」


 篠宮は即座に出てきた完璧な回答に表情を明るくさせた。畑野は、寧ろ彼女があの作品を知っていることに驚く。悪感情に染まった顔しか観ない種族だと思っていた。


「よくすんなり出てきましたね、オタク君じゃないですか」


 不適切なレッテルには異議を唱えたいものの、褒められて悪い気はしない。


「映画が好きなのよ。ストーリー構築も、演出だって小説に活かせる。名作と言われる映画の多くは神話を基に解析された『神話の法則』ってのに則られていて、その法則は小説にも転用できる。完全一致とはいかずとも名作漫画にも活用されていて――」


 彼女が映画を観るという驚きや少しの喜びもあって、朗々と語り始めるも、そんな畑野を見ていた篠宮は楽しそうに笑う。


「あー! 得意分野で早口になるオタク君だ!」


 「むぐ」と思わず言葉を詰まらせた畑野は、その指摘が完全な図星であることを自覚する。少しの恥ずかしさを覚えながら、拗ねて唇を尖らせた。「意外と人間味がありますね」と篠宮は頬を緩めた後、僅かばかり畑野に寄り添うように呟く。


「でも、真剣に挑んでいること自体は絶対に馬鹿にしませんからね」


 小馬鹿にしたような笑みではなく、畑野の向こう側に誰かを見るような寂しさと温かさを宿した笑み。初めて見せる彼女のそんな顔に思わず言葉を忘れた。


 彼女はベンチに背を預けると、風に落ちた葉を目で追い、語る。


「あの作品って世間的にはハッピーエンドのコメディタッチなサクセスストーリーって評価をされてると思うんですよ。追い出された一流コックが昔の自分すら追い越す」

「ストレスフリーな作品だった。明るい、前向きになれる個人的に好きな作風ね」

「創作物では気が合いそうですね。創作物では」


 どこか含むような笑みを浮かべる篠宮に、「そうね」と畑野も笑って返す。


「私……あの作品が好きなんですよ。仕事一筋だったお父さんが、失業を切っ掛けに子供と向き合いながら新たな道を模索する。子供はお父さんの背中を見ながら自分の道を進んで、お互いの良い影響を受けて二人とも一歩、成長をする」


 篠宮は人差し指を二本、道を示すように水平に伸ばして重ねる。交わる道を示した所作を見ながら、存外に中身をしっかりと見ていることに感心する。同時に、心のどこかで彼女を軽視している自分が居たことを恥じた。


「良い関係だな、って」


 そして、その親子愛を作品の魅力だと語る彼女の言葉から、畑野は脳に焼き付いて消えない一つの水彩画を思い出す。『辛くないですか。誰にも評価されないのって』と、次いで目の前の少女がかつて語った言葉を反芻した。


「篠宮は、家族との関係は?」


 畑野はここが好機だと判断して本題を切り出した。


 思いがけない話をされたようで、篠宮は驚きに言葉を詰まらせる。嗅覚が鋭いとでも思ったか、或いは何かを知っていると気付いたか。どちらにせよ、彼女は素直に全てを語ることはしない。曖昧な笑みをこぼすと、曖昧な言葉で濁した。


「まあ、フツーですよ」


 自分が何のために、具体的に何をするためにここに来たのかは自分でも理解できていない。しかし、彼女の取り繕った笑みを剥がすためであることは間違いなく、虚飾に塗れた言葉を否定するためでもあった。


「新藤から話を聞いた」


 畑野がそう切り出すと、篠宮は小首を傾げる。


「アンタのお姉さんは海外に個展を開くような画家で、篠宮家は芸術家の家系だって」


 彼女の瞳が大きく丸く開かれ、瞳孔が突き刺すように畑野を捉える。


 篠宮は唇を引き結んで、それから視線を逸らして瞳を閉じる。その様は観念して抵抗の意を捨てた者のようだった。畑野は次いで彼女の境遇や承認欲求について、説教のような質問を投げかけようかとも思ったが、その表情に断念した。


 代わりに、言葉を発さずに彼女の返答を待つ。


「……新藤さん、そんなことを知ってたんですね」

「アンタのお姉さんと元同級生だったみたい」

「なるほど、お姉ちゃん目当てだったんだ」


 特に悲嘆に暮れる様子もなく、得心したように呟いた。


 そして、先程の畑野の言葉を認める。


「――正解です。合ってます。私のお姉ちゃんは半年前にニューヨークで個展を開催した水彩画家の『楼海』で、私の家系は代々伝わる由緒正しき芸術家の家系です」


 遠い空の雲の動きを伝えるように、酷く遠い世界の出来事を他人事のように語る。


 確信を得ていたが、彼女の口から認められると、その事実が一段と重く圧し掛かる。邪推ばかりが湯水のように湧いた。彼女の抱く歪な欲望はその家系に関係しているのではないか、彼女が綺麗な親子愛に憧れたのは、良好な関係を築けていないからではないか。


 しかしそれは根拠の薄い憶測で、だから言葉にはしない。


 だが、何も言わないなんてことはできず、畑野は険しい顔をしながら懸命に言葉を探す。彼女を傷付けず、しかし、本題を聞き出すにはどうすればいいだろうか。悩み始めて数秒、彼女はそんな畑野の表情を見て苦笑した。


「もしかして、落伍者を励まそうとしてます?」


 落伍者――落ちぶれた人間。自らを卑下する彼女に、畑野は反射的に言い返しそうになるも、畑野とて彼女のそういう一面は好ましく思わず、むしろ、貶すような思想の持ち主だ。卑下する彼女を咎めることはできず、言葉を絞り出す。


「私は……何度でも言うけど、承認欲求を満たすために誰にでも媚を売るアンタの生き様が嫌い。でも、さっきみたいな飾らない一面は好意的に思う。もしもアンタの今の生き方と芸術が何らかの関係を持っているなら――何か、できることはないかと思って呼んだ」


 畑野は飾ることをせずに、自分でさえ曖昧なままの自分の感情を懸命に言葉に紡いだ。思いの丈を真っ直ぐに伝えると、篠宮は驚きを隠さず表情に浮かべる。


 しばらく物珍しそうに畑野を見ていた篠宮は、噛み締めるように微笑む。しかし、微笑みも束の間、悪戯っぽい笑みに変えて畑野を小馬鹿にした。


「……過保護だし、独り善がりで気持ち悪い。あれだけ私のことは嫌いだとか言った癖に、ちょっと気持ちよくしてあげたら手のひらクルクル。一匹狼気取ってるくせに人に優しくするの、ちょっと狙いすぎ」


 ずけずけと凄まじく辛辣な暴言の数々を吐いてきて、畑野は心が折れてしまいそうだった。そこまで言われるような酷いことをしたかとも思ったが、思い返せば散々な態度を取っており、彼女の言っていることも間違いではなかった。


 しかし、その時。篠宮は見慣れぬ表情を浮かべた。


「変な人ですね。きっと絶滅危惧種に違いない。でも――」


 それは人を食ったような笑みでも、不機嫌そうな顔でも、媚を売るときの仮面でも、先程のクレープを食べて嬉しそうな笑みでもない。まるで友達に向けるような、ほんの僅かな他意も無い穏やかで友好的な笑みだった。


「――ありがとうございます。大丈夫なので気にしないでください」


 その瞬間、畑野は『篠宮』という人間の本質をそこに見出した。


 畑野は自身の厚意を拒まれることに不満を抱くことは無かったが、少しだけ、ほんの僅かだけ寂しかった。しかし、彼女がそう言うのなら、これ以上言及することはしない。「そっか」と意識的に優しい声で呟き、彼女から包装紙を奪い取って立ち上がる。


 これ以上、彼女とそのことについて会話する意味は無いだろう。暗くなる前に彼女を送り返さねばと、包装紙をゴミ箱に入れながら駅の方面を視線で示す。


「そろそろ帰りましょう。送るから」

「そうですね。ご馳走様でした」


 篠宮は鞄を提げて立ち上がり、畑野の後を追うように歩き出す。


 来る時よりも少しだけ、二人の距離は縮まっていた。互いに、そんなことを意識することも無く駅へ向かっていると、不意に篠宮が立ち止まった。


 何かあったのかと振り返れば、彼女は立ち止まって隣の書店を見ていた。ガラスの奥には本棚と無数の書籍が並んでおり、興味があるのだろうかと様子を窺う。しかし、少し経って彼女の瞳が捉えているものが、店内ではなく店のガラスに貼られたポスターに向いていることに気付いた。


 幾つかポスターが貼られていたが、篠宮の視線を辿った先にあるのは――


「――水族館?」


 駅の近くで経営されている、国内屈指の規模を誇る水族館だ。社会的な生活を送っている者の多くはその名前を知っているだろう。東京湾くらいしか所縁の無いこの都心において、それでも尚、有名と称するのに憚らない施設だ。


 篠宮はポスターを眺めながらぼんやりした調子で呟く。


「そういえば、この辺りでやってたなぁって思って」

「水族館ねえ。好きなんだ?」


 意外に思いながら尋ねれば、彼女は素っ気なく首を振る。


「別に、そんなことは。ただ……ペンギンショーが」

「ペンギンショー?」


 うわごとのように呟く彼女の言葉を確かめるように、ポスターに描かれた、水族館のセールスポイントらしいショーの開演時刻を見る。次の開演は二十時で、今は十七時過ぎ。随分と余裕がありそうだった。


「少し前に演劇サークルの飲み会に行った時、ここに行く機会があったんです。その時はちょうど、ペンギンショーが始まるって時間帯だったんですけど、皆セックスのことばかり考えて、十分くらいで出ることになったんですよ。まあ、私のお金じゃないから別にいいんですけど……」


 ポスターを寂しそうに見つめる篠宮の横顔は、年相応の女の子に見えた。


「……ちょっとだけ、楽しみにしてたんですよね」


 ぽつりとこぼした篠宮の本音に、畑野は少しだけ笑う。彼女のことだ。こと畑野という人間に対してはそんな下心は無いのだろうが、目の前でそんな話をされれば無視できない類の人間だということは察しているだろう。


「行く?」


 ほんの数週間前までの自分だったら考えられないような提案をすると、篠宮は言葉の意味を理解できない様子で目を丸くする。たった二文字、二音の簡素な言葉を咀嚼するのに多大な時間を要して、それからようやく、自分の言葉がまるで誘ってほしそうな人間のそれであったと気付いたのだろう、恥ずかしそうに頬を染めながら慌てて否定する。


「い、いや! 勘弁してくださいよ、デートのお誘いですか!? これだからモテない女は困るんです、ちょっと優しくすると勘違いするから。下心が見えすぎて半分くらい下心が本体になってますもん! 下心で先輩が見えない! 膣から声出てる!」

「アンタほんと、罵倒のボキャブラリーだけは豊富ね」


 照れ隠しもあるのだろうが、凄まじく豊富な語彙にいっそ感心するばかりだった。とはいえ、彼女が嫌がるなら無理に連れていくことはあるまい。


 それに、本当に気になるなら、いつか一人で行くだろう。そう判断した畑野は「冗談よ。さっさと帰りましょ」と駅の方面へ歩き出そうとする。


 だが――歩き出した畑野の服の袖を、小さな指がつまんだ。


 止めるほどの力は無く、しかし、それは畑野の歩みを止めるには十分だった。


 振り返った畑野が見たのは、蒸気でも出そうなくらい顔から耳までを赤く染め、俯く篠宮だった。


「……期待だけさせるのやめてください」

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