第6話

 陽も暮れる頃、畑野は薄暗い部屋で印字も読めなくなったキーボードを叩き続ける。


 彼女を自宅に泊めたのも既に随分と前の話。あれから一週間、今日まで全くと言っていいほど篠宮と会う機会は無かった。ほんの少しだけ彼女のことを気に掛ける自分が居る反面で、自分の中に行動を起こす動機が無いのも事実だった。


 だから、ただ小説を書き続ける。誰に評価をされることが無くとも、誰かに評価をさせるために。


 畑野は文字の奥で苦悩と葛藤を抱き、足掻き続ける二流ストライカーを見詰める。


 サッカーを始めたのは小学生の頃。近所に住んでいる幼馴染と一緒に始めた。それから小学校、中学校、そして高校と同じ場所、同じ組織でサッカーをし続けた。


 主人公と幼馴染は共に、双翼と称されるまでに華々しい活躍をし続けるも、そう呼ばれていたのは中学校の半ばまで。チームが勝ち進めば勝ち進むほど優秀な選手たちを目の当たりにして、その壁を乗り越えられたのは幼馴染だけだった。


 同じ環境で同じ努力をしてきた筈の凡人は、隣に居た筈の幼馴染の姿が、いつの間にか遠く見えない先の方に居ることに気付いた。そうして才能と実力の差を痛感した高校サッカーで、平均より少し上程度の実力を買われてレギュラーの座を勝ち取った主人公は、今まで通りに幼馴染とツートップを張った。


 そして、誰もがその二人を比較した。


 誰も認めず、誰も期待せず。そうして潰れそうになっていく主人公は、それでも折れずに足掻き続けるのだ。そして最後には、努力が報われて勝利の鍵を――


「――」


 ピタリ、と畑野の手が止まる。


 画面の中、文字の向こう側。主人公が逆転のシュートを叩き込んだまま、その世界は完全に停止する。何かが足りなかった。ただ、努力は報われるんだという安直なテーマやメッセージを描いたこの作品は、確かにスポーツものの作品として大事な部分を抑えているだろう。だが、必要な部分を抑えているだけでは、埋もれるばかりだった。


 劣等感に苛まれ、努力も報われず、誰からも期待されなくても折れなかった主人公が、最後にチームを逆転に導く。そんなサクセスストーリーもどこか陳腐に感じられた。何か一つ、この作品に胸を張れるだけの個性が欲しい。


 誰もが訴える綺麗事ばかりを描くなら、絵本の方がずっと大衆向けだ。


 畑野はしばらく考え込んだ後、深いため息を吐く。それから、メモ用のテキストファイルを開くと、直近の数万文字を勢いよく切り取って貼り付けた。


 大本のテキストファイルに数回の保存をかけ、畑野はキーボードとマウスから完全に手を離した。額に手を当てながら、回転椅子で揺れる。


 もう少し書きたくはあったが、既にデスクに着いて三時間だ。集中力も切れかかっており、区切りがいいこの辺りでプロットを詰め直すのも悪くないだろう。ぼんやりと思索に耽るか、映画でも観るか。気分転換に散歩でもいこうか――そう考えた畑野の頭に、不意に篠宮の姿が過る。


 先週の晩に見せた、不貞腐れたような表情。


 誰にでも愛嬌を振り撒いて股を開き、性で篭絡して自身を安売りしようとするその破滅的な生き様を嫌悪する反面で、不意に覗く彼女の本性の部分は、遊び相手を探す寂しがりな少女にも見え、放っておけないとも思っていた。


 我ながら単純でお人好しだったが、自分から彼女に連絡を取ることはしない辺り、その善性は表面上のもので、自分自身は偽善者に過ぎないという自覚もある。


 少しだけ悩んだ畑野は、自分に言い聞かせるように呟く。


「散歩に行くだけ」


 そう、散歩に行くだけで、ふらりと立ち寄った酒場に彼女が居ることを期待している訳ではないし、どこにも彼女が居ないことを期待している訳でもない。








 ネオンライトは好きだ。


 世間一般に健全と称賛されることの多くない夜の店は、しかし、それを経営する者の多くもまた誇りを持って営んでいる。そこに通い詰める者達は、その情熱に惹かれる蛍のようなものであり――或いは、蛾とも呼べてしまうのかもしれない。誘蛾灯に惹かれる羽虫のような気分で、夜の帳が下りた駅前を散策する。


 秋の夜風を肺一杯に吸い込むと、少しだけアルコールの香りがした。


 当てもない散歩の筈なのに、道行く居酒屋のガラス越しに店内を見ては、彼女の姿を探してしまう。居ないことを確認しては、微かな安堵と共に寂寥感を抱いた。彼女に友愛や恋愛、親愛といった感情を持っていることは無いが、例えるならば――そう、思い詰めた表情で屋上の柵を乗り越えようとする人間を止めるような、心の底から望んでいる訳ではないのに、その手段を是とする生き様を否定するための衝動だった。


 ぶらりと、静かに歩き続ける畑野。ふと、コンビニエンスストアの脇を抜けようとした頃、知った声が畑野を呼び止めた。


「よう」


 その人を食ったような愉悦を声色に宿す人物を知っていた。


 畑野は思わず足を止め、意外そうに眉を上げるとその人物を見た。


「新藤」

「散歩か? 珍しいな」


 上背に美形、すらりとした体躯。手には酒や菓子類の入ったビニール袋。これから飲むのだろうか。同大学の文芸同好会所属、志島の幼馴染である彼は、驚く畑野と対照的に軽い笑みを浮かべて手を上げた。




「誰か探してたのか?」


 雑踏から少し離れた途端に人気は少なくなる。蛍光灯が駐車場を照らすコンビニエンスストアのゴミ箱脇で、畑野は温かい缶コーヒーを啜る。電子タバコを加熱し、静かにニコチンを補給する新藤の問い掛けに、脳裏を過るのは篠宮。


 脳内の彼女から目を逸らし、畑野は「いや」と素っ気なく呟く。


「散歩よ。行き詰まってね」

「小説か」

「ええ、生憎とアマチュアなもので。ぶっ続けで数時間はできないの」


 畑野は苦い珈琲を呷り、蛍光灯で伸びる自身の影を見る。隣でニコチンを頭に行き渡らせた新藤は、減りつつある喫煙スペースでの喫煙を噛み締めつつ、「そうか」とこぼす。


「お前が退会した後の文芸同好会だけどさ」

「いつも通りでしょ」

「なんだ、聞いてたのか?」

「自惚れていないだけよ。アンタか志島か――篠宮あたりが抜けないと、何も変わらない。私のあの集団での役割はマイノリティだもの」


 新藤は手元のビニール袋から柿の種を取り出し、それを畑野に放る。「粗末にするな」と説教すると、「わりー」と彼は肩を竦めた。畑野が礼を述べつつピーナッツを取り出して口へ放り込むと、新藤は口を開き始める。


「……志島は寂しそうにしてたよ。ほんの少しだけ残っていた小説要素が消えたわけだからな。アイツはもう、あそこで小説の話をする機会が無くなった。可哀想に」

「そう思うならアンタも小説書きなさいよ。幼馴染でしょ」

「悪いが俺は小説になんぞ興味は無い。漫画しか読まねーんだな、これが」


 悪びれる様子もなく煙草を吸う新藤を、咎める気にもなれない。


 志島のために行動をする訳でないというのなら、どうせ女目当てで所属しているのだろう。そんなことを考えていると、見透かしたように新藤は口を開く。


「『女目当てで所属している色情魔め』――って言いたげだな」

「正解。女目当てで所属している色情魔め」

「正解だ。俺は女目当てで所属している色情魔である」


 隠す気も詫びる気も無く胸を張る新藤を横目に、畑野はため息をこぼす。悪いことと言う気は無いが、志島が不憫である。そんなことを考えていると、不意に新藤が何気なく思いついたとでも言わんばかりに「……そうだな」と口を開き始めた。


 何の話だと彼を見れば、彼はにやりと笑って語り出す。


「お前はもう部外者だし、面白い話を聞かせてやるよ」

「自分からハードルを上げるわね。一流芸人でも自分の漫才を面白いとは言わないのに」

「『ファニー』じゃなくて『インタレスティング』の方だ。ついでに、ちょっとした小話も聞かせてやる。お前なんかは特に興味を惹かれるんじゃあねえかな」


 自らハードルを上げるものだと感心する畑野は、そこまで言い切って見せる彼の言葉に興味を抱く。この男がここまで言うのだから、少なからず自分に関係している話題なのだろうと、「へえ」と呟きながら興味を示す。


「女の落とし方とか?」

「いいや、俺がこの同好会に所属している理由さ」


 畑野は怪訝に思う。先程、彼自身が女目当てだと言ったのではないか。


 訝しく眉を寄せる畑野に、新藤は得意げに頷く。


「さっきも言ったが、確かに俺は女目当てで所属している。しかし、生物学上、及び性自認における女性であれば誰でも構わない訳じゃあない。狙ってる奴が居るんだ」


 特定個人を示して『女目当て』であり、それが目的で文芸同好会に所属をしている。つまり、同好会に所属する女性メンバーの中に彼の目当ての人物が居るということだろう。彼の女好きを考えれば意外ということもなかったが、彼がそこまで入れ込むような人間が居ることは意外だと思った。しかし、だとすれば候補は限られるだろう。


「当ててみろよ」


 挑戦的な笑みを浮かべる新藤の提示する謎に、答えは一つしか出てこない。


 畑野は小学校の算数を解き直しているような気分になりながら、答えた。


「篠宮」

「正解!」


 なんだこの茶番は、と肩透かしと嘆息を少々。呆れつつ帰宅を考えていると、興味の失せた畑野の表情を見た新藤は、「――と、言いたいところだが」と続ける。一昔前のクイズ番組の司会者を思い出させる、勿体ぶった言い回しに眉を顰める畑野。


「正解ではあるものの、恐らく不正解だ」

「は? ハッキリしなさいよ、出題者」

「まあ待て、落ち着け。俺が愛するものは何か――って問題を出した時に『林檎』と返ってきたとしよう。それは確かに正解だが、今お前が想像したバラ目バラ科リンゴ属の林檎は不正解で、世界最高峰のシンガーソングライター、椎名林檎が本当の正解だ。つまり、そういうことなんだよ」


 彼が椎名林檎を愛していること以外、ほとんど伝わってこなかった畑野であった。


 しかし、漠然とは理解した。篠宮という回答は正解ではあるものの、畑野が想像した文芸同好会所属の篠宮ではない。そこに由来する別の人物、ということだろうか。


 少しだけ真剣に考えてしまった畑野は、それから残る可能性を模索する。


 そして、その中で最も高いだろう可能性を提示した。


「篠宮の……姉妹?」


 尋ねるように答えると、新藤は薄く弧を描くように唇を曲げた。


「正解」


 なるほど、外堀から埋めるべく、取り入る隙を狙っている訳だ。そう理解した畑野は思いがけぬ解答に驚きつつ、同時に、あの篠宮に兄弟姉妹が存在することに興味を抱く。彼女の肉親はどんな人物で、彼女の今の生き方をどう見ているのか。


 一人暮らしと言っていたが、それはどう影響しているのか。


 興味が湧いて、彼の言う通りに『面白い』と感じている自分が悔しかった。忌々しそうな畑野を優越感に満ちた表情で一瞥し、新藤は続けた。


「正確には篠宮の姉貴だな。元々、中学高校と俺の同級生だったんだ――中学時代に惚れて、追っかけて高校までは行ったんだけどな。振り向いてもらう前に卒業シーズン。勿論、大学も同じ場所を狙ったけど、俺にはここが限界だった」


 肩を竦める新藤。そうは言うものの、二人が通う大学も相当の偏差値を誇る、対外的には『良い場所』と呼ばれるランクだ。そんな彼が、それでも無理だったというのだから、篠宮の姉がどれほどの傑物かが窺えよう。


「相当、勉強ができるみたいね」

「そう思うだろ?」


 持ちうる情報から導き出した感想を述べるも、彼は否定的な口調で相槌を打つ。そうではないと言うのだろうか、と真意を視線で尋ねると、彼は苦笑しながら呟いた。


「勉強なんかは些末な事だ。アイツの本分は芸術家なんだよ」


 芸術家。日常生活ではそう身近に居ないだろう存在で、畑野の身の回りでは、せいぜい志島が小説家という芸術を嗜む存在か。それでも、エンタメ小説を芸術と呼ぶかは意見の分かれるところだろうが、さておいて、聞き馴染まない名前だ。


「美大に行ってるの?」

「いいや、普通に理系のすっげー偏差値高い場所。でも、芸術家としては一流だ」


 芸術の分野に馴染みの無い畑野は、今一つピンと来ないながらも、一流大学に所属しながら一流の芸術家として活動する人物を、一般人とは思えなかった。なるほど、どうやら篠宮の姉は凄まじい人間らしい。


 そんなことを考えていると、新藤は自身のスマートフォンを操作し始める。何をしているのかと視線を投げれば、彼は目当てのものを見付けたようで、「お、これこれ」と、スマートフォンを畑野に放り投げた。危なげなくキャッチした畑野は、画面を見る。


「……ネットニュース?」


 ニュース記事だ。楼海、NY個展――そんな見出しの下に、写真が一枚。


 そこには、高価なスーツを身に纏った偉い身分の外国人らしき人物と、彼と共に一枚の水彩画の前で写真を撮る、篠宮に瓜二つな女性が居た。穏やかな笑みを浮かべる彼女の奥にある水彩画を見た途端、一眼レフ越しとは思えない奥行きと没入感に、呑まれかける。


 鮮やかなパステルカラーで描かれた水面、凪の情景に心臓を鷲掴みにされた。


「バンクシーみたいな話題性のある芸術家でもなければ、一般人にはあまり馴染み無いだろうけどさ。その界隈じゃ有名だ。何せ、海外に個展を開く日本の水彩画家だ。水彩どころか、絵画を嗜む人間じゃこの雅号と篠宮の姓を知らない奴は居ないだろ」


 たった一枚、余計なものが数多くノイズとして映り込んだ写真の中の絵画に気圧された畑野は、彼が『一流』だと称した実績と実力を目の当たりにして理解し、スマートフォンを差し出して返す。


「……彼女が、篠宮の姉」

「ああ……でもって、篠宮経由で逆玉の輿を狙っているのが俺こと、新藤だ」

「アンタの情報はどうでもいい」


 バッサリと切り捨てると、新藤は軽く肩を竦めた。


 確かに、彼女と縁を結べれば生涯安泰の可能性さえある。何せ、大学生にして海外で個展。業界に詳しい人間ではないが、化け物もいいところだろう。


 畑野が自身のスマートフォンでその名前を検索すると、ズラリと実績や個展、作品、画集、Wikiが列挙される。ふと目に付いた掲示板を見れば、その異常性が語られていた。一つの書き込みに注目すれば、あと数年もしない内に、国内メディアも取り上げ始めるだろうと囁かれている。


「凄い人間が居たものね」

「本当にな。ただ――篠宮家に関しては、その人物が、というよりも『その家系が』と表現した方が正確かもしれん」


 彼の言葉に畑野は少しだけ考え、その言葉の意味を察する。


 ふと覗き込んだ篠宮姉のWikiにはその旨が記述されていた。


「祖父母は高名な彫刻家、母親は演奏家、父親は同じく画家。親戚には舞踏家や工芸家、書道家――絵に描いたような芸術一家だ。篠宮の一族は、そういう家系なんだよ」


 記載される名前の数々にはどれもリンクが添付されており、タップすれば、これまた見事で華々しい実績が記載されている。しかし、その中には畑野の知る彼女の名前は無い。当然だ、文芸同好会なんて合コンサークルで、男に色目を使って、女の嫉妬を食い物にしている彼女が、この高名な芸術家の家系と同じ場所に居る筈が無い。


「『篠宮はどこだ』――って言いたげだな?」


 ふと、見透かしたような新藤の言葉に、畑野は細めた瞳を返す。冗談の通じない表情で、手早く答えを言えと言いたげな畑野に、新藤は参ったと言いたげに口を開く。


「お前も知ってるだろ。アイツはそういう世界に居ない……お前や志島とも違う、完全にこちら側の人間だ。だからこそ、俺はアイツから篠宮家に取り入ろうとしている」


 渡りに船だと言いたげな彼の言葉に少しだけ苛立ったけれども、それが身勝手な感情だと自覚して、自身の機嫌を取る。そして、冷えた頭で考えると、畑野が知る彼女の言動の一端が見えてしまったような気がした。


 『辛くないですか。誰にも評価されないのって』――そう告げられた言葉と、歪な承認欲求。そして、彼女の家系。結びつけるのにそう苦労はしなかった。


 頭に重い鉛が入ったように思考が鈍り、感情が沈む。生理はもう少し先の筈だったが、どうにも気分が浮かばなかった。


 鈍った思考を研ぎ澄まそうと、残った珈琲を呷り、カフェインを注ぎ込む。


「風の噂で聞いたが、アイツも元々は姉貴と同じで絵画をやってたらしい。どこで、どう落ちぶれたんだか。俺に取っちゃあ都合が良いけど、寂しい話だ」


 今の彼女を落ちぶれたと表現することに憤りを覚える反面で、彼がただ小馬鹿にしている訳ではなく、ほんの僅かながらも本心から寂寥感を抱いていることが窺えた。畑野は燻る感情を踏みにじって鎮火させ、熱く白く染まる吐息で感情を吐き捨てた。


「……面白い話だったろ?」


 彼は副流煙を星々に吐きかけて、そう尋ねてきた。


 畑野は暗い感情を押し込むように空っぽの缶を揺らした後、悪感情を捨て去るように、ゴミ箱の中に押し込んだ。


「少なくとも、『ファニー』な話じゃあなかった」

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