第5話

「相変わらず質素な部屋ですよね」

「お出口はあちらです」


 畑野は篠宮へ三階から外へ続く窓を示すも、彼女は無視してベッドに腰を落とした。


 部屋に来て早々、随分と生意気なことを言う後輩であった。


 あれから結局、彼女の要望に応えて部屋を貸すことにした。家に着いた頃には時刻も二十一時頃と、夕食には少し遅い頃となっている。何か食事を取ろうかとも考えたが、そんな雰囲気ではなく、故にそんなことをする気にもなれなかった。


 彼女は腰掛けるベッドを軽く手で叩く。


「ベッド借りますよ」

「は? ソファを使いなさいよ、ソファを」


 ベッドから出ていくよう手を払って促すも、彼女はスカートのホックを外し始める。


「十分に身体を動かせる場所じゃないと満足できないんですー。ただでさえ行為を断ってるんですから、多少は融通をしてくださいよ」

「……クリーニング代は徴収するわよ」

「ラブホの経営者はベッドを汚した客に清掃代を請求するのでしょうか」

「ここはラブホじゃないし私は経営者でもないから請求をする」

「それじゃあ弁償するのでタオルを貸してください」


 妥協点といったところだろうか。ここで押し問答をするくらいなら、そもそも何故、彼女を家に入れたのかという話になる。畑野は衣装棚に放り込んでいたバスタオルを二枚ほど彼女に放り投げ、彼女はそれをキャッチし損ねて顔で受け止める。「わふ」と呻きつつ、それを広げてベッドに敷いた。


「声とか気になる方ですか?」

「別に。好きにしなさい――私は小説書いてるから」

「ああ、落選したんですもんね」


 小馬鹿にする訳でもなく、かといって腫れもののようにその話題を扱うのでもなく。ただ、自身の知っている情報を何となく語っただけだ。しかし、劣等感のような部分を刺激された畑野は僅かに言葉に詰まる。ノートパソコンのキーボードを叩き、スリープモードを解除させながら、ゆっくりと頷いた。


「そうでなくても、書き続ける」


 そういう生き物なのだ。


 彼女に宛てたものではなく、己に言い聞かせるような言葉。その言葉に何か感じ入るものがあったのか、飄々としていた篠宮は、畑野から視線を逸らす。


 一瞬、沈黙が部屋を支配する。


 篠宮はちらりと畑野の背を見て、空気を換えるように敢えて明るい声色を使う。


「あ、今回は撮影とか駄目ですからね」

「あれは合意だったって結論出たでしょ」


 畑野は呆れつつも表情を切り替え、そう反論をした。篠宮は小さく声を出して笑い、そんな様をノートパソコンのフレーム越しに反射して見た畑野は、彼女が気を遣ってくれたのだろうということを理解する。しかし、野暮だろうと、それを口にはしなかった。


 背後で自慰行為に耽る後輩が居ることに精神が乱されない道理も無いが、それはそれとして、その行為を眺める訳にもいかず、そうなれば小説を書く以外にできることもない。集中できる自信は無かったが、畑野はノートパソコンに向き合い、キーボードを叩き始める。


 しばらくして、打鍵音を縫うように衣擦れの音が部屋に響き始めた。




 畑野が髪を拭きながら脱衣所を出ると、先に入浴を済ませていた篠宮は我が物顔でベッドを占領しながらスマートフォンを弄っている。いかにも泊まる気満々ですと言いたげな彼女を半眼に眺め、畑野はドライヤーをコンセントに繫いでデスクに着く。


「アンタ、平然と泊まろうとしてるわね」

「疲れちゃったんで泊めてくださいよ」


 篠宮は枕にゴロンと頬を乗せながら、断らないよな、とでも言いたげに畑野を見た。


 互いに見せ合った痴態など忘れたとばかりに平然と言葉を交わす。お互い、先程の話は忘れたことにした方が、都合がいいのだ。


「服が乾いたら帰りなさい」


 体液で汚れた肌着とスカートだけでも洗ってやるべきかと、気を利かせた畑野は衣類を洗濯し、シャワーを浴び終えた今、浴室乾燥機を動かしているのだ。今は畑野のルームウェアと肌着を貸している。全裸で部屋に居られることと、自身の肌着を着用されることを天秤にかけた末の苦渋の決断だ。


 畑野は彼女の提案を断りドライヤーを起動しようとするが、篠宮は食い下がる。


「やーだー! とーまーるーのー!」


 彼女は足をばたばたさせながら駄々を捏ねるも、畑野は背もたれに肘を置いて、呆れたような表情と共に不服そうな彼女に吐き捨てる。


「そうやって甘やかされて生きてきたのかもしれないけどね、私は甘くないわ。服が乾いたらそれに着替えてアンタは帰る。終電はまだ先の筈よ」


 畑野がそう切り捨てると、篠宮は演技ではなく、少し拗ねたような表情を覗かせる。まるで畑野を責めるようなその表情に、先刻彼女に伝えた『少し、打ち解けた気でいた』という言葉を思い出す。彼女がそれを利用してきたのか、或いはそれに期待をしていたのかは分からないが、幾らか罪悪感があった。しかし、情に流されることにも抵抗があった。


「アンタだって、私の部屋に居たって気分よくないでしょ」


 呆れ混じりに告げるも、篠宮は唇を尖らせる。


「……身の回りに『好きな人』が多いから、相対的に嫌いなだけです。先輩は」


 彼女にとっては、彼女を愛し認め、或いは妬み認めることこそが愛情表現で、そうしてくれる人間だけが好ましい人間だ。だから、畑野のような類の人間は好きではない。


 即ち、相対的に嫌いという訳だ。


「つまり嫌いってことじゃない。私だって同じよ、利害は一致してる」


 畑野がそう告げると、篠宮は複雑そうな心境を表情に投影し、瞳を伏せる。


「一人で居るよりは……」


 そこで言葉を区切った彼女は、そこから先を続けず、顔を枕に埋めた。


「……何でもないです」


 彼女の言葉の続きは分からなかったが、何となく、彼女の言いたいことは分かった。


 彼女は、一人で居ることが嫌いなのだ。相対的に畑野の部屋に居ることすらマシだと思えるくらい、一人で居るのを嫌い、一人で処理することだって嫌う。


 彼女は本質的に他人との繋がりに飢えている。それが基となって自己承認欲求が肥大化したのか、或いは自己承認を渇望する末に他者との繋がりを追い求めるようになったのか。順番は分からないが、きっと、そこには密接なつながりがあるのだろう。


 枕に顔を埋めた彼女が微動だにしないものの、窒息はしていないだろうと半眼で確認しながら、肩を竦めつつ彼女に尋ねた。


「……実家?」


 畑野はノートパソコンを立ち上げながら彼女に尋ねる。


 篠宮は質問を聞きつつもすぐには返答せず、ゆっくりと顔を上げた後も、言うべきか否か悩むような素振りを見せた後、否定する。


「いえ、一人暮らしです」


 それを聞いた畑野は、起動するノートパソコンの画面を眺めながらドライヤーを起動し、髪を乾かし始める。しばらく、液晶をぼんやりと眺めながら考え込んだ。


 畑野にとっても篠宮にとっても、お互いの生き様は対照的で、価値観にも大きな差異が存在する。決して相容れないだろうと思っていた反面で、畑野にとって篠宮は、何だかんだと世話の焼ける後輩になりつつあった。嫌悪すべき生き様と、その中に僅かに存在する愛すべき等身大の少女らしさ。切り離せないそれらは、まとめて拒むか、まとめて受け入れるか以外の選択肢は存在しないのだ。


 深いため息が思わず漏れ出て、畑野はノートパソコンのフレーム越しに唇を尖らせて瞳を伏せる篠宮を見る。


 嫌いだからと突き放すのは簡単だ。だからこそ、認めて受け入れる行為は立派だと称されるのだ。彼女の為ではなく、自分自身に胸を張れる生き様をするため、畑野はドライヤーの電源を一瞬だけオフにして、小さな声で呟いた。


「……朝には帰りなさい」


 それだけ。彼女の方を見ることもなくそれだけ呟いて、再び髪を乾かしに戻る畑野。


 呆れつつフレーム越しに彼女を盗み見れば、彼女はとても驚いたように目を見開いていた。驚くあまりに身を起こし、照れ隠しのような素っ気ない表情を作りながら、畑野の枕を抱えて何かを言う。ドライヤーの音に紛れてその言葉は耳には届かなかったが、罵声ではないだろうと畑野は確信していた。


 そうして髪を乾かし終えた頃には、彼女は上機嫌にベッドの上でスマートフォンを弄っている。そんな彼女を尻目に、畑野もそろそろ小説の方を進めなければなるまいと、気合を入れながらノートパソコンと向き合う。


 そう腰を据えた途端に水を差すのが篠宮という女だった。


「先輩は、一度も受賞とかしてないんですよね?」


 悪びれる様子もなく尋ねてくる彼女に、一文字目を打ち込もうとした指が止まる。畑野は志島と比較して劣等感を感じつつある要因をずけずけと指摘してきた彼女に苛立ちを覚えつつ、怒りの感情を溜息に乗せて表現をやわらげた。


「……馬鹿にしてる?」

「な、なんでそんな卑屈なんですか! 聞いただけじゃないですか!」

「あんだけ部室で話してるんだから知ってるでしょ」


 畑野がそう言うも、篠宮はそうだっけ? と言いたげな表情で首を傾げる。曖昧な笑みを浮かべる彼女の額を小突いてやりたかったが、堪えながら肯定した。


「……無い」

「何年くらい書いてるんですか?」


 急に質問をし始めて何のつもりだと問うべく彼女を見るも、その表情が決して畑野を馬鹿にするために言葉を紡いでいる人間のものではないと理解して、開きかけた口を閉じた。同時に、彼女が少しでも歩み寄ろうとしてくれているのではないかと、そんなことに思考が至り、渋々ながらも答えた。


「四年」

「ずっと、賞に応募とかしてきてるんですか?」

「そうね。一年目の終わりごろから、ずっと」


 素っ気ないながらも応じる畑野。篠宮は枕を抱えたまま、考え込むような素振りを見せる。それから、恐る恐ると言葉を切り出した。その表情は真剣だ。


「……これは、断じて揶揄する意図は無い質問なんですけど」


 彼女の瞳が畑野からディスプレイへと移る。


 才能を持たずに生まれた女子サッカー部FWの少女が、幼馴染のエースストライカーと比較されながら葛藤と共に成長する物語。今時流行らないような青春スポーツ小説。苦悩や葛藤と共に戦い抜くその生き様に憧れるように、篠宮は暗い表情で尋ねた。


「辛くないですか。誰にも評価されないのって」


 その言葉は畑野に尋ねているようで、畑野の瞳の奥に居る誰かに確かめているようでもあった。自分を見ているようで見ていないその質問が、ただの興味本位ではない、明かされざる本心を宿していることに気付く。


 気付いて、ただ、そんなことは気にせずに本心を口にした。


「辛いに決まってる。だから、評価させるために書くのよ」


 途端、篠宮の瞳が動揺に揺れた。彼女はまるで自分を恥じるように俯き、唇を噛み締めて何も話さない。そんな彼女の様子を訝しく思いつつ、元より彼女が何かを抱えていると知っていた畑野は、推し量れぬ感情を無意味に量ろうとはせず、ただ、望む通りに質問に答えた。


「全てとは言わないし、そのやり方も否定的ではあるけど――私は、アンタの承認欲求も全て切り捨てていいようなものだとは思わないし、理解できる部分もある」


 そう言葉を締めくくり、それを最後に畑野はディスプレイへと向き直る。


 背後の彼女が暗い表情を浮かべるのを尻目に、静かにキーボードを叩き始めた。

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