第3話
篠宮の甘い香りが残るようなワンルームで、畑野はデスク上のノートパソコンと向き合う。窓から昼前の穏やかな陽光が差し込む日中、静かな打鍵音が不規則に鳴り、ディスプレイ上で文字が次々と浮き上がっていく。時折、誤った変換をしては無表情で修正して、それを繰り返していく内に文字は山のように積み重なって行き、区切りがついたところで、畑野はその手を止めた。
「……ふぅ」
溜息と共にデスクを蹴って、キャスター付きの椅子でベッド脇へ。そのまま転がるようにしてベッドに倒れ、目頭を揉みながらスマートフォンを取り出した。
今日の午後は講義を入れている。あと十数分程度もしたら支度を始めねば、遅刻してしまうだろう。今日は――良い頃合いで、文芸同好会を退会しようと考えていた。宣言すれば角が立つだろうから何も言わないが、置いている一部の荷物は持ち帰らねば。
そんなことを考えつつ、畑野は自身の枕を引き摺って寄せ、頭を預ける。
篠宮と行為に耽った日から一週間と少し。洗濯を終えたシーツと枕に彼女の香りは残っていないが、それでも染みついただろう体液の数々を考えると、妙な気分になってくる。ふとスマートフォンの時刻を確認して、日付が目に入った畑野は、「あ」と思い出す。今日は、新人賞の選考結果発表日だった。
少しだけ心臓が跳ねるような感覚を覚えた。それなりに傑作を書き上げた自信があった。既に二次選考を通過しており、今は三次選考中。それを越えれば、最終選考だ。受賞も目前で、自信もあって――緊張と共にブックマークしておいた選考結果のサイトをタップし、開く。
三次選考の通過者は十名。今までとは違い、一目で自身の名前の有無は確認できた。
サイト開いて数秒、記載されている作品タイトルとペンネームの数々を眺めた畑野は、深い深い溜め息と共に頭を枕に叩き付け、スマートフォンを掛布団に放り投げた。
――落選だ。
「……見なきゃよかった」
大の字に倒れながら、畑野は虚空にそう呟く。見なかったところで結果は変わらないが、少なくとも活力を持ったまま今日を越えられる筈だった。今日はこのまま、大学をサボってしまいたい気分だ。それから、縋るような気分で再びサイトを眺めた畑野は、その中に見知ったペンネームを見付ける。【志島四十万】――我が同好会の会長の名前だ。
瞳を瞑って噛み締めるように実力差を認識し、何度目かも分からない嘆息を吐く。
「……流石」
午後の講義を終えると、既に日も暮れ始めていた。
畑野は当初の目的通りに荷物を持ち帰るため、部室棟三階、文芸同好会の部室へ赴く。本来、活動実績も曖昧で人数も少なく、大した利益も生産性も無い文芸同好会に対して棟内の部室を貸し与えるなど破格の待遇だが、これも志島という学生作家の恩恵である。
本当に、大した男だった。
畑野は嫉妬と賛辞を胸中で渦巻かせながら部室の扉を開ける。中では既に会員の多くが屯しており、幾つかに分けられたテーブルでグループを作って、その輪で談笑をしていた。彼等は入ってきた畑野を一瞥だけして、また元の会話に戻っていく。そんな中、いつも通りに作品のアイデアをメモしながら雑談に付き合っていた志島が、申し訳なさそうな表情で畑野を一瞥した。視線の意味を理解した畑野は苦笑する。
「おめでとう」
「……すまん」
その賛辞が気遣いも含まれていると理解した志島は、心底情けなさそうな顔で詫びた。彼とて、既にプロデビューをしていようとも公募の結果に無頓着ではない。既に、結果発表を確認しているだろう。片方が通過して片方が落選。本来は通過した方が気を遣うものだろうに、逆の立場とは愉快なものだった。
「気にしてないから気にしないでよ、私はもう次の作品書き始めてるし」
そう言いながら畑野はロッカーに置いているメモ帳や参考にしていた文庫本をごっそりと掴んで鞄に押し込んだ。彼はその言葉に、讃えるような笑みをこぼす。
「そっか。流石だな」
「そりゃこっちの台詞よ。……受賞しなさいよ」
対等な関係なんかではない。畑野は所謂ワナビという、アマチュアに過ぎない存在であるのに対して、彼はプロだ。受賞しろ、などと、どの立場からの発言なのか定かではないが、それでも、同じ所属で同じ志を持った者同士、切磋琢磨する関係であった。
志島は少し嬉しそうに、同時に、野心を垣間見せて笑いながら頷く。
「勿論」
それを聞けてよかった。畑野も少しだけ笑う。
篠宮と同様に優れた能力を持つ人間だ。それが才能か、努力によるものかは関係ない。ただ、持っている能力を存分に発揮して高みを目指そうとする、そんな篠宮とは対照的な彼の生き様は好印象だ。同情で潰されない、罪悪感は持っていても、自分の道は確かな足取りで進んでいく。それでこそ、自身の憧れたプロというものだった。
さて、志島というプロにこそ名残惜しさを感じるものの、今では文芸同好会は合コン会場だ。早いところ帰って、スッパリと縁を切ってしまおう。そんなことを考えながら帰ろうとする畑野を、志島は寂しそうに呼び止めようとする。
しかし、そこに割って入る者が居た。
「何の話してるんですかぁ?」
妙に甘い声で囁くように尋ねるのは、肩を露出させる大胆な服装をした篠宮だった。普段と違って髪を後ろで束ねたポニーテールが綺麗なうなじを出させ、きっと多くの男子諸君の目を引いていることだろう。つい先日のことが脳裏を過るその声に、畑野は思わず動きを止めて彼女を見る。対する篠宮は畑野を一瞥こそするものの、それ以上の関りを見せようとはせず、志島を見詰めていた。
「あ、ああ……小説の公募だよ。彼女も俺と同じ賞に投稿していてね」
「えー、すごーい! 志島さんは通過したんですか?」
「うん、次で最終選考だね。今更何かできる訳でもないけど、緊張するよ」
志島は肉薄する篠宮に落ち着かない様子ながらも、笑ってそう応じた。
相変わらず、大した誘惑技術である。――今までと何ら変わらない光景、言動。それがほんの少しだけ違って見えるのは、この前の晩、彼女の本心を聞いて、彼女と身体を重ねたからだろうか。ちらり、と篠宮が同席している女子達を一瞥する様を視認して、釣られるように畑野も彼女達を見ると、数名は酷く苛立っている様子だった。
しかし、そんな悪感情を主食とする篠宮は嬉しそうな笑みを浮かべ、両手の指先を胸元で合わせ、控えめながらも確かに存在する胸に視線を引き寄せながら、甘い声で囁く。
「それじゃあ、今日はお祝いとかしませんか?」
歯噛みするような女子達を横目に見た畑野は、これは厄介なことになりそうだと身構える。早めに退散をしておくべきだろうか、と、頃合いを見計らう。しかし、そんな面々には気付かない志島は、近くで性的魅力を誇示する篠宮から視線を剥がせず、顔を赤く染めながら「いや」と上擦った声を上げた。
「ま、まだ受賞じゃないからさ!」
「えー、でも、最終選考ってだけで凄いですよ。それとも、結果が出なかったら無意味ってことですか?」
篠宮はここぞとばかりに畑野を視線で示し、暗に三次選考落選の畑野の努力が無意味なのかと理屈で彼を脅迫する。そう言われると返す言葉が無いのか、志島は言葉に詰まる。しかし、少しだけ冷静さを取り戻した彼は、申し訳なさそうに手を合わせた。
「……そうは言わないけど、ごめん! やっぱり、まだ受賞じゃないから気を抜けない。それに、受賞が目的な訳じゃない。最終目標はもっと先で、だから、もう少し小説を書く時間を設けたいんだ。今日は……いや、こういう日だからこそ、もっと向き合いたい」
真摯言葉でそう懇願をする志島に、篠宮は少しだけ退屈そうな表情を浮かべた。しかし、ほんの少しだけ――演技ではなく、まるで羨むような表情を浮かべた。それでも、彼女はすぐにそれを笑みへと取り繕って、頷いた。
「そうですか! そういうことでしたら、邪魔はできませんね。でも――応援しているのは本当です。頑張ってくださいね」
ニコリと優しく微笑むと、志島は申し訳なさそうにしながらも、理解をされたことに対して安堵の表情を浮かべた。
ふと、そんな二人の会話を聞いていた男子がひょいと顔を覗かせる。
「それじゃあ俺と一緒に飲み行くか? 暇だろ?」
「あ、新藤さん」
新藤という、この文芸同好会の中ではかなり顔立ちが整っている青年だ。長身で細身ながら、筋肉はそれなり。畑野や志島と同じ三年生で、志島とは中学時代からの友人関係に当たる。彼と志島がこの同好会のツートップとも言える美形で、同好会内の人気は志島と二分されている訳だ。口を出そうとしていた飯塚辺りは、相手が悪いと言いたげに肩を落として未練たらしくそのやり取りに耳を傾ける。
篠宮は少しだけ驚いたような表情を見せ、それから女性陣を一瞥すると、ほんのりと唇を緩める。そして、すぐにそれを嬉しそうな笑みで装って、歓喜を表現した。
「えー、いいんですか!? それじゃあ、お言葉に甘えちゃおっかなぁ」
「駅の近くで良いバーを見付けたんだ。中々洒落たところだよ」
「楽しみです! 飲み過ぎないようにしないと」
篠宮は先日の失態を悔いるような素振りを見せ、新藤は快活に笑いながら「そうだな、見張っといてやる」と応じた。彼は自他ともに認める女好きだが、道理に背くことはしない人間だと畑野は知っている。それに、志島の友人だ。
少なくとも、酔った人間に手を出すような輩ではないし、彼が相手なら安心だろう。そう考えた畑野は、安心をした自分が、つまり彼女を心配していたということであると理解して、己に呆れた。どうやら、身体を重ねて情が湧いたらしい。
あの生き様だ。いつか痛い目を見るのも、自業自得だろう。
そう思っているのも束の間、不意に大きな物音が部室に木霊した。
音の発生源は、女性陣の中でも取り分けて影響力の高い三年生だ。
気の強そうなそばかすの女子は、どうやら手に持っていたノートを机に叩き付けたようで、憤りに肩を震わせ、真っ赤に染まった顔で篠宮を睨んでいた。篠宮は驚いた様子でその三年の女子――佐々木に尋ねる。
「どうしたんですか、佐々木さん」
理解ができない、と言いたげに小首を傾げる篠宮に、佐々木は唾を飛ばしながら叫ぶ。
「あのさあ! 篠宮さん。そんな浮ついた気持ちで同好会に参加しているんだったら、迷惑だから帰ってもらえる? いっつも男の人と遊ぶことばっかり考えて――、一生懸命に取り組んでいる人たちのこと考えないの? 貴女だけだよ、そういうの」
溜まったものを全て吐き出すように、怒気を詰め込んだ言葉が篠宮を襲う。志島はマズいと言いたげな表情で制止をしようとするが、愉しそうな表情の新藤がひっそりとそれを止めたのを、畑野は見逃さなかった。
厄介な事になった。畑野は後ろ髪を掻きながら事態を見守る。
篠宮が驚いていると、佐々木は畳み掛けるように続ける。
「志島君だって作家としての活動が忙しいのに、いつもつまらないことに誘ってばかり。自分のことしか考えないで、私達も迷惑してるんだけど」
佐々木の言葉に、近くに居た女子達も頻りに頷き始める。
しかし、畑野に言わせれば志島以外は全員、遊び惚けているようにしか見えない。そもそも、本来この大学では部室の維持に活動実績が必要であるのに対し、実績の提出をしているのは志島と畑野だけ。それも、志島が現役作家であることが理由で、向こうが譲歩をして認められている。実際のところ、二人を除けば誰も正当な活動なんてしていない。
篠宮は不真面目だが、それを指摘できるのは志島か畑野だけだ。
しかし、篠宮は何と言い返すのか。新藤のような物見遊山ではないが、敵を生みやすい彼女の生き様で、この場をどう切り抜けるのかは気になった。ここで志島や新藤に泣きつけば中々の混沌が生まれそうで、実際、彼女もそれが脳裏を過ったのか、二人を一瞥しそうになった。
しかし、首の動きを寸前で止めた篠宮は、面倒そうに苦笑をすると反論をした。
「心外ですよ、佐々木さん。私達は同類じゃないですか」
静かに紡がれた事実に、佐々木は顔を更に赤く染め、青筋を立てる。激昂して何かを言おうと口を開きかける佐々木だったが、その前に篠宮が立ち上がった。
「佐々木さん、本、読んでないですよね。ここは文芸同好会ですよ?」
囁くように、いつもの甘い声色で告げられた言葉に、佐々木は絶句する。そして、反射的に言い返そうとするも、ここに至ってようやくその事実を思い出したようで、苦い表情を浮かべた。しかし、彼女は嘘を吐く。
「私は! 家で――よく読んでる、から」
「へえ」
篠宮は意外そうな顔をすると、ひょいと彼女の傍に近付いて、テーブルの上に広げられた菓子類、スマートフォンに映し出されている動画投稿サイトのエンタメ動画、それからノートに書かれている落書きや提出物の類を順番に触れて確認する。それを彼女の手で示される順に、一緒に視認した佐々木は、バツが悪そうな顔で反論をしようとする。
しかし、篠宮は遮るように尋ねた。
「それで、どんな『活動』を?」
「……い、家で――」
「部室に来て、ご友人と一緒に好きなアイドルの話をして。お菓子を食べて、課題を進めて。動画を鑑賞して。それが、文芸同好会における佐々木さんの活動です。いいですね、凄く健康的で一般的な、就活が終わった大学三年女子って感じで」
少しだけ意地悪な笑みを浮かべる篠宮に、佐々木は忌々しそうな顔をする。
しかし、篠宮は追及の手を緩めない。
「勘違いしちゃだめですよ、佐々木さん。この同好会で活動をしているのは二人だけ――志島さんと、畑野先輩。それ以外は全員、ただ楽しいからって理由で何もせずに快楽を享受する同類です。一生懸命に取り組んでるのは、二人だけ。嫌いなものを排斥するのにお二人の努力を利用するのは、私も少し腹立たしいです」
ほんの少しだけ笑みの奥に覗かせた怒りに、佐々木は真っ赤な顔で唇を噛み締める。それは先程のような嫌悪する者に対する怒りではない。大義名分を得て、嫌いな女子を殴ろうとして返り討ちにあったが故の、羞恥だった。
篠宮は再び柔らかい笑みを浮かべ、甘い声で囁く。
「でも、佐々木さんの文句は受け付けませんけど、私も佐々木さんを悪いとは言わないし、否定もしないです。だって、楽しいですもんね。欲望のままに生きるのって――だから、それでいいじゃないですか。それで、誰も困らないんだから。ねえ? 畑野先輩」
そこでこちらに振るのか、と、彼女の言葉に飲まれつつあった畑野は我に返る。面倒なことをしてくれるものだと呆れつつ、溜息をこぼして背を向けた。
「……どうでもいい。私はそもそも、今日で同好会を抜けるつもりだったから」
それだけ言い残して、帰ることにした。告げた途端、数名からは驚きの視線を向けられ、中でも唯一の同志であった志島は、驚きに腰を浮かせて畑野を呼び止めようとする。
「まっ、畑野――!」
呼び止める声が聞こえたが、畑野は振り返らずに部室を去る。
志島には悪いと思うし、実際、同じ志を持つ者同士の切磋琢磨や会話は楽しかった。しかし、この同好会にそれは望めない。篠宮や新藤のような人間はもちろん、佐々木達だって例外ではない。真面目に取り組む者とそうでないものとの温度差が、畑野をそうさせた。少しだけ悪いとは思いつつ、元より、何かを生み出す作業というのは内面と向き合う孤独な行為だろうと、割り切ることにした。
さて、そんな畑野の去って行った姿を見送った志島は、酷く寂しそうな顔で唇を噛み締める。新藤も、飯塚ですら幾らかバツが悪そうな表情だった。佐々木達は元々接点が無い故に何を思うことも無く、しかし、篠宮は何とも言い難そうな表情を浮かべていた。
篠宮にとって、『篠宮』という人間を認識して評価しない人間は酷く無価値で、好ましくない相手だ。少なからず恋愛感情や欲情を抱く人間は好印象で、それに伴い生まれる嫉妬や敵意は大好物とも言えた。だから、彼女のような無関心な人間が一番嫌いで、しかし、先週、何を血迷ったのか、酔った自分は畑野と身体を重ねた。
容姿には優れた人物だと思うし、人柄の部分はかなり良い。人格者とも言える。口が悪い部分はあるが、何だかんだと、泥酔した自分をできる限りで送ってくれた。そんな彼女に対して、正負はともかく、少なからず思う所はある。
とはいえ、呼び止める義理は無く、それに、彼女の為にもならない。
ここはもう、そういう場所なのだ。
意気消沈して肩を落とす志島を一瞥し、もう一度だけ、篠宮は彼女の去って行った扉を見た。
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