忘れられない名前
そうだろうね、分かってた。
正直、今日ここに来るまでは金銭目的の殺人か、ごく稀にいる殺しを楽しむ頭のおかしな奴か、或いは両方だと思ってたんだけど、変形した硬貨の残骸と無視されてる紙幣でその線は消えたから。
硬貨と貴金属に興味があって殺人を楽しむ奴が犯人だったんだね。しかも経済的な理由じゃなくて食欲が理由ときた。これじゃ常識的な警察はテンパっちゃうよ。だから伽藍が私を使ったんだ。
「ですから、実のところ無駄だと言いに来たんですが…… 驚きましたね。警察が介入した様子もないのに綺麗さっぱり痕跡が無くなっている。まるであれが私の夢だったかのようです」
現実だよ荒垣。アンタがやったのはただただ現実。こびりついて一生消えない罪業だ。
「これももしや『ヒビカ』の仕業? テリトリーに攫って殺しているのではなく、殺した痕跡を消せるから情報が少ない? だとしたら奴はどんな力を……」
そこで荒垣は言葉を区切った。
置物のようにじっと佇む背中から殺気が滾る。
どうしたと思う前に、鈍い光を湛えた瞳がこちらを見た。
「何も無いのに、どうしてここで殺人があったと知っているのですか?」
ギシギシと身体を鳴らしながら、荒垣氏は私に近付いてくる。
「あー、もしかしてやっちゃった?」
口の中で呟く。
テレビにも雑誌にも載っていないのは重々承知している。私と伽藍、それからやった本人しか事件を知らないのも分かっている。
ダメだどうしても言い訳が思いつかない。詰んでるっぽい。
「殺したのは私です。だったらここで事件が起きたことを知っているのは、その痕跡を消した本人だけですよね?」
ごめん伽藍、馬鹿で。まあでも良いでしょ。不意打つか、双方同意の上でやるかの違いなんだから。
「あなたが『ヒビカ』?」
一歩半の距離で睨みつけてくるその顔にナイフを突きつける。
途端、世界が変わる。いや、変わったのは私の視界か。
まるでチャンネルを入れ替えるかのような。カートリッジを取り替えるかのような。
そんな、意識の変換。
目の前のモノが、最早肉としか認識できなくなる。
欲は刃。
鋒はいつだって傷付ける為でなく、奪うために振るわれる。
私の刃は食欲だ。
食欲という化け物が顔を出したその瞬間、私の存在は一振りのナイフへと変貌する。
心が無くなったみたいに、身体の熱さに反比例して、頭が冷えていく。それこそ銀の塊みたいに。
「タソガレ ビャクだって言ってるだろ」
一体どうしたらそんな風に伝わるんだか。意外と気に入ってるんだから間違えるなよ。
「ヒビカ」って……あ、もしかしてそういうこと?
冷酷になった脳みそが解を出す。腹の底から湧き上がってくる衝動に従って哄笑した。
「あっはは!」
「何がおかしいので?」
「ふっ、いやいやごめんね。いやさ、荒垣さん。アンタ、随分子供っぽいところあるんだね」
苛立ちを表すかのように荒垣の身体から重たい音が鳴る。ギチギチとガチガチと。皮膚と皮膚が擦れ合って、通常の人間には有り得ない音を奏でる。
瞬きの後にはもう襲いかかってきそう。でもこっちだってアンタを殺す理由がある。
アンタ、やり過ぎだよ。人間殺し過ぎ。
別に必要な分摂っている分には私達も何も言わなかったのにさ……いやそれは嘘か。アンタが人間を殺すことに悦楽を覚える『偏過食症』である以上、対立するのは時間の問題だった訳だし。
アンタが100分の1の一人目。
「指令があったって言ってたね。それでこんなところに来たんだって。それってきっと書面だったんだろうね」
「それが何か」
「アンタのボスも随分と不親切。ルビ振ってくれれば良かったのに」
こんな名前した奴そうそういないんだからさ、知らなくて当たり前なんだよ。
「荒垣さん、多分恥ずかしくて言わなかったんだろうけどさ。だって良い年した大人が『この字なんて読むんですか』って聞けないもんね。でも分からないことは分からないって言った方がいいよ。後悔って取り返しのつかないことが多いから」
ぶるりと一つ身震いして、ナイフを振るう。
刃は光を歪ませて、シンと空間を切り裂いていく。
ジリ、と足元の砂利が鳴った。肉が後退りしたのか、私がにじり寄ったのか、多分両方だろう。
意識は既に混濁していた。
ナイフに理性など不要。理屈など無価値。
私にとっては、こうして言葉を発していること自体が既に、非常に不可思議な事だった。
「一体、何を」
察し悪いね。
こんな都合よく人気のない場所でやることなんて限られてる。私にぱっと思い付くのは「殺し」くらいなんだけどアンタは違うわけ?
命は戻ってこないって知らないの? 取り返しがつかないってそういうことなんだけど。
「きっとその指令には日、日、日って三つ並んでたんだろ。そんな名前見たこと無かったから、アンタは予想して『ヒビカ』って読んだんだ。でも残念、間違ってるよ」
教えてあげる。
「それで『
由来だなんだと細かいところまでは知らないけど、とにかくそういう名前らしいよ。だからあんまり漢字で書かないんだ、私も。基本的に正しく読んでくれないし、たまに形が似てるからって「ひひひひ」なんて言われるんだよ、酷くない?
良く見ろっていうんだ全く。ちゃんと斜めに棒が入ってるだろ。
まあ折角だからもう一度自己紹介するよ。今度はちゃんと文字で認識してね。
「
大した価値なんか無いけど、冥土の土産に。
さて、お喋りは終わりだよ。食いだめできるらしいアンタと違って、こっちは常に飢えてるんだから。
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