中編(2)
重たい湿気の空気を肺いっぱいに吸い込む。蒸し暑さに肺が負けそうになる。
店の外で待っていると、犬飼が出てきた。
「伝票は」
「白ヤギが食べてた」
「返事書くから連れてこい」
「連れて来るからそのまま伝えろよ」
ムッとした顔に似合わずそんなことを言うので、思わず笑ってしまった。お互い酔っているのかもしれない。
「本気で、半分は払う」
「いい。誕生日なんだろ、おめでとう」
理由を盾に断れば、犬飼はやっと折れた。
「あ、じゃあさこれから俺の家で飲み直そう」
「は? なんで」
「俺の家なら近いし、テレビ見られるし、なんなら泊まっても良い」
「……遠慮しとく」
「汚いって言っても十分もすれば片付けられる程度だからな!?」
「本当かよ」
笑って誤魔化したが、問題はそこじゃない。
足は駅の方へ向いていた。
「じゃあ来週末は?」
「ん?」
「予定無かったら……って、必死か俺は」
「急なノリツッコミに置いていかれてる」
「いや……本当に、また会えたの嬉しいんだよ」
がっと首に腕をかけられる。何かの香水なのか、柑橘に近い香りがする。ぶわ、と昔の何かが蘇った。
その言葉に、先程言いかけた感嘆が戻る。
「犬飼は、優しい」
優しすぎるから、俺みたいのに好かれてしまうんだ。
来週末も、再来週末も、会わない。
俺はもう会えない。
そうか、これが最後になるのなら。
「これ、使わなかったら誰かに譲って」
「え」
「名刺入れ。営業だから使うかもなと思って選んだ」
バッグからプレゼントを取り出した。犬飼はきょとんとしていたが、腕を取り離れて、受け取ってから嬉しそうな顔を見せる。
「もしかしてプレゼント」
「まあそんな感じ」
「ありがとう」
「どういたしまして」
駅前まで戻る。帰り道はここで別れる。
ふと高校の時、時間が合えば一緒に道草ばかりを食って、帰る頃にはすっかり暗くなっていたことを思い出す。
そして、別れ際、言いたかったことも一緒に。
「楽しかった、今日ありがと」
「俺も。つーか、ご馳走さまでした。また……」
「犬飼のことが好きなんだ」
するりと出た言葉は明確に形をもった。音にしたら何なんだろう、と他人事のように思う。
犬飼の顔は見られなかった。勇気はずっとない。意気地もずっと無かった。
べつに聴かなくても良い、ただ。
ここにあったことを、誰か聴いてくれ、と思った。
それは音になり、歌詞になり、曲になった。それで良かった、はずだったのに。
「ケジメつけときたくて。俺もまた会えて嬉しかった。じゃあな」
「猫実、ちょっと待っ」
電車が来たのだろう。改札を通る人の波に紛れ込み、その場を離れた。
「え、なに?」
「阿鹿さん、泊めて……」
二日酔いで酷く痛む頭を最大限揺らさぬように歩いてきた。
阿鹿さんは酒臭いのにも気づいたようで、少し顔を顰めた。
犬飼と別れた後、家に帰って浴びるように酒を飲んだ。アル中にならなかったのが奇跡だ。
「なんかあったん?」
「……何もない」
「再会した同級生に振られた?」
「振られる前提で、告った」
「で、振られたのか」
「告い逃げた」
失笑された。どうぞお好きなだけお笑いください。そうされた方がずっと良い。
家に帰って後悔という後悔に苛まれていた。何故告ったのか、言わなければこのままずっと楽しく犬飼と友人をやっていられたのに。
でも、その先に何がある?
犬飼が誰かと付き合って、結婚して、子供を抱いて、遊ぶ姿を横で見るのか?
感情と選択のあっちとこっちを行ったり来たりして、酒に溺れた。選ぶことが苦手な俺が、それと向き合った結果だ。
阿鹿さんは溜息を吐きながらも家に入れてくれた。相も変わらず綺麗な部屋で、俺が一人眠れるスペースは十分にあった。
「亡霊ザネくん再びじゃん」
「何それ」
「出会った頃のザネくん、亡霊みたいだったから」
否定は出来なかった。一人で、ふらふらと、あてもなく歩いていたのだから。宛ら亡霊やゾンビのようだったに違いない。
「亡霊はもう生き返れないよな」
「ザネくんには残されてるよ、ひとつだけ」
俺の背後を指さす。私物よりも重いギターを背負ってきた。
犬飼とは行動範囲が被っている。引っ越しを急には実現出来ないので、阿鹿さんの家に避難してきた、というところだ。
「一回目は偶然、二回目は必然、三回目は運命って言うけど」
「初めて聞いた」
「三回目会ったらもう諦めな」
阿鹿さんは肩を竦めて笑った。
俺はドラムセットの置かれた防音室に寝泊まりさせてもらい、ずっと曲を作っていた。
ひとつだけ、残された生き返る方法を。
「ザネくん、生きてる?」
「あーうん……」
「てか髭剃ったら?」
「あーうん……」
「買い物行くけど、行く?」
ギターを手放し、立ち上がった。身支度をして家を出た。
「何か欲しいもんあんの?」
「んー唐揚げ食いたい」
「食べ物かい。俺はピアス見たいんだけど」
言いながら商業施設の中のアクセサリーショップへと入る。阿鹿さんは常連らしく、店員と話していた。俺もその横でピアスを見る。
軟骨につけるフープピアスを手に取った。
「それ人気なんですよ、残りひとつ」
「お、買っちゃえば?」
「うん、そうする」
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