前編
気付いたときには遅かった。
そんな言葉を自分に使う日が来るとは思わなんだ。俺は夜の自販機の前で立ち尽くしていた。何を飲みたい気分だったのか忘れた。何を飲みたい気分なのかも分からない。頭の中に流れる曲をもう一度リピートするのに忙しい。何となく目に入った缶コーヒーのボタンを押した。
がこん、と取り出し口に落ちてきた缶を拾えば、まさかの無糖。無糖コーヒーは好きじゃない、苦味が舌にずっと残るから。
生温い風に溜息を吐いて、また立ち尽くす。俺は多分、選ぶことが苦手だ。
それでも、人生は取捨選択の繰り返しだ。
「猫実?」
名字を呼ばれることは殆どなくなった。それでも呼ばれて振り向いてしまうのは、長年の身体に染み付いた行動なんだろう。
夜道端の自販機。ぼんやりと立ち尽くす俺を猫実だと分かる人間は、この世にどれくらい居るのか、分からない。
声の方を見れば、俺より背の高い男がいた。スーツと黒髪、サラリーマンという出で立ち。その顔のパーツと表情に、うまいことパズルのピースが当てはまらず。
いや、嘘だ。その奥に見える画はあった。ただ、それで無いでほしい。無い方が良い。そういう自分がいたのも確かで。
「高校一緒だった、犬飼」
呆気なくそれは打ち破られ、犬飼は自分を指差して紹介した。
「あ、おお……」
「まさかこんなとこで会うとはな。元気?」
「まあ、うん」
「え、卒業以来だから七年ぶりとか? 連絡途絶えたから、猫実に借りたCDそのままだったんだよな。借りパクになるとこだった。てことで、連絡先教えて」
相変わらずよく喋る。スマホを出した犬飼につられて、俺もポケットへ手をやろうとした。
「卒業してすぐ、携帯壊れたんだよ。悪かった。今携帯持ってなくて……CDはやるよ、そのまま」
その手をおろし、片手に持った缶コーヒーに触れる。
「え、いいのか」
「あの後、同じの買ったんだ」
もう会わないと思っていたから。やるつもりで貸したんだ。それを覚えていてくれたのが、少し嬉しいと思ってしまう自分がいた。
気持ち悪いな、俺。
舞い上がった気持ちが少し落ち着き、無糖コーヒーを見る。
「犬飼、無糖飲めたよな」
「ん? うん」
「間違えて押したから、やる」
「え、ありがと。間違えたのかよ」
笑った犬飼は楽しそうに言って、コーヒーを受け取ったまま、俺の腕も掴む。驚き、よろめいた。なんだ、と顔を上げた。
「んじゃあ俺の番号書いとく」
「は? ちょ、やめ」
どこからそのマジックペンを出したのか。犬飼は俺の手の甲にすらすらと数字の羅列を書き上げた。
「家この辺?」
「ん」
「俺も。平日はこんな時間になるけど、休みは暇してるから飲み行こうぜ」
確かに、もう良い時間だ。夏の夜の風は、いつの間にかそこまで嫌じゃないものに変わっていた。
じゃーな、とひらひら手を振った犬飼の後ろ姿を見ていた。ずっと。目に焼き付けるように。
もう会わないだろうから。
高校の頃、初めて女子に告白された。最初に告白してきた子の名前は今も覚えている。了承したけれど、三ヶ月と保たず、振り回して別れることになった。最低な記憶で、忘れることができない。
初めてした口付けもその子が最初で、その違和感に、姿が見えなくなってから口を濯いだ。本当に最低だ。
それをきっかけに歯車が狂ったみたいに仲良く楽しく話せていたのが無くなって、別れることになった。思えば、友人がしていた猥談も、グラビア雑誌も、動画も、どこか自分には当てはまらない他人事のような気がしていた。
俺は他人をきちんと愛せない人間なのか、と考えてからは、余り人には近付き過ぎないようにしていた。特に女子。
「ギター弾けんの?」
他人と一線引いていた俺に、そんなものはひょいと飛び越えて近付いてきたのは犬飼だった。
「まあ……」
「バンド組んでんの?」
「ん」
高校に軽音楽部がなかった。中学が同じだった楽器好きとバンドを組んで、練習してライブをしたりしていた。
自分に音楽があって良かった、と思う。今でも思っている。
「どんな音楽聴いてんの?」
音楽の趣味が一致して、CDの貸し借りをするようになった。バンドのライブにも、偶に招待した。
俺を救ったのは音楽で、犬飼との縁を繋げたのも音楽だった。
端的に言えば、自分は誰も愛せないんじゃなくて、同性の方を好きになりやすいという話だった。それに気付いたのは卒業間際で、犬飼との進路は違えていた。
「大学の方面一緒だったらなー、登校一緒に出来たのに」
「お前ならすぐに友達できるだろ」
「猫実みたいは奴には会えない」
「変わり種ってことか」
「いや、こんなに気の合う奴にはさ」
犬飼が好きだった。
借りたCDを返す、とメッセージを受け取ったのが最後。どうせ叶わない想いだ。このまま、そっと閉じる。それが一番、誰も傷つかずに済む。
返信せずにいて、携帯が壊れたタイミングで連絡先を失って、すごく落胆して、それでも少し安堵した。連絡が来たとか来ないとか、一喜一憂する自分に振り回されなくて済む。それだけが、救いだった。
「良かったじゃん」
「良くない」
ドラムの阿鹿(あじか)さんが首を傾げる。職業柄色んなドラマーを見てきたけど、人の話をきちんと聞いてくれる奴が多い。楽器の性質故なのか。
「あれだろ、ザネくんの初恋相手」
飲みかけた水を噴き出しかけた。
「そんな話した?」
「聞いてりゃ分かるよ」
「何を聞いて何が分かったんだよ」
「連絡先交換したん?」
「……してない」
手に書かれた番号は、石鹸で洗うと落ちた。覚えてしまいそうだったから、薄目で手を洗った。
「ザネくん、次お願いしまーす」
呼ばれて立ち上がる。今日は音撮りの日だ。
犬飼と違う大学に進んで、無難にやり過ごした。運命的な出会いは無かったけど、知り合いの知り合いを紹介されたりして、付き合ったり別れたりした。
バンドは大学で解散して、一人で音楽を続けていた。そんな俺を拾ってくれた音楽事務所に所属して、今も音楽で食べている。
熟、音楽に救われている。
「まあでも、また会ったりして」
「んなわけ」
もうあの自販機には行っていない、ので会わないだろう。
と思っていた。
「お前!」
ばし、と背中を叩かれた。驚き固まり後ろを振り向く。
「なんで連絡しないんだよ」
「すみません……」
「携帯出せこら」
「連絡先ヤクザか」
「俺がどんな気持ちで待ってたかと」
その言葉に、反論する余地もなく、大人しくスマホを差し出した。
コンビニへ夕飯を買いにふらふら出たのが間違いだった。というか、引っ越しするのが先かもしれない。
犬飼はワイシャツ姿でスマホを操作して連絡先を入れ替えている。
「……なんか困ってんの? 金とか?」
「は? 金?」
俺の今の職業を知って連絡を取ってくる奴は、大抵金か仕事か女か。全て無視している内に知合いが減った。
犬飼はそんな奴ではない、と分かっていながらも、そうとは限らない。人間は二面ある。
「困ってるとしたら、猫実と連絡取れなかったことだよ」
表と裏。
A面とB面。
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