8-3 放課後

 放課後、教室に誰もいなくなるまで、僕は呆然と座っていた。後藤と佐伯さんが帰り際に何か言ったけど、耳に入らなかった。


 ほんものの方違さんは、あちらの世界でどうしてるんだろう。

 向こうの後藤や佐伯さんに、変なことやひどいことを言われたりしてないだろうか。

 あっちの僕は、彼女を助けてくれないだろう。


 外が暗くなり始めていた。

 重いカバンと足をひきずるようにして昇降口まで来た僕は、薄暗い中で下駄箱にもたれて立っている小さな人影を見つけた。

 方違さん?

「苗村くんに、謝らなきゃと思って」

 暗い場所にいるのに、不思議とそのひと言だけで、ほんとの方違さんじゃないことが分かった。

 僕は上履きを脱ぎ、靴を取った。

「謝ることなんかないよ」

「みんな言ってた。わたしは苗村くんと、すごく仲がいいって。いつもいっしょにいるって」

「それは君じゃないよ。別の方違さんだよ」

「ん……。わかってる。ここはわたしの知ってる学校じゃないし、ここのみんなが知ってるわたしは、わたしじゃない。そうだよね……?」

「うん。だから、気にしなくていいよ。明日になればもとに戻ると思う」

「でも、稲村くんの気持ちを考えたら、わたし、ひどいこと言ったのかも、って……」

「別にいいよ。君からすれば、名前もよく知らない僕のことなんか信用できなくて当然だ。こっちこそ悪かったよ。君は僕の知ってる方違さんじゃないのに、つい」

 彼女は小さく首を振った。

「後藤くんが……こっちの世界の、後藤くんが、言ったの。信じたほうがいいって、苗村くんのこと。だから……」


   ◇


 後藤はもともと僕と同じ地区に住んでいて、小さい時からからずっと一緒だった。お父さんの仕事の都合で彼が転校していったのは中二の時だ。

 どうやらそこで、二つの世界は大きく分かれたらしい。


 僕の世界では、後藤は高校のある町に引っ越し、そこで佐伯さんと出会った。

 でも、左利きの方違さんが住むもうひとつの世界では、そうじゃなかったらしい。

 そちらの後藤が引っ越した先は、乗換駅のそばに五軒並んだ白い家のうちの二軒目、つまり方違さんの隣の家だった。


「男の子は苦手だし、最初は怖かった。でも、玄関の前で毎朝『おはよう、くるり』って声かけてくれて」

 帰りの電車で、僕の斜め向かいに座った彼女は言った。すきま風がひどくて寒かった。いつも肩を寄せ合って隣に座る方違さんが、今日はいない。

「それからずっと、中学に行くのも、遊びに行くのもいっしょで。月曜日のこともすぐに分かってくれて。『俺がくるりを助けてやるよ』って」


 聞けば聞くほど、彼女とあちらの後藤が中二の時から過ごしてきた時間は、僕らと似ているようで、ずいぶん違っていた。


「どんなことがあっても、後藤くんが必ず助けてくれたの。入学式に出れたのも、後藤くんのおかげ」

「……入学式に出たの?」


 その朝、二人は始発に乗ったけど、あと少しのところで電車が故障してしまった。彼らはあきらめず、運転手の制止を振り切って線路に降り、歩き始めた。


「そこまでして出たかったんだ……」

「ん……。後藤くんといっしょの高校だし……」


 しかし彼女は、途中で枕木につまずいて足首をいためてしまう。

 今度こそあきらめかけたとき、後藤が「俺は絶対にくるりを連れてく」と、彼女を抱え上げて高校まで運んでくれたのだそうだ。

 いくら彼女が小柄で細身でも、抱きかかえて長距離を歩くなんて僕にはとても無理だ。


「講堂に入ったとき、ちょうど名前を呼ばれたの。後藤くんに抱えられて『はい!』って……恥ずかしかったけど、うれしかった」

「そう」僕はうなずいた。「よかったね」


 垂直の町、縦浜からポンコツ飛行機に乗った時は、操縦士のおじさんが途中でぎっくり腰になってしまったけれど、後藤が「映画のヒーローみたく」操縦を代わり、おじさんの指示で無事に湖に着水することができたし、五歳のくるりちゃんの帽子が風に飛ばされたときも、後藤がとっさに柵に飛び乗り、ぎりぎりでキャッチしたそうだ。

「その帽子、今でも持ってるんだよ。もうかぶれないけど……。せんぶ後藤くんのおかげ」


 うす暗い感情が胸から喉にあふれ出して、僕は深いため息をついた。

「後藤のこと、好きなんだね」

「ん……」方違さんは赤くなって、うなずいた。「好き。大好き。優しくて、強くて、かっこよくて。ぜんぶ、わたしが持ってないものだから」


 ほんものの方違さんは今どうしてるんだろう、と僕は思った。

 後藤の隣で僕らと同じ車窓を見ているんだろうか?

 あっちの後藤なら、ひとりで泣いている方違さんを放っておいたりしないだろう。


 空が暗くなったころに、電車は乗換駅に着いた。

「ありがと、川村くん。わたし、うちに帰ってみる。お母さんも、妹も、ほんとの家族じゃないんだろうけど……」

 たしかに、そこにいる家族は彼女にとって他人だ。彼女を知る人はこの世界に一人もいない。

 日付が変わるまで僕が一緒にいてあげたほうがいいんだろうか。でもそんなことをしたら僕が家に帰れなくなる。

「じゃあ、おやすみ」と僕は言った。

「あした、あっちの稲村くんに話しかけてみようかな……。こんなに話しやすい人って知らなかった」

 後藤が好きなんだったらやめてほしい、と思ったけど、そんなことを言うわけにもいかなかった。

「いいけど、それは僕じゃないからね」

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