8-2 板書

 違和感の正体に気づいたきっかけは、板書だった。


 方違さんはちょっと目が悪い。細かい板書を見るときは、右手でノートを取り、髪が邪魔にならないように頭を少し右に傾けながら、左手で眼鏡をかける。

 その仕草が、僕はなんとなく好きだった。


 だから、四限の後半に先生が数式を書き始めたとき、隣の彼女がどうするか横目で見ていた。

 彼女もやっぱり、机に置いた眼鏡に手を伸ばした。

 でもその仕草は全然違った。

 いや、そうじゃない。ぜんぶ同じで、ぜんぶ違った。


 僕はバカだ。なんで今まで気づかなかったんだろう。


 彼女の動作は、左右が完全に逆だった。左にちょっと首を傾けながら、右手で眼鏡をかける。左手は、シャーペンを握ってノートに字を書き続けていた。

 方違さんは右利きなのに。


 僕は机の陰で携帯の画面を開き、方違さんの写真を一枚選んで、編集機能で左右を反転させてみた。

 左手に箸を持って照れ笑いしている夏服の女の子の顔は、いま隣に座っている彼女そのものだった。


   ◇


 昼休みになると、いつの間にか彼女の姿は教室に無かった。

 僕は何も食べる気がしなくて、ただ席でぼんやりしていた。

 本物の方違さんはどこに行ったんだろう。本当に、日付が変われば帰ってくるんだろうか。

 もし、このまま二度と会えなかったら?


 暗い考えに沈んでいると、誰かが僕の机をバン! と叩いた。

 僕はびっくりして顔を上げた。佐伯さんだった。

「苗村、あんたくるりちゃん放っといて何やってんのさ!」

「あの子はどっか行ったよ」

 僕の反応に、佐伯さんはますます怒った。

「はあ? あんたが悪いんだからね!」

「何がさ」

「知るか! くるりちゃんがひとりで泣いてんだよ? そんなの苗村が悪いに決まってんじゃん!」

「あの子、泣いてるの?」

「苗村さあ、今日は変だよ? いつもはあんなに『方違さん』『方違さん』って言ってんのに」


 あの子は方違さんじゃない。僕は何も悪くない。

 だけどどこかで泣いている彼女を想像すると、僕の胸は痛んだ。

 あの子がここでひとりで泣いているなら、僕の方違さんも、どこかでひとりで泣いているかもしれない。


「……佐伯さん、あの子はどこ?」

「自分で探せば?」


   ◇


 探さなくても、彼女は生徒ホールにいた。いつもいっしょにお弁当を食べる窓際のテーブルに、真っ赤な目をして座り、濡れた頬で魚肉ハンバーグをほおばっていた。

 僕に気づくと、彼女はふたの開いたままのお弁当箱を持って立ち上がり、席を離れようとした。

「待って、方違さん。ちょっとだけ」

「苗代くん」別人の方違さんは、氷柱つららを突き刺すような視線を僕に投げつけた。「あなたが後藤くんに変なこと言ったの?」

「そうじゃないよ。僕は何も言ってない」

「じゃあ、どして? それとも佐伯さんが――」

「方違さん、今日は月曜日だよね」

 彼女はちょっとため息をつき、お弁当をテーブルに置いて椅子に戻った。

「……月曜日だから、なんなの?」

「僕の知ってる方違さんと同じなら、君も月曜日には行きたい場所になかなかたどりつけないんじゃない?」

 女の子は何も答えなかった。

「なのに今日は無事に学校に着いた。でも何かが変だ。そうだよね?」

 やっぱり答えは無かったけど、何かを考えているようだった。

「たとえば……たとえば、左利きのはずの後藤が、右利きになってたりしない?」

 彼女の口が少し開いた。午後の光の中で、瞳孔の大きさが変わるのがはっきりと見えた。

「信じられないかもだけど、たぶんここは、君が生きてきた世界とそっくりな、別の世界なんだよ」

「……分かんない」

「変に思わないでほしいんだけど、こっちの世界の方違さんは、僕のいちばん大切な友達なんだ。君と入れ替わりに、あの子が君の世界に迷い込んでるかもしれない。だとしたら――」

「ごめ……わたし、分かんない」

 彼女はばたばたとお弁当箱を片付けて、席を立った。

「待って」

 僕は反射的に彼女を追いかけ、思わず腕をつかんだ。

「やめてよ! はなして!」

 ホールにいる全員が振り向いた。

 方違さんがこんなに大きな声を出すのを、僕は一度も聞いたことがなかった。

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