3-4 やがて雨は止み

 岩にぶつかりそうになったり、ぎりぎりで橋の下をくぐったり、うねりに振り落とされかけたりしながらも、僕らは互いの手を放すことなく、揺れるソファで川を下った。


 やがて雨は止み、山を離れ、流れも少し穏やかになった。増水した川ぎりぎりに家が並んでいるのが見える。


「ま……苗村くん、これって、学校の方にむかってない?」

 方違さんが指差す方には「HOTELサタデー騎士ナイトフィーバー」と赤い字で書かれたラブホテルの廃墟があった。角度は違うけど、電車から見えるやつだ。


 そうか。これは学校の近くのあの川か。

 通学路の橋からの風景を思い浮かべて、僕ははっとした。

「方違さん、大変だ。この川には――」


 この川には、段差がある。

 橋から少し上流にある、コンクリートで固めた滝のような段差だ。高さは二メートルくらい。普段でも水しぶきを上げて大量の水が流れ落ちている。あれに巻き込まれたら、ソファといっしょに川底に叩きつけられてしまうだろう。


 どうしよう?

 どうしたらいい?

 遠くに橋が見えてくる。

 その少し手前に、白い波が立っている。あそこだ。

 近づいてくる。思っていたよりずっと速い。考えている暇は無い。


「方違さん、飛び込もう」

「えっ?」

「ソファといっしょに落ちたら巻き込まれちゃうよ。一瞬早く、できるだけ遠くに飛び込むしかない」

「ん……」

「怖い? 僕も怖いけど……」

 僕は方違さんとつないだ手をいったん離して、互いの指の間に指を入れる形でがっちりとつなぎ直した。

「……ん」方違さんはうなずいた。「わたしはぜんぜん怖くない」


 近づくとさらにスビードが増す。白い波はもう目の前だ。

 僕らは揺れるソファの上で立ち上がった。

 不思議と、安心感が湧いてきた。方違さんと一緒だと大変なこともあるけど、それは月曜だけのことだ。火曜には必ず、普通の顔でいっしょに学校に行けるのだ。


「3、2、1でジャンプだよ。ソファを思いっきり後ろに蹴って、できるだけ前に」

「ん」


 上から見ると、段差は思ったよりずっと高い。五メートルはありそうに見える。それが特急電車みたいなスピードで近づいてくる。


「手をはなさないでね……まもるくん」

「行こう。3、2、1」


 ソファは落下し、僕らは空中に飛び出した。

 沸騰したミルクティーみたいな水面を真下に見ながら、奇妙なくらい長い間、落下が続いた。

 その宇宙遊泳みたいな時間のあいだに、方違さんは右腕で僕の背中を引き寄せ、僕の肩に額を押し当てた。


 そして僕らは渦巻く暗闇の中にどぼんと落ちた。


   ◇


 水というのは、どうつながってどう流れているのか、なかなか分からないものだ。

 もちろん、月曜日の方違さんの世界で起こる現象に、筋の通った説明なんてできっこないのだけど。


 ゆらゆらした視界の中で、見覚えのある男女が体操服を脱ぎ捨て、水着姿で近づいてくるのを、僕は夢を見るように眺めていた。


「誰だよこれ。どういうことだよ」

「生きてるみたい。ほら、空気出てる」


 僕の顔が、ぽかりと水面に出る。呼吸すると塩素の匂いがした。長い髪が水にゆらゆらしている。細い背中を抱き起こすと、ぐったりと体を預けてきて、僕の耳のそばで小さな鼻がすーすーと音を立てた。


 助かったんだ。


 錆びた監視台に、青いビニールの日よけ。僕らが抱き合うようにして浮かび上がってきたのは、学校のプールだった。


「苗村と方違じゃん」

「ほんとだ。なにしてんの? 水中窒息プレイ?」


 競泳水着の二人は後藤と佐伯さんだった。水泳部員の彼らはプールが気になって見に来て、たまたま僕らを見つけたらしい。


 僕の腕の中で、方違さんが熱にうなされたように言った。

「……はなさないで……まもるくん……」

「うわあ」佐伯さんがバタ足で離れていった。「逃げよう、後藤。聞いてるこっちが恥ずかしくなる」

「方違さん、しっかりして」

 肩を揺さぶると、方違さんはぼんやりした目を僕に向けた。

「苗村くん……」

「もう大丈夫。ここは学校だよ。一緒に帰ろう」

「ん……。電車は……?」

「すぐに動くよ。雨も止んだから」


 電車が復旧するのにも、方違さんの家が再び住める状態になるのにも、それから一か月近く必要になるのだけど、それはまた別の話。


 雲が切れ、真昼の日差しが、方違さんの濡れた髪と、肌にぴったりくっついたTシャツをきらめかせる。まぶしい光の中で、輝く白い肌と、ブルーグレーの瞳が、ぞくっとするほど美しかった。

 僕は思わず手を離して、一歩下がった。


「苗村くん、どしたの?」

「いや、別に……」

「おなかすいたね」

「……そだね」


 夏が始まった。

 プールサイドに並んで座り、つまらなそうにこちらを眺めている後藤と佐伯さんの上にも、さざ波の反射光が踊り回っていた。

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