3-3 今週は、何も起こらなかったな
アイスを食べ終えると、電気が復活した。部屋は白い光でいっぱいになり、テレビは各地の大雨について伝え始めた。
窓の外はいつの間にか普通のくもりの日ぐらいの明るさになり、雨もほとんど止んでいるようだった。
今週は、何も起こらなかったな。
ただ、どこかで水が流れる音だけはずっと聞こえ続けている。
「電車、そろそろ動くかな」
僕がつぶやくと、方違さんも小さな声で言った。
「そっか、ま……、苗村くんは、帰らなきゃだよね……」
方違さんはまだ、ひとりになるのが怖いのかな?
表情を見ようとしたら、目が合った。
彼女の瞳は、色としては黒なのだけど、なんとなく青みが入っていて、その奥が夜光貝みたいにきらきらしている。
その深い色から、うまく視線を外すことができなくて、僕らはそのまま四、五秒の間、まともに見つめあってしまった。
えーと、と僕は思った。
◇
沈黙を破ったのは、家の外から聞こえた突然の叫び声だった。
僕らはびくっと体を縮め、あらためて顔を見合わせた。
もう一度聞こえた。女性の声だ。意味のある言葉みたいだったけど、聞き取れない。何かを伝えようと、遠くから声を張り上げているようだった。
「何だろう?」
「ご近所さんかも……。わたし見てくる」
近所の人の前に僕が出ていくわけにもいかない。僕はちょっと不安を感じながら、廊下へのドアを開ける方違さんの後ろ姿を見守った。
「ひゃぁっ!!」方違さんがいつにもなく大きな声を出した。「なにこれ!!」
「どしたの!?」
水だ。
廊下から、小さな津波のような水流が押し寄せてくる。
リビングの狭い戸口に殺到した水は、一気に勢いと高さを増して、方違さんの足元に襲いかかった。
「……んゃっ!!」
方違さんはバランスを崩して転び、そのまま床を滑るように押し流されてきた。
「方違さん!!」
僕は片手でソファの背もたれにつかまりながら腕を伸ばし、方違さんの手首をつかんだ。
「大丈夫?」
「だいじょばない……」
髪までびしょぬれの方違さんを、僕はソファに引っぱりあげた。
水は激しく渦を巻きながら、あっと言う間にリビングに広がってゆく。僕らはソファの上で手を握り合ったまま、成り行きを見守ることしかできなかった。
やがて、空気清浄機もテーブルも植木鉢も、僕たちを乗せたソファもゆらりと浮き上がった。
方違さんは両手で僕の腕にしがみついた。
「ま、ま、まえむらくん……!!」
「えーっ、今さら間違う?」
水かさはあっという間に上がり、水圧でガラス戸がはずれて外に向かって吹き飛んだ。同時に、部屋にたまった大量の水が、ナイアガラの滝みたいに庭へと流れ出す。
僕らはソファに乗ったまま流れに運ばれて、海みたいになった庭へ投げ出された。
◇
いつの間にか雨は小降りになっていたけど、増水してふくれあがった川は巨大な茶色の帯になってどこまでも続いている。湿った空気で白くかすんだ風景は、まるで中国かどこかの大河みたいだ。
「これって、なんかさ……」と方違さんが言った。「二人で映画見てるみたいじゃない?」
「そう……?」
僕と方違さんは、濁流に浮かんで流され続けるソファに、体育座りで乗っかっていた。それぞれ一方の手で肘掛けを、もう片方の手でお互いの手をしっかりと握っている姿は、まあ確かに、映画館デートに似てるかもしれない。
「わたし、見たい映画があるんだけど、男の子のアニメなんだよね……。こんどいっしょに行ってくれる?」
「うん、いいよ。いいけどさ、ほら見て、今はそれよりこの状況だよ」
見渡す限りの視界にあるものは、波打って渦巻く茶色の水と、左右に続く黒っぽい山の連なりだけだった。
「すごいね。ミルクティーの川みたい」
「方違さんは怖くないの?」
「ん……。ぜんぜん怖くない。苗村くんとこうしてると」と、方違さんは僕とつないだ手に、くっと力を入れた。「なんでだろ? ……名前が、まもるくんだから?」
「そういう問題?」
名前が「まもる」だからって、僕は誰かを守れるほど強くはない。
でも僕と手をつなぐことで友達が安心してくれるなら、それはすごく幸せなことだ。
守るとかじゃないけど、この子のためにできる限りのことをしよう。
でもどうすればいい?
ソファは波に揺られて上下したり、ときには水平に一回転したりしながら、不思議とバランスを保って、沈みも傾きもせずにどんどん流されていく。
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