set list.4―また会おうと手を振って

note.18 かくして、葛生出穂は異世界へと転生を果たした。

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 葛生出穂かつき いでおは冷たいコンクリートに倒れた。


「か、葛生さんが、わるいんですよ……」


 それを見下した女性は、薄いベージュの春用トレンチコートを真っ赤に染めて、ガタガタ震えていた。


「わ、わたしは、何度も、つっ伝えたんだから……それでも受け取ってくれなかったのは葛生さんじゃないのよ!!!! はなしてっはなしなさいよッ、まだ葛生さんにわたしが愛してるってことちゃんと……!」


 にわかに起こった夜の繁華街での惨劇。

 数名の通行人から取り押さえられた女性の手から、血にれた包丁が音を立てて落ちる。女性は涙を流して彼の名前と世迷言を泣き叫び続けた。


 副業のライブバーからの帰り道、本業の勤務先の同僚女性に後ろから包丁で一刺し。

 深い刃は傷つけた先が悪く、失血多量とそれ以前のショックが死因とされた。


 葛生出穂、享年三十七歳であった。




「――――というのがお前さんの前世じゃ。まあ、まだ保持している人格は葛生出穂のままじゃがのう」


 ぼやーっとした意識に語りかけてきたのはジジイ臭い話し方の子供の声。


(そうか、俺は死んだのか……意外に呆気あっけないんだな)


 葛生出穂は肉体を脱ぎ捨てた状態、世にいう幽体だけの状態で果て無き宇宙を彷徨さまよっていた。


 葛生出穂に現在のところは例の声しか聞こえない。

 耳で感じる音声ではない気もするが、会話ができる。

 これが臨死体験というものか。漠然と葛生出穂は考えていた。


 PCモニタの見すぎて極限まで悪くしてしまった視力の目、上司の五月蝿うるさい声と部下達の親しげな声を聞き分けた耳、馴染なじんだ夜更けのエナジー飲料を味わった舌、たまに差し入れられた同僚からの濃いめのコーヒーの香りを嗅いだ鼻、何度たたいたかもわからないキーボードの固くて軽い感触。

 覚えている感覚器官すべてがここではそも感じられなく身軽。


 無だ。


 その無の中に、葛生出穂という自我だけがぽいっと無重力に放り出されているような。


「ほほう、呆気あっけないと思ったか。生命在る者、いつかはこの根源である宇宙に解き放たれる。そして、次の結合するべき肉体が見つければ、その魂使い尽くすまで生命を全うする……それはそれは長い旅路じゃ。この度は呆気なかったかもしれないが」


(ああ、呆気あっけなかった。生命は呆気ない。だけども、そう思うのは俺が大きな力に手を差し込んだ瞬間、まさにその時だったからだ)


「大きな力? それは何か?」


(音楽だ)


 ステージ上で燦燦さんさんと照明を浴びたシンバルのふちを眩しいと感じた目や、織りなす楽器を通した会話を聞き分けた耳、音楽による愉悦とアルコールを感じる分野は同じという話を聞いた夜のビールの美味うまかった舌、弦楽器・管楽器・鍵盤楽器・打楽器は異なる香りなのだと唐突に気付いた鼻、そして――――ざらっとしたスティックの重みと跳ねた時の弾力あるドラム上に存在する瞬間的なGの感触。手の形。


 これもまた、覚えている感覚すべてがここでは遠い。


(音楽というものに身を浸し沈みきるまでに、俺は死んでしまったんだな。ほんっとに呆気ない人生だった)


「そう思うのは、重力場で維持していた肉体を損ない、放出された魂だけの状態だからじゃ。おそらく一時的な感傷。ちなみにお前さん、男女のもつれの刃傷沙汰によって死んでおるんだからな。分かっておるのか? 女に背後から刺されるそれじゃ」


(男女のもつれ? ……いや、まったくもって身に覚えがないが)


「……そういうところじゃな」


 声の主はこれ見よがし(姿は見えないが)な溜息をいた。


「ところで――わしが魂だけになってほやほやの未だ『葛生出穂』であるお前さんに話があって参ったわけじゃが、お時間よろしいかな?」


(『葛生出穂』は死んだんだろう?)


「肉体はな。ここにある意識体は未だ『葛生出穂』を保っている。その一瞬を逃さず、健気けなげにもわしはお前さんをヘッドハンティングしようと一心に駆け付けたのじゃ。自己紹介をしよう。とある機構のしがない中間管理職、キーロイじゃ」


(ヘッドハンティング……? どういうことだ?)


 謎の声の主、キーロイが言うには、地球とは別の世界が未曽有のクライシスに陥っているという。その世界を救済するために力を貸してほしいということであった。


(なんか昔、そんなアニメか何かがあった気がするんだが……)


「そういった英雄たんはどこの世界でも存在し得る。こうしてお前さんにもオファーがあるくらいじゃからな」


(というか、死んだ俺に何をしろっていうんだ?)


「転生をしてもらう」


(転生?)


「そうじゃ。身体は既に用意してある。そこに葛生出穂の記憶を持ったまま魂を定着させ、世界救済のために少しばかり手伝ってほしい。報酬も用意する」


(転生……俺の記憶を持ったまま……?)


「もちろんわしもサポートする。しかも世界救済の方法は、エンジニアのお前さんの得意分野じゃ! その頭脳が欲しい! 十二分に経歴を発揮できる現場じゃぞ、どうじゃ?」


 このような状態では、持ち帰って検討し後日回答、なんてことも出来ない。今すぐに決断しなければならないのは、さすがに葛生出穂にもわかった。


(やり口が汚いな。どうせ、何かおかしな条件が含まれているんだろう? 俺はそういった怪しげなスカウトメールを生前何通も見たことがある。返事はしたことないがな)


「ヒョッヒョッヒョ、それも調査済みじゃ……そう言うと思って、なんと! 報酬はお前さんの言い値じゃ! お前さんが望むことを何でもかなえてやる! ま、わしが出来る限り、という条件はあるがな」


(何でも叶える……? お前は神か、はたまた魔王か……一体何者なんだ?)


「先の通りじゃよ。しがない中間管理職じゃ。さあ、どうする葛生出穂?」


 葛生出穂は死んだ。


 副業にしていたドラム演奏の仕事の帰りに、突然。


 正社員で仕事する傍ら、ドラマーをやっていたのは趣味の延長線上だった。

 己の中では特別なことではない。大学専攻の延長線上に、同じ専門性の職業があって、説明会に行って面接を受けて入社して。同じようなもんだ。

 とはいえ、副業を禁止していない大きな企業というのはそうないもので、たまたま条件があったのだが。


 しかし延長線上といえども、惰性でやって来たわけではない。音楽は強大なのだ。

 趣味としての強大な音楽に挑むための業後の時間。それは葛生出穂の人生にとっては欠かせないものだったわけだ。


(もし……俺が転生を承諾したら、またドラムをたたけるか?)


「ああ、可能だ。わしは音楽に造詣が深いわけではないのでな、その楽器とやらはお前さんのものを地球からコンバートするということでよいか? とりあえず福利厚生としてな」


むしろそちらの方が願ったりかなったりだ)


「ならば契約成立ということで良いかな?」


(待て。生き返るにしても命を張るにはそれだけでは安すぎないか?)


「ふむ、それもそうじゃのう。一つの世界が救済されるのだから、他にも思いつけば何でも言ってみるがよい。使用人付きの城でも絶世の美女でも、何でも用意してやろう」


 どんな願いでもかなえる、という安っぽい誘い文句よりも、葛生出穂はドラムがまたたたけることがとかく第一であった。


(プログラミングをして世界を救ってドラムをたたく。生前とあまり変わり映えはしないが、それはいいかもな)


「気持ちは固まったか?」


(ああ、音楽のために延命するようなもんだ。動機不順かもしれないが……俺が役に立つならその世界救済、承ろう)


「成立じゃ。頼むぞ、イデオ!」


 かくして、葛生出穂は異世界へと転生を果たした。

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