第20話




 謁見の間を出るとそこに妹姫のシャーリーが立っていた。


 だが、その顔にいつもの明るい屈託のない笑顔がなく、カインは気掛かりそうな顔になる。


 そうして妹の頬に手を当てた。


「シャーリー?」


「……わたし……嫁ぐこともできないのですか?」


「今の話を聞いて……?」


 さすがにカインも青ざめる。


 皇女としていつかは有益な相手と政略結婚すること。


 シャーリーが幼い頃から自分の唯一無二の役目と言われて、そのために自らの美しさを磨きあげ、ただひたすらに嫁ぐ日を待っていたのである。


 瀬希皇子の拒絶はどんな風に聞こえただろうか。


「誤解してはいけないぞ、シャーリー」


「兄上様……」


「瀬希皇子はシャーリーを拒絶したわけではない」


「でも、わたしとは結婚できないと仰ったのでしょう? わたしにはシャーナーンの皇女としての価値もないと」


 その青い瞳に大粒の涙が浮かび、それは次々と頬を伝っていった。


 明るく勝ち気だった妹が泣く姿をカインも初めて見る。


「そうじゃない。瀬希皇子はただ面識がないから、面識のない相手とは結婚できないと言っただけだ。相手がシャーリー以外でも、彼は突然申し込まれたなら、そう言って断ってきたはずだ」


「面識? 政略結婚にそれがそんなに重要ですか?」


 シャーリーは理解できないと言いたげな顔をしていた。


「向こうで話そう」


 そう言ってカインは妹をバルコニーへと連れ込んだ。


 夕暮れの風が吹き込むバルコニーで、兄と妹は並んで立つ。


 お互いの顔を見たまま。


「瀬希皇子は少し変わっていてな。なんていうか皇子としてはあり得ない思考の持ち主なんだ」


「あり得ない思考、ですか?」


「結婚は愛し愛されてするものだそうだ」


 シャーリーは絶句していた。


 皇女であるシャーリーにそんな優しい言葉を掛けてくれた相手は、ただのひとりもいなかった。


 みな結婚は利益を生むためのもの。


 血の繋がりは国のため。


 政略結婚は皇族の役目。


 そう言っていた。


 なのに同じ皇族であり世継ぎでもある瀬希皇子は、結婚は愛し愛されてお互いに望んでするものだと言う。


「なんてお目出度い発言なの!?」


 シャーリーは急に腹立たしくなってきた。


 さっきの涙を返せと言いたい。


 そんな理由で拒絶された?


 ふざけてるっ!!


「シャーリーのことだから、なにを考えているかはわかっているつもりだが、そうお目出度い発言でもないぞ?」


「どうして? 皇族ならっ」


「そう。皇族なら普通そんな甘いことは言っていられない。まして瀬希皇子は19歳。来年には成人する身だ。その歳までそんな甘いことを言っていてそれを貫き通す。それは生半可な覚悟ではできない」


「……生半可な覚悟ではできない?」


「シャーリーも皇女ならわかるはずだ。もしアレクがそんなことを言っていて、結婚を神聖視して恋愛結婚以外はしないと言っていたら……どうした?」


「バカなことは言わないでって大兄様を説得したわ」


「そういうことだ」


 そう言われてもシャーリーにはよくわからない。


「わからないか? 口に出すだけなら誰にでもできる。だが、皇族が、それも世継ぎがそれを貫き通すには、並々ならぬ努力と精神力が必要だ。どれほど周囲から強制されても、自分を曲げない強さもな」


「……それって凄いことなの?」


「おれにはとても出来そうにないな」


 兄の一言にシャーリーは黙り込んでしまった。


「瀬希皇子がそう言い切れるのは、それだけの強さを兼ね備えているからだ。甘い考えを甘えで終わらせない覚悟も。決して彼は甘ったれてなんていない」


「……褒めているように聞こえるのだけれど?」


「ああ。実際褒めているからな。しかも信じられるか? 瀬希皇子は申し込まれたその日にしかもアレクの目の前で断っているんだ。シャーリーとは結婚できないと」


 その言葉に唇を噛み締めた後で、シャーリーも気付いた。


 それがどういう意味を持つのかに。


「凄い人ね、瀬希皇子って」


「ああ。断られた後のアレクをシャーリーにも見せてやりたかったな。おれは直ぐには近寄れなかった」


「大兄様らしい」


 クスクスとシャーリーは笑う。


 それから真顔になった。


「それでわたしはどうすればいいの? 兄上様ひとりで戻っていらしたってことは、大兄上様は瀬希皇子との婚姻を諦めていないということでしょう?」


「実はな。言いにくいんだが瀬希皇子には、ふたり側室がいる。それも男の」


「まあ珍しくないけれど。なんていうか勝手な人ね? それが結婚は愛し愛されてするものと言い張っていた人のすることなの? 結婚する前に浮気? もしくは本命がいる状態じゃない。それもふたり」


「愛し愛されて結婚するものなら、愛し愛されていれば、何人側室を持っていてもいいってことじゃないか? まあその辺は正直なところ謎なんだがな」


 側室とは肉体関係はないんじゃないか。


 そう言っていたアレクの言葉を幼い妹に言うべきかどうかカインは迷う。


 そういう話題は早いような気もするが、夫となるかもしれない人が、肉体関係を持ったことがあるかどうか、それは知りたいことのような気もする。


 散々悩んで結局口を開いた。


「アレクの見立てでは」


「なに?」


「……既成事実はまだないんじゃないかと言っていた」


「それ、側室とは言わないじゃない」


「まああくまでアレクが言っているだけだからな。当たっているかどうかはわからない」


「当たっているんじゃない? そういう意味での大兄上様。凄く鋭いわよ? 経験の差かしら?」


 それはそうかもしれないが、僅か15でこういう話題をすんなり受け入れる妹にも困ったものだ。


 将来が思いやられる。


「だが、側室に迎えていて、もし本当になにもしていないとしたら、それだけ本気だという意味にもなる」


「本気? どうして?」


「瀬希皇子が執着している側室は第一位の側室なんだが、随分幼いんだ」


「わたしよりも?」


「そうだな。シャーリーより幼いかもしれない。そのわりに双生児の兄だと紹介されたもうひとりの側室は、随分年上に見えたが」


「? ? ?」


 外見年齢の違う双生児と言われ、シャーリーの頭には疑問符が飛び交っている。


「つまりだな。それだけ幼いからこそ、瀬希皇子は相手の成長を黙って待っている可能性があるわけだ。真剣に愛しているから」


「……それでわたしにどうしろっていうの? 余計に望みがなくなった気がするけれど」


「アレクはその瀬希皇子が執着している側室を欲しがっている。それに華南との同盟もな」


「つまり華南との同盟のためにも、そして大兄上様が望んでいるその側室の方を手に入れるためにも、わたしに瀬希皇子をなんとかしろってことなのね?」


「はっきり言えばそうだ」


「誘惑しろってこと? そんなに愛している相手がいて、しかも大兄上様相手でも一歩も引かないほど意志の強靭な皇子を」


「誘惑というより愛されてほしい。そしてシャーリーも彼を愛してほしい」


「難しいわね。政略結婚と割り切る方がまだ楽だわ」


 要は心の問題である。


 出逢ったばかりの人と恋愛関係を築けと言われても難しい気がする。


「難しいことを言っている自覚はある。だが、瀬希皇子の結婚への拘りを思うと、おそらくそうならなければ見込みはない。誘惑はできないと見るべきだ。誘惑では彼の心は動かない。真剣に相手に愛されて、彼にも愛されないことには、おそらく彼は結婚しない」


「ふう。厄介ね。頭痛がするわ」


 シャーリーもいつかは政略結婚をするんだろうと思ってきた。


 そのために自分を磨いてきたし、歳を重ねる毎に覚悟を決めてきたつもりだ。


 でも、さすがにこれはないだろうと思う。


 そんな面識もなかった相手と、いきなり愛し合え、なんて無理難題にもほどがある。


「だが、シャーリー。その通りになって瀬希皇子が結婚を認めれば、シャーリーは幸せな花嫁になれる」


「兄上様……」


「切っ掛けは政略かもしれない。だが、瀬希皇子が恋愛に拘るお陰で、話が纏まったときには、シャーリーは恋愛結婚という形になるんだ。夢だったんじゃないのか? 本当は」


 確かに恋愛結婚はシャーリーの憧れだ。


 女の子なら誰だって夢を見る。


 本当に好きな人と結ばれる。


 ただそれだけの他愛のない夢を。


 切っ掛けは確かに政略かもしれない。


 でも、本当に愛し愛されれば、シャーリーは恋愛結婚ができる?


 悩むシャーリーにカインは微笑みかけた。


 兄妹弟にしか見せない笑顔だ。


「最初はアレクがこの話を出したとき、おれもとんでもないと思ったんだ。シャーリーはまだ子供だと思っていたし。この話はどう聞いても政略でしかなかったから、もう少し自由で居させてやってもいいんじゃないかと思った」


「兄上様は相変わらず優しいわね。不器用だけど」


 そう言って微笑むシャーリーの笑顔は屈託がない。


 この兄にしては珍しい妹、というべきだろうか。


 シャーリーはアレクともカインとも似ていなかった。


 アレクほど強気ではないし、カインほど不器用でもない。


 天真爛漫な妹。


 少し勝ち気だが。


「だが、瀬希皇子の結婚に対する拘りを聞いて、おれも少し考えを改めた。それに瀬希皇子の人柄も信頼に値するものだし、妹を預けても泣かせないと信頼できるとも思えた。だから」


「もういいわ。兄上様」


「シャーリー」


「わたし。頑張るから」


「そうか」


 それだけを答えてカインはシャーリーの頭を撫でた。

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