衝撃的な微笑み
二時間のカラオケも終えて、二人は帰路に付いた。二時間のカラオケは、元々の目的通りほとんど礼子の練習に時間を費やした。
「あたししか歌っていないのに、お金は良かったんですよ?」
礼子が助手席で粛々とそう言ったのは、自らの練習に付き添わせた上で、健太がカラオケ代を折半してくれたから漏れた言葉だった。
「いいえ、だってあなたに全部払ってもらったんじゃ、俺がカラオケ代も払えないくらいに逼迫しているように見えるでしょう?」
要は見栄を張っただけ。ただ健太としてはたかだか数千円をケチる程度で張れる見栄ならば張り得だと考えていた。それに、こう言っておどけた方が、礼子としてもこの数千円の費用を後腐れなく忘れることが出来るだろうと考えていた。
「もう。適当に言って誤魔化そうとしないでください」
しかし、礼子は健太の意図はお見通しらしかった。
「いいんですよ、本当に。たった数千円の話です」
「でも岩瀬さん、今日結局一曲も歌っていませんよ?」
「その代わり、たくさん美声を聞かせて頂きましたから」
「ちゃ、茶化さないでくださいっ」
本気だったんだけどなあ、と健太は黙った。
礼子の顔が真っ赤に染まったのは、夕日と羞恥のせいだった。
カラオケ店を出た車は、立体駐車場をクルクル回り、そうして大通りへと合流した。隣県に差し掛かる街並みは、都内に比べればビルと空の距離が遠かった。その光景に、礼子は少し魅入っていた。別に都内以外に移動する機会が少ないわけではない。世界情勢が回復しつつあり、ロケの仕事も戻ってきた。
それでも、今この光景に魅入ってしまうのは、環境のせいなのだろうか。
旧知を思い出させる懐かしくも儚げな真っ赤な夕日。
皆々が我が家への帰路へついているのか、静かに混雑する道路。
そして隣には、健太がいた。
都内へ向けて進む車は、わかりやすく渋滞に引っ掛かった。進みの鈍化する道路。健太は、ハンドルに寄りかかって暇をつぶしていた。
「……楽しみですね」
「え?」
「モノマネ番組の収録ですよ」
「……ああ」
先ほど、カラオケ店にてあれだけ健太に褒めてもらったのに。
音痴だという不安が払しょくされたというのに。
礼子の顔は、晴れなかった。
健太は知っていた。酒の入っていない礼子は、酷く臆病であることを。
「まだ何か、不安がありますか?」
「……音痴でないことは、岩瀬さんのおかげで、わかったんです。でもあたし……たくさんの人の前で歌ったこと、ないから」
あれだけたくさんの人に見られる仕事をしていて、礼子はどうやら、テレビの前で歌うことに拒否反応を感じているようだった。
健太は少し考えた。先ほどカラオケ店で、最後の方はもうノリノリで礼子は歌を歌っていた。最初はモノマネ番組で歌う歌を練習していたのに、最後の三十分は最近よく聞いているらしい曲も歌っている始末だった。
ただ、別にそれでいいと健太は思っていた。健太が礼子とカラオケを一緒に行ったのは、彼女の歌の練習もあるが、彼女のストレス解消も理由だったからだ。
それで彼女の気持ちが晴れるならば、それでいいと思ったのだ。
「あたしの歌を聞いてもらったことがない人の前で歌を披露するのって、少し恥ずかしいです」
「俺の前では歌えたのに?」
今日、あれだけ健太の前で快活に歌を歌っておいて、その言い分は無理があると健太は思っていた。健太と礼子の関係は、たかだか数か月。健太が素面の礼子の歌を聞くのは、今日が初めてだった。
「今日だって、最初は緊張していましたよ?」
「そうでしたか」
「はい。そうでした」
それであれば、困った事態になった。
健太は大概、礼子の出演するモノマネ番組での、彼女の歌を楽しみにしていたのだ。
苦笑する礼子を拝みながら。
進みの悪い車に飽き飽きとしながら。
健太は、どうすれば礼子が衆人環視の前で歌を披露出来るか、考えた。
ただまもなく健太は、その術を思いついた。つまるところ礼子は、他人の目を意識するから歌を歌うのが恥ずかしいと思うのだ。
よく大舞台を前に緊張する人に、他人の顔をピーマンだと思え、と言う人がいる。それは他人の目を意識するな、と言うことを意味していた。
「吉田さん、当日は出演者や観覧者をニンジンだと思ってみるのはどうでしょう?」
ニンジンは、健太が一番好き野菜だった。
「……ちょっと気持ち悪いです」
「な、なんですって?」
あのニンジンを、気持ち悪いと?
反論しようと思った健太だったが、頭の中で頭がニンジンの人間を想像して、確かに気持ち悪いなと気付いた。
で、あれば……。
思い当たるのは、礼子が視線を意識せずに済む相手の顔に思え、と言うべきだと言うことだった。
例えば、誰だろう?
健太は唸った。
優……は、厳しいから駄目だろうと思った。
礼子の両親……は、確執があるようだし悪影響を及ぼしそうだと思った。
ならば……。
「じゃあ、皆のこと、俺と思うとか」
言ってから、健太は自分が自意識過剰染みたことを言ったことに気が付いた。
ぽかんと呆けた礼子に、健太の中の羞恥がうずうずと増していった。
「わ、忘れてください」
ようやく、渋滞が緩和されつつあった。
マフラーから排ガスを噴き出して音をたてた車が、景気よく進んでいった。
「それ、良いかもしれません」
クスリ、と礼子が笑ったのは、健太がようやく内心の羞恥を克服出来つつあったそんなタイミングだった。
「なんですって?」
「出演者、観覧者を岩瀬さんだと思って歌ってみようと思います」
「あまり、茶化さないでください」
呆れたように健太はため息を吐いた。
「茶化してなんて、いませんよ?」
そんな健太に、穏やかに安らかに微笑んだのは、礼子だった。
「もし当日岩瀬さんがスタジオにいてくれたらあたし、きっと皆が驚くくらい、上手に歌を歌えると思います」
「ははっ。何を根拠に」
「根拠は……」
礼子の中に宿った、健太に対する秘めたる気持ち。
意中の人が微笑んでくれるなら。
意中の人が喜んでくれるなら。
羞恥も困難も、無理強いだって。
礼子は、なんでも出来るような気がしたのだ。
「……根拠は?」
「ヒミツです」
しかし礼子は、誤魔化すように微笑んだ。
この秘めたる思いを告げて健太が困ることは、目に見えていた。
だから、今はまだ告げるべきではないと、そう思ったのだ。
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