衝撃的な実力

 しばらくエントランスでの小競り合いを経て、数人のマンション住居者に痴話喧嘩だと笑われながら、二人はようやくマンションを後にした。


「それじゃあ、行きますかっ!」


「吉田さん、どこに行くんですか?」


 一人歩道を歩こうとした礼子に、健太は首を傾げた。健太の手には、鍵が握られていた。


「車で行きましょう」


「え、良いんですか?」


「えぇ、勿論です」


 礼子は、顔バレ厳禁の有名人で方向音痴。そんな人と周囲を気にしながら一緒に歩き、もし途中見失ってしまいでもしたら大変だと思った。

 ただそれは、口が裂けても言えるはずはなかった。


 マンションの駐車場へ行き、健太はマイカーの鍵を開けた。


「カッコイイ車ですね」


「ありがとうございます」


 微笑んで、お礼を言った。


「そっちにどうぞ」


 運転席のドアを開けて座りながら、健太は言った。

 まもなく、隣の席に礼子が座った。


 まるで面接時の就活生のような美しい姿勢で、礼子は助手席に座っていた。


「別に畏まる必要はないですからね?」


 一応、健太はそう断っておいた。


「そうですか? ……でも、男の人はマイカーを汚されるのは嫌うって聞いたことがあります」


「高い買い物ですからね、嫌な人は当然いますよ」


「岩瀬さんは違うんですか?」


「まあ、この車もそろそろ買い替えたいと思っていた頃ですので。多少なら許容出来ます」


 えりかとデートの際に彼女をこの車に乗せた際、彼女に天井にソフトクリームをぶつけられたことを健太は思い出していた。納車したばかりの車にされたものの、青筋を立てながら大丈夫だと言ったが……内心ではそれはもう、腹が立ったことを覚えている。

 何故今そんなことを思い出したかと言えば、つまりはそれくらいされても健太はまだ寸でのところで我慢が出来る、ということだった。


「じゃあ、行きましょうか」


「よろしくお願いします」


 一言断っておいたものの、結局礼子はずっと運転中、行儀正しい姿勢のままシートに座っていた。健太はその時、いつか礼子が自らを旧家出身だと言っていたことを思い出していた。育ちの良さが、この辺でも出ているのだろうと推察された。

 家から数十キロ先のカラオケを練習場所に指定したのは、家の近場はどこで誰が張っているかわかったものじゃないからだった。


 事前に予約しておいたカラオケ店に着くと、二人はスムーズに部屋まで案内してもらえた。


 カラオケ店を練習場所に指定しておいて、実は礼子はカラオケ店に入店するのは高校生以来だった。当時に比べて随分とハイテクになった室内に、浮世離れした光景でも拝んでいるかのような目新しさを感じていた。


「ジュース、何が良いですか?」


 そんな時、健太がコップを二つ持ち尋ねてきた。


「あ、お酒はないですからね? 今日は一応、真面目な練習の場所なので」


「えぇと、あたしも一緒に」


「良いですよ。男の俺を立ててください。こういう場所では、男が率先して動くべきだ」


「……じゃあ、お茶で」


「わかりました」


 健太がジュースを取りに行ったのは、有名人である礼子を室内になるべく出さないようにする配慮だった。

 ものの数分後、健太が部屋に戻った。


「はい。どうぞ」


「ありがとうございます」


 健太はコーヒー。礼子はお茶を啜った。

 一息置いて、


「じゃあ、練習しますか」


「はい」


 ようやく、二人は練習を始める気になった。

 今日の主役は礼子。カラオケ機器をいじり、礼子はモノマネ番組当日に歌う曲を予約した。


 まもなく、歌が流れ始めた。


 礼子の緊張した面持ちを、健太は見逃さなかった。


 礼子の脳内を巡っていたのは……。


 上手く歌えるだろうか。

 当日は大丈夫だろうか。


 健太に、笑われないだろうか。


 ザっとこんなところであることは、健太はわかっていた。


 ただ、意外にも健太はそこまで……礼子の歌唱力を心配してはいなかった。


 イントロ。

 Aメロ。Bメロ。サビ。


 静かな礼子の歌声を聞きながら、健太は自らの推測が正しいことを悟った。


「どうでしたか?」


 歌い終わりに、礼子は緊張した面持ちで健太に尋ねてきた。


 健太は、素人ながらに吟味のため、難しい顔で礼子の歌を聞き入っていた。


 静かに、健太は目を開けた。


「お上手でした」


「……え?」


「だから、歌、お上手でしたよ。吉田さん」


 健太の優しい声色。微笑みに……礼子は戸惑った。そんなはずないと思ったのだ。でも、健太の顔にお世辞や嘘は含まれていないように見えた。


「えぇと……」


 結果、礼子は口ごもった。


「最初から違和感があったんです」


 そんな困惑する礼子に、健太は続けた。


「俺、あなたの歌を下手だと思ったことなかったんです」


「……あたし、岩瀬さんの前で歌を披露したことありましたか?」


「えぇ、何度も」


「……何度も?」


「晩酌会で酔いが深まると、あなたいつも歌い出すんですよ?」


 途端、礼子の顔がカーっと真っ赤に染まった。意中の人にまさか、そんな姿を見せていたとは。


「近所迷惑だから止めろとその時は注意していましたが、本当はもっと聞きたいと思っていた。俺にとってあなたの歌は、それくらい魅力的に聞こえていました」


 一層、礼子は顔を赤くした。意中の人にまさか、そんなことを言われるとは。

 しかし、まもなく礼子の脳裏にトラウマが蘇った。


「でも、あたしはあの時……」


「それで思ったんですが、あなた、件のユニットの話がご破算になった時、ちゃんと事情を確認したりしました?」


「え?」


「昨晩、失礼ながら俺、調べさせてもらったんです」


 自らのスマホを操作した健太は、スマホ画面を礼子に見せた。

 画面には、いつかの礼子のトラウマユニットの名前と、計画中止の文字。


 当日の辛い記憶から、礼子は顔を真っ青にしてスマホから目を逸らした。


「……辛い記事をすいません」


「いえ」


 憔悴する礼子を前に、健太は一瞬逡巡した。


「おかしいと思いませんか?」


 しかし、全てを打ち明けた方が良いことは明白だった。


「このユニットの話って、言ってしまえばビジネスの話でしょう? 決定直前のビジネスが瓦解することって、普通滅多にないことですよ?」


「そ、そうなんですか?」


「はい。考えてみてもください。事務所はこのユニットビジネスのために既に数百万の費用を投資していたことでしょう。広告費。人件費。設備費。他にも色々。それだけの費用を使って、その費用を回収する前に話を終わらせれば、使った費用は全て会社の赤字になるわけですよ?」


「……あ」


「たかがユニットメンバー一人が歌が下手なくらいで、その数百万の回収を会社が諦めるはずないんです」


 そう言って、健太はスマホを再び操作した。

 文字を読み、ここだ、とポイントを指さした。


 礼子がスマホに視線を移した。健太の指先には……とある出版社がすっぱ抜いたメンバー一人の夜遊びが原因での企画中止、と書かれていた。


「……この人」


 礼子は、ショックを隠せず口元を手で覆った。


「知って……いて当然でしたね。どんな方です?」


「……あたしの歌が下手って、陰口を叩いていた人です」

 

「なるほどね」


 今や件の女性が、過去どうして陰で礼子の悪口を言っていたか。それは知りようがない。

 でも結局……真面目に努力する人の足を引っ張る人は、いつだって不真面目で怠惰な人なのだな、と健太は思い、呆れたため息を吐いた。

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