衝撃的なデート

 夕飯時、健太は自室で一人炒め物に明け暮れていた。フライパンを持つ右手を振りながら、頭の中ではぼんやりと先ほどの礼子とのやり取りを思い出していた。

 礼子から聞かされた女優成りたて時代の彼女の思い出話は、今でこそ大女優として押しも押されぬ彼女とはとてもじゃないが結びつかないような話だった。


「思えば、彼女が酒浸りになったのって……そういうトラウマに近いストレスが原因なんだろうなあ」


 フライパンの上で油が跳ねる音にかき消されるくらい、小さな声だった。

 ……健太的には、礼子はアルコール依存症予備軍の扱いだった。


 健太は思っていた。努力の成果が実らないことも、周囲に実力不足故に煙たく思われていただろうことも、全て、辛かっただろうな、と。

 それでも礼子は歌が上達するようにと努力は惜しまなかったと言っていた。初めて会った日から思っていたことだが、彼女のバイタリティには目を見張るものがあると思っていた。


 健太は考えていた。

 果たして自分が礼子と同じ立場にあったとして、周囲にそこまで煙たく思われたとして、練習を続けて行こうと思えただろうか。その仕事を辞退して逃げ出すことはなかっただろうか。


 礼子は、逃げ出さなかった。

 でも、仕事は頓挫してしまった。努力が実らず挽回の機会も得られず、残されたのは仕事の失敗だけ。だからトラウマになった。

 歌の練習を業界人に見せたくないと思う程、礼子は歌うことに恐怖を抱いたのだ。


「……でも、今度のモノマネ番組は辞退しないんだからな」


 礼子自身が、歌うことへの恐怖を克服したいと思っているのだ。

 健太はそれを察して、フライパンの取っ手を掴む手に力が入った。


「……必死に努力する人なのに、ユニットメンバーも酷い連中だ」


 当人の前では言わなかったようだが、裏でさえ、せめて礼子が傍にいる可能性のある場所で下手だとか、そんな話はするべきではなかっただろう。健太は憤っていた。

 そして、必死に努力する人を小馬鹿にするのはどんな奴らなのか、健太は気になり始めていた。


「……スマホで調べたら、当時の記事くらい出てくるだろうか?」


 調理終わりに料理を小皿に移して、健太はスマホを置いてある机へと歩いた。

 丁度その時、スマホが震えた。


『こんばんは』


 相手は、礼子だった。

 スマホのメッセージには、明日の予定。家を何時に出て、どこのカラオケに行くか。そんなことが綴られていた。

 マンションのエントランスを集合場所に設定した礼子に、健太は少し驚いた。先程あれだけスキャンダルの件で指摘をしたのに、堂々とマンションを一緒に出て大丈夫か気になったのだ。


『あたし、実は方向音痴なんです……」


 まもなく礼子からメッセージが返ってきた。


『地図を見ても、場所を間違えるんです。仕事の時もいつも、下に松木さんにワゴンを停めてもらっていました』


 なんとなく、優が脇の甘い礼子に厳しい理由が、健太はわかった気がした。そう言えば最近では、健太も危なっかしい礼子のことを想って少し厳しい発言が続いていた。


『変な記事は書かれないように、変装はしっかりお願いしますよ?』


『はい! 任せてください』


「本当に大丈夫か?」


 少しだけ心配だが、マンションの廊下は室内で衆人の目は届かない。エントランスまでに、気になるところがあれば直してもらえばいいかと気付いた。


『明日、楽しみです』


『それは良かった』


『初めての二人でのお出掛けですね』


『浮かれるのは結構ですが、歌の練習ってことは忘れないでください?』


『ぶー、大丈夫です』


 不貞腐れた礼子に、健太はもう一度不安を抱いていた。当初の目的を忘れていやしないだろうか? いいやそんなはずはない。彼女はあれで、国内屈指の大女優。俳優業を勤しむ人であれば誰もが望む賞を受賞した経験もある偉大な人。


 そんな彼女が、まさかそんなこと、あるはずがない……。


「おはようございます」


 ただ翌朝のエントランスで突然腕を組んできた礼子に、しどろもどろになりながら健太は昨晩の自らの思考を呪っていた。


「吉田さん、俺達別に恋人同士ってわけじゃないですよ?」


 事実を指摘した結果、礼子は頬を膨らませた。


「わかってますー。でも、完璧な変装の上夫婦を演じた方が、身バレの懸念が減ると思いませんか?」


「夫婦?」


 礼子の言葉が、健太は引っ掛かった。

 ゆっくりと、健太は礼子の出で立ちを眺めていった。いつかのピンクフレームの眼鏡。ベレー帽。そしてマスク。衣服は誰もが望むスタイルが際立つベルト付きのベージュのワンピース。


 ……夫婦?


 健太は気付いた。自分の腕に這われた礼子の左手から、指以外の固い感触があった。場所として、人差し指だった。


「岩瀬さん、これを付けてください」


 思い出したように、礼子は健太に指輪を差し出した。

 それをどこに付けるのか。健太は理解して呆れた。


「まず、どうしてこうしようと思ったのか、から聞きましょう」


「どうしても何も……さっき話した通りです。いっそ夫婦を演じた方が、身バレの可能性が少なくなると思いました。あたしが独身であることは、マスコミも知っているので」


 と、建前を置いて。

 礼子的には、健太とそうなりたい。そうしたい。という意識が大前提にあって、今回の行動を起こした。


 何故なら礼子は、健太のことが好きなのだから……!


「……却下です」


「えー、どうしてー?」


「バレた時、一層大変なことになるから以外に理由がありますか?」


 確かに、と礼子は思った。

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