衝撃的なトラウマ

 礼子の願い出は、字面自体で考えると難しいことは何もなく、礼子にカラオケに行きたいか行きたくないかをただ答えればいいだけの内容だった。

 しかし、今健太が難しい顔をして答えを逡巡しているのは、以前から同様、礼子の素性が原因だった。


「あなた、俺をカラオケに誘う意味、わかっていますか?」


 大女優である礼子が、異性とカラオケに行く。健太がその誘いを礼子にされて一番に脳裏を過ったのは、彼女のスキャンダルだった。

 健太は思っていた。真っ先にそんなことを考えることを、自意識過剰だと鼻で笑う人も中にはいるかもしれない。お前と礼子が釣り合うはずがない。そんなことを言う人だっているかもしれない。

 健太だって、そう思って今さっき言い出した言葉を引っ込めたい気持ちもあった。でもそうしないのは、この前に散々、とある厳しい女性に、礼子と健太が晩酌会をすることがどんなことを意味するのか。それを教えられたせいだった。


 礼子のマネージャーである優が言った指摘の通り、他人をダシにし食い物にすることでしか生活できないマスコミにおいて、どれだけ不細工な男でも、どれだけみすぼらしい男でも。とにかく、礼子の隣に男が歩いているという事実だけで十分なのだ。

 それだけで連中は、吉田礼子を骨の髄までしゃぶって捨てていくだろう。


 礼子の将来を危惧して、健太は今厳しい言葉で彼女に問うた。それは、カルパスを危険に晒す礼子を叱った一件と、ほぼ同じだった。


「わ、わかっているつもりです……」


 委縮しながら、礼子は言った。


「わかっているなら、しない方が良いのではないですか?」


「でも、大丈夫ですっ!」


 何を根拠に言っているのか、健太は理解に苦しんだ。


「変装は完璧にしていきます。周囲への警戒は怠りません」


「でも、もしもってことはあるでしょう?」


「……どうしても」


 切実な顔で、礼子は続けた。


「……どうしても、他の人には頼みたくないんです」


 そこまで、礼子がこの件を業界人に頼みたくない理由が、健太には思いつきそうもなかった。


「……事務所に入りたての頃です。あの時は、両親を見返したい気持ちもあってとにかく必死でした。当時のマネージャーと二人三脚でどうすれば売れるか。どうすればまたお仕事に呼んでもらえるか。毎夜毎夜遅い時間まで、ずっと話し合っていました。本当に、色んなことを話したんです。女優という道だけで食べていけるのか。舞台だったり、ラジオだったり、そういう細々としたところから下積みを積む必要があるんじゃないのか。そうした努力が実ってある程度売れ始めたある時、歌のお仕事をもらえそうになったことがあったんです」


 健太は聞き役に徹していた。口を挟むのは野暮だと思った。


「言ってしまえばその仕事は、アイドル活動にも近いお仕事でした。最近売れ始めた女優数人でユニットを組んでシングルCDを発売する。あわよくばそれなりに売れて、ユニットを解散させずに継続させることまで視野に入れていました。でも、結局そのお仕事はお蔵入りしました。……あたしが、歌が下手なせいで」


「あなたの歌が下手なせいと、どうして言い切れるんです?」


「……ショックだったんです。最初のレコーディングの時、皆本当に歌が上手くて、昔からあたし、歌に自信がなかったから。だから、本当に皆の歌が、輝いて見えたんです。誇張ではありません」


 歌が輝いて見れる、とは、どんな体験なのだろうか。健太には見当もつかなかった。


「それでも、精一杯に仕事をこなそうとしました。でもある日、ユニットメンバーの一人の陰口を聞いてしまいました」


「……どんな?」


「吉田礼子は歌が下手だ。あいつがユニットの足を引っ張っている。早く辞めて欲しいって」


「……酷い」


 健太の呟きに、礼子は俯いて顔を横に振った。


「歌が下手なことは自覚はあったので、辛かったけど、頑張れました。でも、ユニットの話が泡となって消えてしまったんです。ニュースとして報道をした後の、突然の話でした」


 礼子の顔は、悲痛に歪んでいた。


「それ以来あたし……怖いんです」


 何を怖がるか、健太には心当たりがあった。


「……業界人に歌を聞いてもらうのが怖い、ということですね?」


 黙って、礼子は頷いた。

 礼子が業界人。マネージャーであり友人でもある優にさえ、歌声を披露したくないと思った理由。あまりに重いその話に、健太は少し気が重くなっていた。


 件のモノマネ番組での歌の披露。

 そもそも歌の上手い下手関係なく、こんな調子で、礼子はそれを十二分の力を発揮しこなすことが出来るのだろうか?

 そうでなくても、業界人から見て下手だと一蹴されるその歌を、モノマネ番組までに上手くさせられることなど出来るのろうか?


 無理に決まっている。

 健太はボイストレーナーでもなければ、その道に精通した指導者でもない。


 ……ただ。


 健太は違和感と同時に、先ほどまでの礼子の様子に同情を隠せなかった。

 礼子が寂しがり屋な女性であることを、健太はこれまでの晩酌会やあれこれで散々知っていた。努力に努力を重ね、血反吐を吐く思いで寝る間を惜しんでこなした練習の成果が失敗に終わって、相談出来る相手もおらず、一体、当時の礼子はどれだけのトラウマをそれで抱えたことだろうか。

 健太にそれは、推し量ることは出来なかった。


 ただ今、礼子の人となりを知った今、……今でも、それが礼子の心に深い傷を負わせたことは、わかった。


「わかりましたよ」


 そこまで同情してしまえば、もう健太に礼子の願いを断ることなんて出来なかった。


「俺は歌が特別上手いわけではないですし、歌のレッスンをしてあげることも出来ない。でも、俺に歌を聞いてもらってあなたの気が済むなら、一緒に行きましょう」


 ……こんな約束を交わしたことを優にバレた日には、どうなるかわかったもんじゃないな、と健太は思った。

 でも、憔悴する礼子を前に。

 件のモノマネ番組を前に不安がる礼子を前に。


 スキャンダルだとか厳しいマネージャーだとか、全てはどうでも良くなっていた。


「いいんですか?」


「あなたが望んだことでしょう?」


 優しく、健太は微笑んだ。


「善は急げです。明日、吉田さんはオフだと言っていましたね?」


 夕暮れ時、二人は明日の約束を交わした。

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