衝撃的なあれこれ

衝撃的な二度目の過ち

 岩瀬健太が目を覚ましたのは、窓を打ちつける強めの雨の音がまるで耳鳴りのように、嫌らしく聞こえてきたからだった。

 昨晩、一週間ぶりの土曜日に向けて少しだけ夜更かしをした。と言うか、隣人と晩酌をするようになってから、かの隣人は決まって健太を、翌日は土曜日になるその晩は帰そうとしてくれないのだ。


 明日休みだからもう少し。


 そう言われると、なんだかんだ他人に優しい健太はその願いを聞き入れる。だから、その夜更かしした分ゆっくりとお昼くらいまで寝ていようと思ったのに、生憎の天気のせいで眠気も覚めてしまった。


 致し方なく、健太は体を起こして朝の活動を始めた。歯を磨き、寝癖を直して、最近買ったノートパソコンを開いてのんびり動画を見始めた。

 何の気なしに再生された動画で流れたのは、猫の動画。健太は特別、猫が好き、というわけではない。ただ、犬か猫かと言えば、自己中心的な猫の方が世話の苦労も減るだろうし、仕事は多忙な自分にはうってつけだと思っていた。

 健太の今住むマンションは、ペット可のマンション。しかし、多分健太はペットを飼う日はやってこない。


「猫は、隣人の家に行けば会えるからな」


 結局健太は、朝早く起きたにも関わらず、寝不足気味な体調と昨晩飲んだ酒による胃もたれで、昼過ぎまでうだうだと空虚な時間を過ごす羽目になった。

 ようやく小腹が空いてきて、キッチンに行って胃に軽そうな料理を作り始めた。


 フライパンの上で油が跳ねる音を聞きながら、まもなく健太は気が付いた。


「……ん?」


 フライパンの上で油が跳ねる音。

 外で降る大雨の音。

 それ以外の物音が、耳に付いた。


 耳を澄ますと、まもなく健太はその音の正体に気が付いた。


 一旦火を消して、ベランダの方へ。

 ベランダに近づくにつれて、音はどんどん大きくなっていく。


 健太が気付いた音は、にゃーという猫の鳴き声と猫が窓を引っ掻く音だった。


「カルパスッ!」


 七階を住まいにする健太の前に現れた猫は、無論野良猫ではなかった。かの猫は、健太の近隣住民の飼い猫であった。その猫の名前さえ、健太はもう既に知っていた。


「あの人、また窓を開けて出掛けて……」


 それと同時に、健太は頭を抱えることになった。

 カルパスという名の猫を窓を開けて家へと招き上げながら、健太は飼い猫の主人の失態を嘆いた。


 カルパスは気持ちよさそうに抱き上げた健太の腕の中に収まった。頭を撫でると、まもなく気持ちよさそうに寝息を立て始めた。


「今日はオフだと言っていたな」


 カルパスの主人は、健太が毎夜晩酌する隣人だった。そんな隣人が昨晩話した彼女の今日の予定は、オフとのこと。

 少し出掛けるだけだから、と油断をしてしまったのか。

 はたまた、換気ついでにと窓を開けて、忘れてしまったのか。


 前々から抜けている人だと思っていたが、健太は二度同じ過ちを繰り返した隣人に文句が尽きなかった。


 眠ってしまったカルパスをソファに置いて、健太は再び昼食づくりを再開した。


「なんだ、カルパス?」


 しかしまもなく、香ばしい匂いに釣られて、カルパスは目覚めたらしかった。火の元になるキッチンに猫が来てしまって、健太は慌てて火を消した。

 にゃーと鳴きながら、カルパスは物乞いを始めた。


「お前、ご主人にご飯をもらったんじゃないのか?」


 尋ねるが、猫が返事をしてくれることはなかった。

 ただしばらく猫が要領を得ない返事をする内に、健太は隣人の抜けっぷりを考えると本当にご飯をもらっていないのでは、と考え始めるのだった。


 仕方なく、健太はキッチンの棚から以前買っておいたチュールを一本手に取った。いつかまた隣人がやらかすと思って、一応準備をしておいたのだ。

 チュールの封を開けてカルパスの口元へと運ぶと、絶品のそれの味を知っているからか、カルパスは一目散にチュールを食しだした。


「随分とお腹空いてたんだな」


 食い意地を張るカルパスに、健太はほっこりとしていた。

 そうしてチュールを与えて、カルパスはようやく気が済んだようにソファに眠りに行った。


 随分と我が家に馴染んでいると健太は少し呆れたが、思えばかの隣人よりも飼い猫の方が自宅に来訪した回数は多かった。


「まったく……」


 そう思うと、健太は余計隣人への呆れが増すのだった。今日は雨の日。ベランダ伝いに渡とうとして、途中足を滑らせたらどうするんだ。ショックを抱くのは、他でもない自分なのに。


「一度、ガツンと言うべきだろうか」


 本気で、カルパスのためにも隣人のためにも。健太はそう思った。


 昼食の準備を進めて、その決心はより濃いものになっていく。


 言おう。

 そう決心するに至らしめるのに、時間はそこまでかからなかった。


 ピンポーンとチャイムが鳴ったのは、健太が決心をして、昼食を食し終わったそんな時だった。


「はい」


 チャイムに応じると、


『い、岩瀬さんっ』


 最近ではすっかり聞き慣れた、隣人の声がした。


「吉田さんですね、今鍵開けますよ」


 健太は皆まで言わさず、言おうと思ったことを隣人へと言うべく、玄関へ向かった。


 ……余談だが。


 健太の隣人の吉田礼子は、誰もが一度は目にしたことがある世間的に有名な大女優だった。

 そんな彼女と、健太は毎夜の晩酌会を行っている。発端は、とても褒められることでもない一夜の出来事。


 それでも、以降紡いできた両者の関係は、とても明るく微笑ましいものだった。


 ただ、礼子の関係者は二人の交友を快く思っていなかった。

 とはいえ、なんだかんだ今日まで、二人の晩酌会は続いている。


 礼子は、大女優でありながら、吞べえで人見知りで甘えん坊だった。


「い、岩瀬さん……」


 そして健太は、そんな礼子の涙目で狼狽える姿に酷く弱かった。


 さっきまで文句を言おうと思っていたのに、気付けばその句は引っ込んでいた。


「……カルパス、来てますよ」


 そう言うと、礼子の顔が笑顔に変わった。

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