運命的な後悔の払拭

 真っ暗な部屋で、一人健太は天井を見上げていた。考え事をしていた。今日の夕暮れ時のことを考えていた。

 礼子のマネージャーと名乗る優が健太の部屋にやってきて、そして色々な話をした時のことを考えていた。


 あの時優は、とても厳しい顔つきで健太に言った。

 礼子との関係は、辞めるべきだ、と。


 あの場では結局、その話の結論は出さなかった。と言うより、健太が礼子の意見を聞くように話して、あの場での結論を有耶無耶にしたのだ。

 間違った選択をしたとは、健太は思っていなかった。

 ただ今こうして、夜眠ることも出来ずに健太が悩んでいる理由は、あの場でどうするのかを決めた方が良かったのではないかと、今更心変わりをしていたからだった。


 あの時、健太は思っていた。

 スキャンダルがバレて違約金を払うことになった時。礼子に数億もの支払い請求が求められると聞いた時、重大なそんな話を、自分には決めることは出来ないと、そう思ったのだ。

 礼子に決めてもらえるなら、どんな結果であれ健太は納得が出来た。だから、それでいいと思ったのだ。

 でも今更思えばそれは……厄介ごとを礼子にただ、押し付けただけになるのではないだろうか。


 男として、そんな選択をして良かったのだろうか。

 彼女の将来を考える優の発言は、あまりに全て正しかった。そんな彼女の言葉を袖にして、感情論で物を語って、本当に正しかったのだろうか。


 今でも間違っていないとは思っている。でも、ならばあの場で弱気にならず、ひたすらに優の意見を拒否しなければならなかったのだ。それをしなかったことは、健太は自分の大いなる失態だと思っていた。


 結局健太は、臆病風に吹かれて保留を選択しただけなのだから。


「あの人、吉田さんにいつさっきの話をするだろう」


 健太は呟いた。


「吉田さん、あの人にそんなことを聞かれたら、どんな答えを返すだろう」


 女々しく、そう呟いた。


 気持ちが滅入っているのは、眠る直前までずっとそうだった。いやむしろ、眠りに付いても、健太が碌な夢を見れることがなかった。

 別れたえりかと、そうして礼子を追いかける夢を、健太は見ていた。いくら追いかけても追いかけても、二人に健太は近づくことは出来なかった。むしろ、どんどんどんどん距離は、離れていくばかりだった。


『次のニュースです』

 

 翌朝、健太は複雑な顔で礼子の出る情報番組を見ていた。いつも通り、お淑やかにニュースを読む礼子は、見慣れた姿で、見慣れない姿だった。

 でもそんな礼子の一面を見ていると、健太はまもなく思うのだった。


 ニュースを読む彼女を見て。

 出演者に微笑む彼女を見て。

 番組を取り仕切る彼女を見て。


 何度も何度も、思ったこと。

 受け止めているように見えて、その実、一切考えないようにしていたこと。


 礼子は、健太とは住む世界が違う女性だった。


 彼女のことを好きな人は多い。それこそ、一人二人の次元ではない。たくさんの人に好かれ、夢と生きる希望を与えるのが、礼子の仕事だった。

 そんな彼女に自分との関係の是非を委ねるだなんて、余計な心労をかけることをするだなんて……。


「やっぱり、昨日俺が、話しを決めるべきだったんだろう」


 健太は、罪悪感に駆られていた。

 ただ、そんな罪悪感に駆られながら、健太は思っていたことがあった。


 それは、恐らく礼子が仕事か自分か。どちらを取るかと言う話だった。考えるまでもない。礼子は、仕事に真剣で、上昇志向のある人だ。

 憧れのドラマに出るために苦手な仕事にも手を出し、地位を確立させているにも関わらず、歩みを止める様子はまるでない。


 そんな彼女が、健太との今後を望むはずない。


 健太は、そう思っていた。


「……チンタオビール、渡しそびれたな」


 髪の毛を掻いて、健太は朝からビールを飲みたい気持ちに駆られた。どうせ、それを消費するのは自分だけなのだから、自分の好きにするべきだとそう思ったのだ。

 朝から酒を煽った経験は、これまで一度だってありはしなかった。健太は外出が好きな男だった。朝から酒を飲めば、好きな外出が出来なくなる。だから健太は、朝から酒は飲まない。


 早朝に飲んだチンタオビールは、日本のビールよりも喉越しが爽やかで、すぐに二瓶空けることが出来た。

 それからはもう、何もやる気が起きなかった。テレビを見て、動画サイトを見て、折角の日曜日を無駄に消費していった。


 怠惰な休日を送っている内に、気付いたら健太は眠ってしまっていた。

 目が覚めたら酔いも抜けて、残ったのは無駄な休みを送ってしまったことへの後悔だけだった。


 ピンポーン


 チャイムが鳴った。

 面倒に思いながら、健太はインターホンでそれに応じた。


『あ、岩瀬さんですか?』


 インターホンから聞こえた声は……。


「吉田さん?」


『はいっ!』


 快活そうな、礼子だった。


『約束通り、飲みましょう』


 健太は悟った。

 どうやらまだ、優は礼子に昨日の話はしていないらしい、と。健太は鍵を持って部屋を出た。今日の晩酌は、礼子の部屋で行う予定だった。


「お疲れ様です」


 頭を下げた礼子は、手にスーパーの袋を持っていた。


「今日は、鍋にしようと思って。実は今朝からご飯を食べる時間がなくてですね、お腹ペコペコなんです」


 礼子は気恥ずかしそうに言った。以前であれば、素面の彼女から見ることも聞くことも出来なかったような、素朴で人らしい彼女の一面だった。


「岩瀬さんも、一緒に食べますか?」


「俺は……すいません。今日はちょっと、お腹いっぱいで」


「そうですか? そう言えば、少しお酒の匂いがしますね」


「えぇ、朝からちょっと……飲んでいました」


「いいなー」


 礼子が部屋の鍵を開けながら、羨ましそうに言った。


「あたしなんてご飯を食べる暇もなかったのに、ズルいです」


「すいません」


 謝りながら、謝る理由なんてなかった、と健太は思った。


「昨日中華街に行って、チンタオビールを買ってたもので。どんなものか飲んでみようと思ったんです」


「えーっ!」


 玄関を超えた時、礼子は大きな声を上げた。


「あたしの分は?」


 礼子のふくれっ面に、健太は複雑な気持ちだった。


「すみません」


 これから優に昨日の話をされれば、もう二度と……。


「もうっ。ズルいですよー、岩瀬さん」


 もう二度と、ふくれっ面の礼子を見ることも出来ないかと思うと、複雑な心境だった。


「……じゃあ」


 礼子は、


「今度は、一緒に行きましょうね」


 健太に、微笑んだ。


 今度は……一緒に。


 そんな機会、もう二度とやってくることはないと言うのに。

 どうしてなのだろうか。

 別れ、というものは、どうしてこんなにも心苦しいのだろうか。


『あたし達、別れましょう』

 

 えりかとの別れもそうだった。

 将来を添い遂げるつもりだった彼女との別れに、酒でも飲まないと、健太はやってられなくなったのだ。


 それくらい、辛かった。苦しかった。


 あんな別れ、もう二度と味わいたくない。


 そう思っていたのに……。




 こんなにも早く、その日がやってくるだなんて。




 廊下を歩いていく礼子を、健太は追いかけることが出来なかった。

 えりかの時と同じくらい、いやそれ以上の辛さが、今健太に襲い掛かっていた。ただ、いくら考えてもその理由はわかりそうもなかった。


「……岩瀬さん?」


 不安そうな礼子を見て、健太はようやく足を動かした。礼子は、健太が酔っているのだろうと、それくらいにものを考えていた。


「そう言えば……」


 だから、礼子は、


「今日、松木さんに、岩瀬さんとの関係を改めるように言われました」


 今一番健太が気にしていることを、戸惑うこともなく言ってのけた。


 急激に。

 急速に。


 喉の奥が乾いていくのが、健太はわかっていた。


「あたしのキャリアを考えたら、男の人と晩酌するのはマイナスイメージだからと。もしスキャンダルになったら、大変だからと」


 もう健太は、


「だから、あたし……」


 礼子の顔を見れなかった。




「ヤ。と、言いました」




 見る見る、健太は顔を強張らせ……そして、緩めた。


「え?」


「ヤ、と言ったんです」


 予想だにしない回答だった。

 彼女のキャリアを考えた時、礼子が自分なんかとつるむ意味がないと、健太はそう思って疑っていなかった。


「松木さんの顔を見てわかってしまったんです」


「……何を?」


「ああ、お兄ちゃんのこと、大好きなんだろうなあって」


 うっとりとした顔で、礼子は言った。


 優の兄。

 はて、それは誰だろう……?


 しばらく考えて、健太は昨晩そんな急ごしらえの設定でその場を凌いだことを思い出した。


「松木さん、きっとお兄ちゃんのことあたしに取られたくなかったんです。だから、あんなこと言ったんでしょうね。素直じゃないんだから」


 うふふ、と微笑む礼子に、健太は呆気に取られていたが、まもなく首を振った。


「どうしてです」


 それは、昨晩優に向けて言ったことと、真逆の抗議だった。


「素直じゃない素直であるに関わらず、あの人の言っていることはあなたにとって正しいことでしょう。あなたにとって、俺なんて百害あって一利なしだ。どうしてそれでも、俺なんかと晩酌会をしたいなんて思ったんだ」


 積もった感情が、決壊したダムのように溢れていた。もう、留まることはなかった。


「そうさ。晩酌会なんてあの人とだって出来る。俺にこだわる必要なんてないでしょ」


 ……まるで、三文作家が描いたような都合のいい出会いだった。

 そんな出会いは、礼子にとってデメリットになっても、メリットになんてならないことだった。それはずっと、初めから、健太もわかっていたことだった。


 健太は知っていた。礼子は真面目な人であることを。


 そんな礼子であれば、素直な気持ちでないと思っても、優の指摘は真摯に受け止めるとそう思った。

 なのに、それなのに……!


 この期に及んで……どうして…………!


「どうして俺なんかと……!」


 健太は今にも掻き消えそうなか細い声で、拒絶とも否定とも取れない叫びをあげた。


 礼子は、そんな健太の叫びにしばらく目を丸くしていた。


 でも、しばらくして、礼子は微笑んだ。


「どうして、あたしが岩瀬さんと一緒にいたいのか、ですか」


 内心の感情が沸き上がっていくのが、礼子はわかった。礼子自身思っていた。優の言っていることは、正しいと。自身のキャリアを考えたら、健太との関係は打ち切るべきだと。


 でも、礼子はそれを望まなかった。


「そんなの、一緒にいたいからに決まっているじゃないですか」


 健太は礼子に理由を求めた。

 その理由は、あまりにもシンプルなもので、思わず拍子抜けするものだった。


「それだけ?」


「はい。それだけです」


 嘘を付いた。

 礼子が健太と一緒にいたい理由。それは……一緒にいたい、より、更にもっとシンプルな気持ちだった。


 でも、鳴り止まない心臓に、礼子は臆病風に吹かれてしまった。


「……ただ、一緒にお酒を飲むだけです」


「外野はそうは捉えない」


「……ただ、一緒の部屋にいるだけです」


「バレればそんな風に記事に書かれない」


「じゃあ、わかりました」


 礼子は、我慢の限界だった。

 へたれた健太の相手にも。

 そして、高鳴る心臓を堪えるのも。




「もしバレたら、岩瀬さんが責任を取ってください」




 これは腹いせか。

 はたまた……。


 でも、健太の気持ちは落ち着いた。真剣な眼差しの礼子に、どこまでが冗談かはわからないが、そうするべきなんだろうと思ったのだ。


「わかりました」


 その同意は、ただの晩酌会に求めるにはあまりに重い約束だった。一時の感情に流されたと言って、何ら差支えはなかった。


 でも……後悔は、なかった。


 その証拠に健太は今……さっきまでの気持ちが全て吹き飛び、微笑んでいたのだから。


 礼子は、生まれて二度目の健太の微笑みに……、


「じゃ、じゃあご飯を作りますね」


 真っ赤な顔を隠すように、キッチンへと足早に向かった。


 ……初めは、ふしだらな出会いだった。それは最早言い逃れも出来ないくらいの、一夜の失敗だった。


 健太は思っていた。

 最初はそれを、酷く後悔したものだった。

 有名人と一夜を共にし、抱いた感情は嘆きと面倒臭さと……そして、後悔だった。


 でも今は……そんな後悔も、どこかへ吹き飛んでいた。




「手伝います」




 今は……。

 そして、これからも……。




 健太は、礼子と、いつまでも……毎夜の晩酌会を、望んでいた。

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