運命的な待ち人

 礼子の中で新たな気持ちが芽生えた日から数日。今日は土曜日。土曜とはいえいつも通りの時間に目を覚ました健太は、まずは寝起きの顔をシャキッとさせようと洗面台へと向かうのだった。

 洗面台で冷たい水で顔を洗いながら、最近ではずっと重めだった内臓が身軽であることに微笑んだ。礼子の職場での友人関係の問題が解消したあの日から、礼子は仕事が忙しくなり晩酌をしていないことが、その健康状態の理由。


 最近打ち解け始めた礼子との晩酌会を楽しみにしていた気持ちもあったため素直に喜べなかったが、この方が良いことは間違いないと自分を納得させていた。

 顔を洗い終えてリビングへと戻ると、スマホに通知が来ていることに健太は気付いた。相手は礼子だった。先日の一件を経て、二人はようやく連絡先を交換し合った。

 礼子から送られてきたのは、数枚の写真。そして、『今日帰宅します!』のメッセージ。

 いつか礼子は、世界情勢的にロケ番組が撮れないと言っていたが、最近は少しずつ規制の色も緩和されつつあり、マスク着用の状態ながら、礼子も件の番組撮影のために二泊三日の旅番組撮影へと向かっていた。


 画像のダウンロードも終わってそれを開くと、東京タワーもどきみたいなタワーの写真と餃子が写っていた。


『宇都宮タワーですね』


『よくわかりましたね』


『東北新幹線に乗っている時に見えたので、気になって調べたんです』


 宇都宮タワーとは、その名の通り宇都宮にある電波塔。赤と白の配色のそれは、先日健太が呆然と見たそれと酷く酷似していた。


『天気が良いと、スカイツリーも見えるそうです』


『えー、そうだったんですか?』


 関東平野の広さがわかるなあ、と自分で言っておきながら、健太は一人しみじみ頷いていた。

 そして、しみじみと感慨深げにしていることが、もう一つ。


 それは旅番組に礼子が出掛けた木曜日から、スマホはずっと活発に震えていたことだ。


 地元にいる家族からもあまり電話は来ないし、えりかからも最後の方はあまり連絡はなかった。そんな健太のスマホが活発な光景は、実に久しい。連絡が来るというのは、嬉しいことだと思っていたのだ。


『お土産買って帰りますね』


 嬉しいことを言ってくれる礼子にお礼を言いながら、健太は自分のどこか日帰り旅に出たいと考え始めていた。


『ただごめんなさい。お土産渡すのは明日になると思います』


 着替えを済ませると、スマホに礼子から通知が入っていた。


『構いませんが、何かあるんですか?』


『旅番組が終わったら、良い時間になるので。そのままタクシーで明日の情報番組に向かうんです』


「それは、大変だなあ」


 健太はそう思いながら、


『お疲れ様です。お体は壊さないようにしてください』


 と、メッセージを送った。

 朝ごはんを済ませて、健太は部屋を出た。手には家の鍵。そして、車の鍵を握っていた。


 健太は、車を持っていた。

 ただ、それを使用することは極めて稀だ。自動車メーカーに勤める健太だが、自動車メーカーには一つの暗黙の了解がある。

 それは、勤めるメーカーと別のメーカーの車に乗るべからず、というものだった。


 健太が今の愛車に出会ったのは、彼がまだ今の勤め先に入る前、大学時代。当時は散々車を乗り回したものだが、自動車メーカーに勤めるにあたり、メーカーの駐車場に停めると白い目で見られることを悟ったあたりで、一気にそれに乗る機会は減った。


 勿論、車を買い替えることを考えなかったわけではないが、それなりに愛着の沸いた愛車を手放すのは、気が引けた。だから健太は、未だ愛車を持っていることをひた隠ししていた。寮にいる間は愛車は実家に置いていたくらいの徹底ぶりだった。


「吉田さんが、昨日は餃子だったんだよな」


 であれば、自分も中華を食べたいと健太は思った。横浜。あの辺は駐車場代が高めだが、たまにはそれもいいだろう。

 行先を横浜中華街に定めて、健太は車を走らせた。久しぶりの運転ながら、馴染みある車を走らせることに戸惑うことは一切なかった。


 車を走らせ、みなとみらいの海沿いを走らせ、赤レンガ。大さん橋。山下公園の傍を車が走っていった。信号待ちの時、山下公園奥の大型ロボットが、右手を天に上げていた。


 世界情勢など忘れているかの如く人通りのある中華街。

 様々な店舗に目移りしながら、健太は食べ歩きをし始めた。途中、チンタオビールを飲みたいなと思って、車で来たことを後悔した。そこらへんで、健太は自分が酒をあまり飲まない質だったことを思い出し、どこかののんべえにだいぶ浸食されたことを微笑んだ。


 ごま団子を食べて、小籠包を食べて、他にも色々食べて、中華街を歩き客の中に、野球チームのユニフォームを着た人が多い事に健太は気付いた。どうやら今日は、横浜スタジアムでプロ野球の試合があるらしい。

 中華街を練り歩く野球ファンに幸福が訪れるようにと願いつつ、まもなく健太は横浜を後にした。観光はあまりしなかった。この辺は、えりかと散々練り歩いた場所だったからだ。


 どうせだからと高速に乗って家へと健太は帰っていった。


 満足した一日だった、と夕暮れ沈む空を見ながら思っていた。駐車場に車を停めて、手には礼子への手土産のチンタオビールを瓶二本持っていた。


「冷蔵庫で冷やしておこう」


 これを飲むのは、恐らく明日の夜になる。その時が、少しだけ健太は楽しみになるのだった。


 マンションに入り、エレベーターに乗って、三階に辿り着いた。

 健太は、気付いた。


 スーツを着た女性が一人、健太の家の前で立ちぼうけしていることに。


 健太に気付いた女性は、笑顔で近寄ってきた。


「岩瀬健太さんですか?」


 どうやら、彼女は、健太の来客らしい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る