運命的な恋をした
エレベーターで健太と出会って、なし崩し的にいつものように、礼子は彼を自宅に招いた。なし崩し的に夕飯を振舞ることにすると、健太がそれを手伝ってくれて、ふとした時に礼子は気付いた。
近い。
今までであれば、健太に対して申し訳なさを感じることはあっても、距離感で照れるだなんてことなかったのに、礼子は今、頬が染まるのを抑えるのに必死だった。
「……キス」
「へっ!?」
健太の呟きに、礼子は声を荒げた。いきなりキスだなんて、したいということだろうか、などと考えていた。
「鱚を捌くの、お上手ですね」
健太は微笑んだ。
礼子の料理捌きは、旧家と言って差し支えない実家の母により躾けられたものだった。子供の時は、料理だなんて自由時間が減って嫌と考えていたが、一人暮らしになると寂しさを紛らわす一つの道具と化して、その腕前は当時よりもより熟達していた。
ただ、その包丁捌きが、仕事の幅を広げるきっかけになるとは、お料理番組の仕事をマネージャーが取ってくるまでは微塵も想像していなかった。
などと真面目な考察を述べたが、礼子の気持ちは複雑だった。
褒められた嬉しさと、そしてキスを望んでいたわけではないわびしさと、言葉にするなら、大体そんな感じだった。
「今日は天ぷらですか」
「はい。お好きでした?」
「そうですね。男一人だと滅多にしないですし、特別感はあります」
「そうですか」
健太が喜んでくれるのならば、礼子もそれが嬉しくなった。それは今までも抱いていた感情だった。友人の笑顔は、礼子のカンフル剤となっていたのだ。
ただ、その感情が少しばかり顔色を変えている気がするのは、気のせいなのだろうか。
隣にいる健太の気配。
少し横を向いて見上げれば健太がいる現状。
意識するな、という方が無理だった。
ドキドキと高鳴る心臓に、熟達した包丁捌きが乱れていく。しかし、緊張のあまり礼子はそのことにさえ、気付くことはなかった。
「いたっ」
結果、浅いながらも包丁で手を切ってしまった。
浮足立つ気持ちと、人差し指から流れる鮮血と、乱れる意識を覚醒させる痛み。
「大丈夫ですか」
「きゃっ」
悲鳴を上げたが、礼子は別に健太に襲われたわけではなかった。
ただ……切った手を心配した健太に、手を握られただけだった。
それだけだと言うのに。
間近にある健太の顔に。
心配げな健太の顔に。
安堵した健太の顔に。
そして、少し怒っている健太の顔に。
「まったく」
礼子は、目を離せずにいた。そのまま吸い込まれそうだとさえ思った。そうしなかったのは、怒る健太に、まもなく自分の不注意さを呪ったからだった。
「包丁を持つんだから、気を付けないと駄目ですよ」
「……はい」
浮かれた自分を、礼子は少し呪った。
「幸い傷は深くなさそうです。絆創膏はどこですか?」
「救急箱があっちに」
「ちょっと待っててください」
「あ、別に自分で……」
「いいから」
健太は、礼子を制した。
「ソファで待っててください。怪我人に無理はさせられません」
「怪我人だなんて、大袈裟な」
「大袈裟なもんか。あなた、女優でしょ。綺麗な体を大切にしないと」
礼子は顔を真っ赤に染めていた。
どんな形であれ、健太に綺麗と言ってもらえたのが、嬉しかったのだ。
健太が救急箱を探しに立ち去る中、礼子は立ち上がってソファに向かいながら、足が震えていることに気が付いた。
初めての感覚だった。
ただ一緒の部屋にいるだけで。
ただ傷を手当してもらうだけで。
ただ、綺麗と言ってもらえただけで。
飛び跳ねたいくらい、嬉しかった。
にやけそうになる口元を、堪えるのに必死だった。
ここでにやけたら女優業なんて、演技なんて、もう二度と出来なくなる。そう思って、恐怖に近い感情に囚われて必死に我慢した。
こんなにもソファはフカフカだっただろうか。
こんなにもこの部屋は色鮮やかに輝いていただろうか。
こんなにも、健太は格好良かっただろうか。
「お待たせしました」
救急箱を片手に、健太が礼子の元に戻ってきた。健太が机に置いた救急箱に、礼子が手を伸ばすと、健太はそれを制した。
「人に貼ってもらった方が綺麗に貼れます」
そう言って、救急箱を開けて、絆創膏を健太は手にした。
カバーフィルムを剥がして、
「吉田さん」
礼子に、手を出すように促した。
手は震えていないだろうか。
ちゃんと差し出せているだろうか。
……顔は赤くないだろうか。
健太の触れた絆創膏は、自分で絆創膏を貼る時よりもほんのりと温かい気がした。その温度が伝播して、礼子は心が満たされていくのを感じていた。
もう、言い逃れは出来なかった。
エレベーターで健太の笑みを見た時は勘違いかと思った。
でも……。
健太から離せない視線に。
満たされる心に。
高鳴る、心臓に。
礼子は、もう言い逃れは出来なかった。
きっかけは何だったのだろうか。礼子は考えた。
しかしそれを考えてすぐに、礼子は気付いた。
きっかけは何だったのか、ではない。
きっかけしか、なかったではないか。
上京して以降、自宅に他人を招いたことが一度でもあっただろうか。
自ら足繫く晩酌の誘いをしたことが、一度でもあっただろうか。
甘えを許してくれる人が、一人でもいただろうか。
初めてだったのだ。
健太は礼子にとって、初めての人だったのだ。
だから今、礼子の心臓は高鳴って鳴り止まない。
……礼子は、健太に恋をした。
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