運命的な失態
翌日の仕事。オフィス。
健太はパソコンに向かいながら、昨日仕上げ切れなかった図面の製図を進めていた。形状を考えながら、寸法を書きながら、頭の中ではいつも通り、クールに……。
「はああぁぁぁあ……」
なんてことは、一切なかった。
仕事に私情は厳禁と何度思ったことか。そう思うくらい健太は、またまた仕事中にプライベートなことを考えていた。
昨日の夜。
健太は、また礼子の部屋にお邪魔した。ただ昨日は、晩酌などは一切なく、二人で仲良く夕飯を食べるに留まった。……しかしその前の、叱責にも近い指摘とその後の約束が、今健太を悩ませる要因だった。
健太が礼子にした指摘は、もっと友達を頼れ、ということ。引っ込み思案な礼子は出来ないことさえ自分でこなそうとし、失敗していた。それを見かねた格好だ。
そして、もう一つ。
昨日健太が礼子とした約束。それが今、最も健太が頭を悩ませることになっている要因だった。
礼子が健太にした願い。
それは、職場での友達も欲しい、という願いだった。
そして、健太はそのお願いに対して、わかったと二つ返事をした。
「彼女の職場友達を作るって、どうやるんだ……?」
健太は頭を抱えた。
一度引き受けた約束であったが、礼子の職場に健太が介入出来るはずないことに、彼は気付いてしまったのだ。そもそも、礼子の職場の友達候補と、健太は無関係も無関係。更には、いつかも思った通り、下手に健太が礼子の友人候補と関わりを持つと、二人の仲を疑われるおまけ付き。
「完全に詰んでる」
約束の安請け合いなんてするんじゃなかった。
今更、健太は昨日の一連の自分の叱責を呪った。しかしまもなく、今更それを翻すことも出来ないことを悟り、再び頭を抱えるのだった。
本当は、出来ないことは出来ないと言うべきだと健太は思っていた。ただ、それは昨日の礼子のように諦めるという意味ではなく、自分が出来ないことを整理し、相手に何を望むかを伝えるための行い。
ともあれ、健太は今それさえも言い出し辛い空気に辟易としていた。
あんな叱責をした挙句、わかったと二つ返事した手前、出来ないはあまりに格好がつかなかった。ただそれは、最早ただの自己中心的な我儘に近い感情だった。
なんとかする術はないのだろうか。
考えても考えても、答えは見つかりそうもなかった。
仕事はなんとかこなした。
でも、悩みの答えは見つかりそうもなかった。
家に帰りながら、仕事の悩みは一旦考えなくていいというのに、気持ちは晴れなかった。
どうしたものかどうしたものか。ずっとさっきから、健太は同じ問題のことで悩んでいた。
今日は、礼子に会いたくないと健太は思った。合わせる顔がないと思ったのだ。
しかしそんな時に限って、
「げ」
「あ」
健太は、健太を見つけて嬉しそうにする礼子とマンションの玄関で鉢合わせるのだった。
礼子はいつかの変装用のベレー帽と眼鏡をかけていた。
「お疲れ様です。仕事終わりですか?」
努めて平静として、健太は言った。内心は悟られてはいけないと思った。
「はい。岩瀬さんも?」
「そうです」
「お疲れ様です。今日は早いんですね」
「見積用の製図も終わったので。仕様の調整はあるんですが、今はまだ本格化していないのも幸いしています」
「……難しいお仕事ですね」
礼子は、唸りながら苦笑した。
並んでマンションの廊下を歩き、エレベーターの前に。エレベーターは、最上階に鎮座していた。上ボタンを押して呼ぶが、しばらく一階には着きそうもなかった。
「ありがとうございました」
居た堪れない気持ちの健太だったが、そんな健太を余所にお礼を言ったのは、礼子だった。
「何がです?」
「昨日は、その……色々と」
「いいえ、そんな」
今一番触れて欲しくない展開に、健太は目を逸らしていた。
どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。健太は後悔の念を抱いていた。
「……響きました」
そんな健太の気も知らず、礼子は続けていく。
「あたし、少し悩みすぎていたのかもしれません」
どこか感慨深げに、続けていく。
「上京した時、あたし親と大喧嘩したんです」
「え?」
「女優だなんて、失敗する可能性が高い仕事。大学には入るとはいえ、親は消極的で……。毎日喧嘩してました。最終的には逃げるように家を飛び出して、だからだと思います。なんでも一人で何とかしないとと思って、雁字搦めになってたんです」
礼子は、続けた。
「あまりにも、岩瀬さんの言う通りでした」
悲しそうに嬉しそうに、続けた。
「一番大切なことを、あたし、岩瀬さんに教えてもらった気がします。だから、ありがとう」
礼子は、健太の方を向き、そして微笑んだ。
「凄いですね、岩瀬さんは」
満面の笑みの礼子に、健太は顔を逸らした。
自分が凄い?
そんなことを言われるのに、酷く強い違和感を覚えたのだ。何せ健太は、安請け合いした彼女との約束を叶えられる手立てが一切ないのだ。
「俺なんて、全然ですよ」
そして、そう口にして……健太は気付いた。
本当、その通りだな、と。
前恋人えりかとの別れは、健太が仕事に執着した末に起きたすれ違いだった。あの時健太は、金が必要だと思っていた。
えりかとの関係は、結婚を前提に考えていた。
愛していたんだ。
えりかのことを、愛していたんだ。
将来、彼女と結ばれたいと思っていた。だから金を稼いで、立派な結婚式を、マイホームを、彼女との子供を育てるための金を稼ごうと思った。
だから、仕事に打ち込んだ。
でもそれは、果たして本当に健太が一人、抱え込むことだったのだろうか。
彼女との時間をないがしろにしてまで、健太が一人抱え込む必要のあることだったのだろうか。
答えは、あまりに明白だった。
独りよがりだったんだ。格好を付けて、勝手に自滅していったのだ。そんな格好悪い男だから、えりかに愛想を尽かされて別れを告げられたのだ。
「……全然。本当、全然だ」
「……岩瀬さん?」
心配げな礼子の視線に、健太は気付くことはなかった。頭の中は自責の念と……繰り返しそうな現実に、気付いていた。
また、健太は繰り返そうとしているのだ。格好を付けようとして、出来ないことを一人抱えて自滅しようとしているのだ。
健太は、昨日の自分の言葉を思い出していた。
人は、一体どうやって、出来ないことを出来るようにしていくのか、だ。
「すみません。吉田さん」
健太は、申し訳ない気持ちと清々しい気持ちと、半々で口を開いた。
「俺実は……あなたの昨日のお願い、叶えられる手立てが浮かんでいないんです」
でも、少しずつ申し訳ない気持ちが勝っていった。
「諦めたいって言っているわけじゃないんです。……ただ、俺にも出来ないこと、あるんです」
でも、言って良かったと、そう思っていた。
「ごめんなさい」
頭を下げる健太に、
「……ふふっ」
礼子は、微笑んでいた。
エレベーターが辿り着いた。軽快な音を立てて開いた扉に、先に進んだのは礼子だった。
「岩瀬さん。あたし、岩瀬さんに報告しないといけないことがあるんです」
「え?」
戸惑う健太に、礼子は手招きしてエレベーターに入るように促した。
扉が閉まった。
エレベーターが、昇って行く。
「あたし……職場の友達が出来ました」
「……え」
えぇぇぇぇっ!?
エレベーター内で、健太の声が反響した。
「今日、マネージャーに。いつもありがとう。良ければあたしと、友達になってくれませんかって言いました」
「マネージャーさん、ですか。でもあなた、マネージャーさんのこと苦手そうにしてた」
「……はい。厳しい人で、口調も厳しくて。だからちょっと苦手でした」
礼子は、俯いた。
「でも、思ったんです。それくらい厳しく言うのは、あたしのためを思って言ってくれているんだろうって」
礼子は、嬉しそうだった。
「だから、あたしが困っていると言えば、助けてくれると思ったんです」
礼子は、健太へ微笑んだ。
「……あなたみたいに」
呆気に取られて固まる健太に、礼子は一つ苦笑した。
「あたし、また他人に甘えちゃいました」
でも、その顔に前のような後ろめたさは見えなかった。
「あなたに教えてもらえたからです」
それは、隣にいる男が、教えてくれたおかげだった。気まぐれに敢えて、教えてくれたおかげだった。
「謝らないでください。それだけであたし、あなたにきっと、願いを叶えてもらえたんです」
だから、と礼子は健太の謝罪の言葉を不要と言った。
それに対して健太は。
……健太は、
「良かった―」
喜んでくれた。
「心配してたんです」
心配していてくれた。
「でも、本当に良かった。良かったです」
嬉しがってくれた。
礼子は気付いた。
これまでは健太の見せていた笑みは、苦笑だった。困ったような笑みばかりだった。
でも今の健太の微笑みは……満面の笑みは。
ドクン、と礼子の心臓が高鳴った。
……初めて。
生まれて初めての気持ちに、礼子は、一人戸惑った。
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