運命的な指摘
日報を書き上げて、健太は礼子の部屋に戻った。早速本棚作成に取り掛かかることを伝えると、礼子は夕飯は自分が振舞う、と提案をしてくれた。
「ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ……ごめんなさい」
友人である礼子の謝罪に、健太は微妙な顔で応じていた。
それから取り掛かった本棚作成は、カルパスに邪魔されながらもものの数十分で終わらせることが出来た。少し掻いた汗を拭いながら、健太は仕事の完了を礼子に伝えた。
「もう終わったんですかっ」
礼子は驚きながら言った。
「はい。余裕です」
「……あたしは三時間かかってあれだったのに」
「え?」
首を振って、健太は話を続けた。
「本棚に並べる本はどれですか。やっておきます」
「い、いえ。それくらい自分で……」
「いいから。俺の分のご飯作ってくれているんでしょ。そのお礼です」
「……そんな」
「吉田さん。もう少し、友達を頼ったらどうですか?」
健太の言葉に、しばらく逡巡した礼子だったが、
「じゃあ、ベッドの上とかに並べてある本を入れて置いてもらえますか?」
「それ以外は?」
「いえ、あれで全部です」
「わかりました」
健太は寝室に戻って、礼子に言われた本類を本棚に詰めていった。本棚に仕舞いながら、健太は礼子が本棚を購入した理由をなんとなく理解し始めていた。
ベッドの上に重ねられたのは、かつて礼子が出演したドラマの台本だった。嵩張っていた台本を整理するために、礼子は本棚を購入したのだろう。
ドラマのタイトルと話数順に、健太は台本を本棚の上から詰めていった。本棚の三分の二程を埋めたところで、収納するそれは無くなった。
「ありがとうございました」
寝室に、礼子が顔を見せた。
「いいえ、夕飯の支度、済みましたか?」
「はい。……その、ご迷惑をおかけしました」
深々と頭を下げる礼子に、健太は再び、釈然としない気持ちを抱えた。
「何を謝る必要があるんです」
わざわざ礼子にそれを指摘しようと思ったのは、ただの気まぐれに過ぎなかった。
「俺達、友達でしょう?」
でも、どうしても今を逃すと伝えそびれる気が、健太はしていた。だから、気まぐれに敢えて、今それを口にした。
「吉田さん。俺は怖いですか?」
「……怖い?」
「迷惑をかけると、怒りそうだとか、そう言う風に思っていますか?」
「……そんなこと、ないです」
礼子は首を振った。
「あたしの我儘に付き合って晩酌に付き合ってくれているあなたが怒るだなんて、そんなこと……」
既に礼子は健太に、散々迷惑をかけ続けているのだ。時々呆れ顔になるものの、今更迷惑の一つ二つで、健太が怒るだなんて、到底思えなかった。
では、何故今回は健太に頼ることを逡巡したのか。
礼子の中で、健太に頼る選択肢が初めからなかったわけではなかった。本当は、本棚が段ボールで届いた段階で、自分一人の力ではどうにもならないと、彼女はとっくに悟っていたのだ。
でも、礼子は健太を頼らなかったのだ。
「……出来なかったんです」
引っ込み思案な性格をした礼子は、健太を頼れなかったのだ。
「折角出来た友達なのに、頼りすぎて、迷惑をかけて……嫌われるかもって思ったら、出来なかったんです」
臆病風に吹かれて、頼れなかったのだ。
「そうですか」
そう言いながら、健太はわかっていた。
これまで酒が入っていない彼女に、自分がどれだけ頼られたか。
これまで酒が入っていない彼女に、自分が何度謝られたか。
それを考えれば、そんなことはとっくに、わかっていたのだ。
でも、敢えて今それを聞いた意味は……。
「……吉田さん」
健太は続けた。
「諦めなければ、出来ないことなんてないんですよ」
礼子は、ただ黙っていた。
「吉田さんは、上京してから長いこと寂しい思いをしてきましたし、多忙で辛い時間も送ってきた。だから、出来ないことは出来ないとそう結論付けることで取捨選択に励み今日まで歩んできたのかもしれない。でもね、そんなことないです。どんなことも大抵、出来ないことなんてないんですよ」
「……嘘」
「嘘じゃない。……アクアラインってご存じですか?」
「東京湾の、あの?」
「そう。そもそも、東京湾アクアラインの草案は江戸時代からあったこと、ご存じですか?」
「そうなんですか?」
「えぇ、東京湾だなんてあんな湾曲した形の海があって、当時から日本人は海を埋め立てることで人の行き来の時間を短縮しようとしていたんです。でも、それは中々形にならなかった。江戸時代が大政奉還で終われば外国との戦争が始まり、日本人の興味関心が東京湾ではなく国外に向いたことも理由にあるでしょう。でも、最終的にはアクアラインという一つの形で江戸時代から続く計画の一つは成されることになりました」
礼子は俯いていた。
「そういう出来ない、と言われたことを成していく内に、人は気付くわけです。どんなことであれ、この世に出来ないことなんてないんです」
「……でも、限界は必ずあります」
「まあそうですね。製造工程では、しょっちゅうあります。組立が間に合わないこととか、検査が間に合わないこととか。そう言う時にすることは、実はたったの二つしかないんです。設備を整えるか、もしくは……人を増やすかです」
ハッとしたように礼子は顔を上げた。
「あなたが言ったように、最初から組立られた本棚を買う、というのは正解の一つです。でも、そうしなかった今回、あなたは俺を頼るべきだったんだ」
邪な感情のない、率直な意見だった。
「どうして一人で何とかしようとするんです」
そんな率直な健太の言葉。
「一人でなんとか出来ることもある。でもね、あなたの言う通り一人の力なんて限られているんです。そうなった時、出来ないと諦めることは決して悪いことじゃありません。何も諦めろと言っているわけではない。自分にはここまでしか出来ないから、残りを出来る人を頼れと言っているんです。生きる上で、何かを成すために、それは当然のことなんだ」
礼子は、また俯いていた。
「生きる上で何かを成すために、俺達は友達なんです」
そんな礼子に、健太は諭した。
「でも、あたしは迷惑をかけてばかりで何も……」
「何を言う」
微笑む健太。
「あなたは本棚を作った俺のために、これから夕飯を振舞ってくれるんでしょう?」
礼子の目尻には、涙が溜まっていた。
「自分の出来ないことは、誰かにやってもらう。その代わり、自分の出来ることを誰かにやってあげる。そうして、信頼関係を築いていく。
諦めた結果、築かれる信頼関係はありますか?
あなたは良く知っているはずだ。最初は苦手だった演技にひたむきに励み、今では台本を全て覚えられるくらい熟達したんでしょう?
その時、あなたは出来ないことをどうやって進めればいいか、誰かを頼ったりしなかったんですか?
その時、あなたは頼ってくれた相手に熟達した演技を見せる対価を支払ったんじゃないですか?
そういう繰り返しで人は信頼関係を築くのです。
そうして、人は出来ないことを出来るようにしていくんです」
再び黙った礼子に、健太は微笑んだ。
「出来ないことなんてありません。あなたが、人を頼っていいと知れば。あなたが、自分が誰かのために何かを出来ると知っている限り」
礼子は、俯いたままだった。戸惑っていた。
頼っていい。健太の言葉の意味を理解し、一つ、またお願いしたいことがあったのだ。
でも、それを言うのは……やはり。
『わかりました』
しかし、礼子は知っていた。
健太に何度も助けてもらったから、知っていた。
健太は、自分が出来ない本棚を作ってくれた。
健太は、一人で晩酌する寂しい自分のために毎夜話相手になってくれた。
健太は、自分の友達になってくれた。
「岩瀬さん」
「はい」
「……一つ、お願いがあります」
「はい」
「あたし……」
礼子は、息を呑んだ。
「あたし、職場にも友達が欲しいです……!」
家では、傍に健太がいてくれる。だから礼子は頑張れる。
でも、欲張りになった礼子は、それだけではもう我慢できなくなっていた。
一度は諦めた想いだった。
片田舎に住んでいた自分を見下すような態度で見てきた仕事仲間。相手にしない仕事仲間は散々見てきた。
売れ始めて手のひらを返した薄情な仕事仲間も散々見てきた。
そんな人と絡みたくない。
感情を誤魔化して偽って、そうやっていつしか礼子は、職場での友人作りを出来ないこと、と定めて諦めていたのだ。
でも、健太は言ったのだ。
誰かと協力すれば、出来ないと思ったことも出来るようになるだろう、と。
誰かを頼っていいことを知る。そしてそれを実行する勇気があれば、出来ないことなんてない、と。
健太は……、
「わかりました」
二つ返事で、それに応じた。
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