運命的な失敗劇

 在宅勤務の今日は、以前定めたルーティン通りに、健太は製図作業に没頭していた。一つ、また一つと図面を書いて、気付けば定時が迫っていた。


「きゃーっ」


 今日は定時に仕事を終えられると思って、凝り固まった肩を回している時だった。隣の部屋から、断末魔の叫び声が上がったのは。


「うおっ」


 思わず、健太は驚いた声を上げた。背中を向けていた隣の部屋の方を振り返り、しばらく壁をジーっと見つめていた。

 隣の部屋は、礼子の部屋の方だった。むしろ、叫び声に聞き覚えがあって、健太はまもなく心中穏やかではなくなる。


 礼子に何かあったのだろうか。

 そう思うと、気が気ではなかった。有名人ともなると、その人を貶めることで金を得る人もいるし、逆に執着するあまりに周りが見えなくなる人もいる。


 暴漢にでも襲われていやしないだろうか。

 それで、あんな大声を上げたのではないだろうか。


 隣の部屋の、顔見知りが刃傷沙汰ともなれば、さすがに健太もショックを隠し切れなかった。


 気付けば健太は立ち上がり、定時前であるにも関わらず、仕事をほっぽリ出すように家を飛び出していた。


 部屋を出て、隣の部屋の扉の前に。


 恐る恐る、健太はチャイムを鳴らした。

 ピンポーンという電子音が、いつにもましてゆっくりと聞こえた。


 一拍。

 二拍。

 三拍……と返事の声は聞こえてこない。


 本当に事件に巻き込まれたのでは、と、健太は再びざわついていた。


「はーい」


 しかしまもなく、思わず拍子抜けしてしまうくらいのタイミングで、礼子の声がインターホンから聞こえてきた。


「あの、岩瀬です」


「……あっ。岩瀬さんですか」


 引っ込み思案な性格をしている礼子ではあったが、今の声はその時のそれとは違い、気後れしているというわけではなく、気まずそうだった。


「突然大声が聞こえたので、何かあったのかと思って」


 健太は言いながら、以前の自分なら管理人に電話をしていただろう、と思った。


「えぇと、大丈夫ですよ?」


 その声色に、健太は礼子が大丈夫ではないんだろうことを悟った。

 何故なら、今の礼子の声は酒に酔った時のように朗らかではない。酒に酔っていない時の礼子は、基本はぐらかすようなことは言わないのだ。


「何かあったんですね?」


 ただ健太は、恐らく今礼子が直面する問題が事件性のあるそれではないこともわかっていた。だから、呆れ声で言っていた。


「な、ないです……よ?」


「あなたは、嘘を付くのが下手な人だ」


「……うぅ」


 インターホンからうめき声が聞こえた後、しばらくしてドアの鍵が開く音がした。


「こんにちは」


「……こんにちは」


 気まずそうに、礼子は目を合わせずに言った。


「どうぞ」


「お邪魔します」


 健太は、踏み慣れ始めていた礼子宅の部屋に足を踏み入れた。

 案内されたのは、いつも礼子と晩酌を交わすリビングではなかった。奥の、寝室だった。

 

 女性の寝室に案内されて、健太は意識することを隠せずにいた。ただ問題解決のためにと、室内を見回した。


 礼子の寝室にあったのは……ベッド。カルパス用のケージ。化粧品と化粧棚。いつの間にか足元にいて、にゃーとすり寄っていたカルパス。


 そして、本棚。

 ただ、ただの本棚ではなかった。木の板が全てバラバラに倒れている、本棚らしきものだった。


「い、一度は組み立てられたと思ったんです」


 礼子の声は、言い訳をする女児そのものだった。


「でも、これで完璧だと思って嬉しくなって、本を詰め始めたら……その」


「突然、崩れ落ちたと」


「……はい」


 よく見れば、木の板の間にドラマの台本らしき冊子が挟まれていた。

 カルパスを抱きかかえながら、健太はことの事情を全て理解したのだった。


「説明書通りに組んだのに、どうしてか駄目で……」


「あそこに、未開封のネジが転がってますよ?」


 礼子は視線を逸らしていた。


「……組立済みの本棚を買うんでした」


「そうですね、そうするべきだったでしょうね」


 健太がカルパスの頭を撫でると、カルパスは気持ちよさそうに唸っていた。


「一旦、日報を書いてきます」


 チラリと時計を見ると、既に定時は過ぎていた。


「え……?」


 礼子の声は戸惑っていた。


「これ、このままにはしておけないでしょう? 俺が組みますよ」


 その方が効率的だし、手伝わずまた騒がれる方が、健太としては迷惑だった。


「……でも」


「吉田さん」


「はい」


「男手が必要そうなら、頼ってくださいよ」


「……はい」


 別に怒ったわけではなかったのだが、礼子の声は申し訳なさそうだった。

 健太は一旦自室に戻り、日報を書き始めた。まだ仕事は残っていたが、それは明日会社で仕上げればいいと思っていた。


 キーボードを叩きながら、ふと思い出していたのは礼子の顔だった。


 いつか彼女は、健太との関係を友人関係だと言った。

 その時のことを思い出し、健太は釈然としていなかったのだ。


 友達、というのなら、どうして最初から自分を頼ろうと思わなかったのだろうか、と。出来ないことをわかっていながら、苦手なことをわかっていながら、手を出したのだろう、と。

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