運命的な甘えん坊

 水曜日。今日の健太は、二日振りに会社へ出社していた。昨晩の礼子との晩酌は、平日は早めに終わろうと健太が釘を刺したためか、礼子は十二時にはそれを終わらせてくれた。


『えぇー、まだ飲めますよー』


 と、言うのは偽りがある。


『いいじゃないですかー。いいじゃないですかー』


 上京してから友達がおらず甘え知らずだった礼子は、その反動か酒が入るととにかく我儘だった。それは健太としてもここ数日の彼女の酒が入った時、入らなかった時の態度で知っていたつもりだったが、予想の範疇を超えていたのだ。

 明日も仕事があるから。明日また埋め合わせするから。気付けば健太は悪者になり、酔っぱらった礼子に謝罪の言葉を繰り返し、退散することが出来たのだった。


「はあああ」


 それ故、オフィスで、健太はわかりやすい大きなため息を吐いていた。あの場は、流れでOKと言ってしまったが、いつまで体が保つかわからないし、このままだと礼子の部屋に寄り付かなくなることも近いかも、と彼は少し考えていた。


「うっす」


 そんな健太の元に、一人の社員が近寄った。彼の名前は鶴見直哉。健太の勤める自動車メーカーの生産技術に属する、健太の一つ上の先輩だった。


「鶴見さん。お疲れ様です」


 健太は、社交辞令で会釈をした。社交辞令と言ったものの、別に、鶴見と言う男と話すのが嫌いだったわけではない。むしろ鶴見と言う男は、健太と年が近く話しやすく、かつ有名企業に勤める故に多い自尊心が高い男というわけでもなく、気さくでもあるため、とにかくとても話しやすい男だった。

 鶴見の手には紙。それが図面であろうことは健太はすぐにわかった。それで、鶴見が何しに健太の元までやってきたかも、なんとなく理解した。


 鶴見という男はすぐには本題に入らない男だった。まずは相手と雑談に興じ、その日の気分や体調を考慮し、話しやすさを見定めていくのだ。健太の勤めるメーカーの生産技術という部署は、社内間の力関係があまり強い部署ではなかった。どうしても開発業務などと比べると、裏方感の拭えない仕事であるからだ。

 それ故、鶴見は仕事を重ねていく内にそう言った処世術を身に付けた。その処世術は、健太も日頃見習っていきたいと思っている部分だった。

 

「悪いな、今日時間なくて」


 ただ、今日鶴見はあまり時間がないらしい。申し訳なさそうに、鶴見は手にしていた図面を健太に見せて、続けた。


「今さ。ベンダーに見積してもらってたんだけど、この寸法公差がどうしても対応できないって言うんだよ」


 それは、昨日健太が在宅勤務中に書いた図面だった。どうやら鶴見は、早速部品の見積展開に乗じていたらしい。


「まあ俺も、出す前から厳しい寸法だとは思ってたんだ」


 そう前置きして、


「ここ、寸法緩和出来ない?」


 鶴見は言った。

 寸法緩和。そう聞いて、健太は顔を歪めた。設計をする上で、その寸法は必要だと思ったからその値に定めたのだ。それを緩めてくれだなんて、すぐにわかったと言えるはずもなかった。


「でもそれ、製品的に厳しくしないといけない寸法なんですよ」


 製品のどの部分であるかの説明は、鶴見相手であればする必要もないことだった。鶴見であれば、見積を展開する前に図面のチェックは怠っていないだろうという確信が、健太にはあった。


「お前もわかってるだろ。最近、原価下げろ原価下げろってうるさい人がいるんだよ」


 うんざり気に鶴見は言った。それは所謂、お上の人の発言だった。心当たりが健太にもあった。

 

「このモデル、月産も多いモデルだろ? だから、相当限界利益のこと言われててさ。実は今、購買と協力して中国メーカーの開拓をしているんだよ」


「それで、そこを緩めたいと言われたわけですね」


「そういうこと。無理なのはわかってるんだけどさー」


「……鶴見さん」


 健太の声は、一切の迷いはなかった。


「自動車開発は、人の命を預かる開発です。一切の妥協は出来ません」


「そうだよなあ」


 諦めたように、鶴見はそう言って健太の元から退散していった。これ以上続けても、話がずっと平行線になることを悟ったのだ。

 健太は薄々わかっていた。鶴見は今回の件、相当お上の人間からの介入を受けているのだろう、と。それで、どんな部品でも件の中国メーカーに見積依頼しているのだろう、と。

 全ては原価を下げるため。会社のため。


 ただ、ならば健太の要求が一切会社の利益を度外視した話かと言えばそれも否である。


 どちらかが正しくないのか、と言えば、どちらも正しい。そういう話なのである。

 仕事をする上で、両者の意見が食い違い対立することは珍しくない。でもそれが、会社のためであれば、両者はもっと材料を用意してどうするべきかを議論するべきなのだろう。


 健太はわかっていた。

 これから鶴見は、多分公差を緩めた前提での見積価格を持って来る。あの部分を緩めれば、これだけ値段を下げられる。リスクヘッジの観点から、どうするべきかを上司も交えて相談するだろう。


 健太は鶴見のことを尊敬していた。

 本来部品の見積だなんて、会社によれば購買部署が専任することだって珍しくない。にも関わらず、鶴見は部品のことを一番知るのは生産技術だから、と自ら進んで見積業務に入っていったのだ。

 その結果、彼のことを一目置く社員は少なくない。


「……本当、大人な人だ」


 一日の仕事終わりの帰り道。鶴見の手腕に感慨深げに、健太は言った。あれほど仕事が出来て、周囲を見渡せる人で、帰りもいつも健太と同じくらいに遅いだなんて、本当に大人の中の大人だと手放しに尊敬出来た。


 健太が自宅に辿り着いて、部屋のチャイムが鳴ったのは、健太が家に着いてからものの数十分後だった。


「岩瀬さんっ」


 インターホンから聞こえた礼子の声は、既に出来上がっていた。


「岩瀬さんっ、飲みましょうっ。飲みましょうっ」


 健太は、思っていた。

 献身的で大人な鶴見を見た今日だと、本当に……。


「まるで子供だ……」


 貶すわけではない誰かに向けた率直な言葉が、健太の口からこぼれた。

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