運命的なお願い

 健太は猫を抱えて、玄関の方に歩き出した。途中、猫が目を覚ましたが、数時間の付き合いで余程健太のことが気に入ったのか、傍を離れる様子は一切なかった。むしろ、腕に顔を埋めている始末だった。

 扉を開けると、ベランダ伝いとより至近距離で、健太は泣き顔の礼子を捉えた。


「カルパス」


 今にも泣きそうな礼子に、猫、もといカルパスはにゃーと返事をした。


「……今更ですが、カルパスってこの子のお名前ですか?」


「はい。あたし、おつまみで一番好きなのがカルパスなので」


「そうですか」


 独特なネーミングセンスに、それ以上の詰問はしようがなかった。


「これからは、出掛ける時……というか、この子から目を離す時は窓を閉めるようにしてください」


「はい。……すみません」


 申し訳なさそうに、礼子は健太に謝罪をした。

 一応謝罪の言葉を受け取ったし、反省しているようだし、猫を返すか、と思った健太だった。


 しかし、猫を礼子に受け渡そうとすると、猫は唐突に目を覚まして健太の腕に這い出した。


「あ、こら」


 そう言ってもう一度、健太は猫を抱きかかえた。


「素直に帰りなさい。君の家だろう」


 そう猫に言うが、猫はまるで話を聞き入れる気はないようだった。知らんぷりで、眠そうなあくびをかましていた。

 無言になる二人。


 しばらくして、


「……あの」


 礼子が、恐る恐る声を発した。


「あの、お礼を兼ねて、今晩はウチでご飯、食べませんか?」


「……え?」


 健太の、え、は……有名人に夕飯を誘われた喜び。美人の家にお邪魔する興奮。一夜を共にした人との再チャンスへの期待。




 などが込められていることは一切なかった。




 込められていた感情は、戸惑い。拒否感。波風立たない断り文句はないかなあ、だった。


 思い出していたのは、先日のやらかし。そして、昨日のアルコールハラスメントに近いウザ絡み。


「えぇと」


 健太は、はっきり困っていた。さすがに今日は早く寝たい。さすがに今日は、酒は飲みたくない。そんなことを考えていた。


「……迷惑、でしょうか」


 ただ。

 今にも泣きそうな礼子を前に、断る文句なんか浮かんでくるはず、なかったのだ。


「……わかりました」


 重々しい声で、健太は礼子の要望に応じた。途端、礼子の顔がパッと晴れた。

 

「じゃあ、行きましょう」


 部屋の電気を消して鍵を閉めて、猫を引き連れて、健太は再び、礼子の家にお邪魔した。ただ、相変わらず不安心は残っていた。面倒事にはならないことを、健太は切に願っていた。


「それじゃあ、夕飯作りますね」


「お料理、出来るんですか?」


「はい。実家ではよくご飯の手伝いしていたので」


「それじゃあ、お手並み拝見させて頂きます」


「はい」


 嬉しそうに、礼子は笑っていた。

 それからしばらく、礼子は冷蔵庫の食材とにらめっこし、今日作る夕飯を決めているようだった。その間、健太は居た堪れない気持ちであったが、カルパスが遊んでほしそうにしていたために、暇潰しに成功したのだった。

 フローリングに落ちていた猫じゃらしを拾い、それを使ってカルパスと遊んでいた。


 しかし、まもなく気付いた。


「なんで猫じゃらしが床に……?」


「アハハ。ごめんなさい。掃除、結構サボってて」


 どうやら、キッチンにいる礼子に聞こえたらしかった。

 言われて健太は、確かにリビングが少し雑然としていることに気が付いた。机の隣の棚に大量に積まれた化粧品。小物が溢れ、あまりスペースのない机の上。

 そして、カーテンレールにかけられた洗濯物。


 バッと、健太はカーテンから目を離した。恐る恐る礼子を見ると、彼女は料理に夢中でまったくそのことに気付いていないようだった。

 気が気ではない健太だったが、ここから立ち去りたいと思う前に礼子が料理を完成させたため、出て行くタイミングを失ってしまった。


 仕方なく、健太は約束通り、礼子の振舞ってくれた夕飯を食べることにしたのだった。


「美味い」


 件の礼子の料理は、確かに両親の手伝いをしていただけあって美味だった。


「ありがとうございます」


 嬉しそうに、礼子は微笑んでいた。向かいの席に座り、礼子も夕飯を食べ始めた。

 美味い。美味い、と健太は箸を進めていった。ある程度ご飯を頂いた頃、健太は礼子からの視線を感じた。


「どうかしましたか?」


 礼子は、健太を見て優しく微笑んでいた。


「あ、その……思えばこうして、友人と一緒にご飯を食べるの、久しぶりだな、と」


 礼子の言葉は、健太からしたら想像もつかない言葉だった。


「あなた、有名人でしょ。そんなことないんじゃないんですか?」


「いいえ。あたし、口下手で引っ込み思案なので……他の子も、自分が売れるんだってギラギラした子も多くて、気付いたら友達なんて、全然です」


 寂しそうに礼子が言った。少し無遠慮に聞きすぎた、と健太は反省した。


「元々のお友達とかは?」


「あたし、片田舎でスカウトされて上京してきた口で……」


「大学はこちらでしたっけ?」


「そうでしたが……あまりの忙しさに、中退してしまいました」


 それでは、大学の友人も望み薄だな、と健太は思った。




 ……そもそも一夜を共にした間柄の俺達は、友達なのだろうか、と健太は続けて思った。




 思ったが、そんなことはともかく、健太はなんとなく合点がいき始めていた。


 どうして、礼子が一人で宅飲みし騒いでしまうのか。

 どうして、礼子がお酒を飲みだすと止まらなくなってしまうのか。

 どうして、礼子がカルパスが脱走した時、非常に寂しそうな顔をしていたのか。

 どうして、礼子が健太なんかを一人宅飲みする家に招き入れたのか。


 どうして、礼子があの日、健太と一夜を共にしたのか。


「……それは、寂しいですね」


 全ては、友達もいない。家族も傍にいない。そんな寂しさからくる気の紛らわせだったのだろう。気を紛らわせたくて、礼子は夜な夜な晩酌する日々を送っていたのだろう。

 礼子の胸中を察した健太は、やるせない顔でそう呟いた。


 一瞬、礼子は辛そうな顔で健太を睨み、そして憔悴気味に俯いた。


「……はい」


 否定する術は、礼子にはなかった。否定出来る元気は、仕事に忙殺され、不安な気持ちを毎日抱える礼子には、もうなかった。


 しばらく、二人は無言になった。


 健太は、どんな言葉をかけて良いのかわからなかった。

 礼子は、しばらく考え事に耽っていた。


「……岩瀬さん」


 しばらくして、礼子が囁いた。


「お願いが、あります」


 それは、引っ込み思案で友人が少ない礼子にして、恥ずかしいこと。モジモジして、視線を逸らし続けるくらい、羞恥を抱くことだった。


「……お願い?」


「はい」


 ゆっくりと、礼子は頷いた。

 健太は、生唾を飲みこんだ。


「あたしの晩酌に、これからも付き合ってくれないでしょうか?」


 礼子の願いは健太から見て、少し肩透かしを食らう願い出だった。

 ただまもなく、この願いを聞き入れるかどうか。それが自らにとって死活問題レベルの重要性を持つことに健太は気付いた。


 礼子との晩酌。

 つまり、毎夜あんな遅い時間まで話に付き合わされる。

 ただ、一人で飲ませると礼子は深夜帯まで騒ぐから……それもそれで面倒なことになるのだ。


 イエスかノーか。

 これほどまでに神経を使う日がやって来ようとは、健太は予想もしていなかった。


 ただ……、


「……そう、ですよね」


 寂しそうに俯く礼子を見て、健太の胸の中はざわめいた。


 可哀相、と同情したのではない。

 思い出していたのは、えりかのことだった。

 あの時えりかに別れを告げられ、健太は酷く憔悴した。しかし、別れを告げられる前、恋仲との関係を健太が蔑ろにしていた時……もしかしたらえりかは、今の礼子のように寂しそうに、悲しそうにしていたのではないだろうか。そんな自責の念に駆られたのだ。


 もう、別れてしまったえりかとの関係は修復出来ない。


 しかし、自分のことを友人と言ってくれた礼子との関係は、まだ如何様にも変えられる。

 寂しがることも、悲しがることも、させずに済むのだ。


「わかりました」


 健太は、礼子の願い出に応じた。


「晩酌、付き合います。……ただし、平日の夜はなるべく早めに切り上げましょう」


 しばらく礼子は心ここにあらずの状態だったが、まもなく満面の笑みで微笑みだした。


「ありがとうございますっ」


 引っ込み思案な礼子の笑顔に、健太の心臓はドクンと跳ねた。

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