運命的な(飼い猫)との出会い
翌朝、健太はいつにもまして眠たい目を擦りながら目覚めた。昨晩、礼子に強引に晩酌に付き合わされ、晩酌会が終わったのは実に深夜三時。健太が起きるのはいつも決まって七時だから、睡眠時間は僅か四時間しか残されていなかった。
あくびを掻きながら、健太は朝の準備をしていた。幸い今日は在宅勤務の日。多少の睡魔があっても、成果を出せば、それを咎める人はいない。
会社から借りているノートパソコンは、図面を書くには少しだけ動作が重かった。それでも、いつもよりは遅いながらも着実に健太は仕事を進めていった。そんな風に仕事を進めながら、パソコンが重くなった時などを見計らい、健太は頭の片隅で礼子のことを思い出していた。
昨晩の礼子は、随分と無防備な格好で朗らかにしていた。手元にはずっと酒があり、チビチビちびったり、豪快に飲み込んだり。そんな彼女に付き合い、酒を飲まされ、聞かされた話はオチもなければ盛り上がる部分もない話を聞かされた。
女性付き合いがあまり多くもない健太であったが、えりかも同様にそんな風に実にも毒にもならない話を好んでしていたから、まあ聞いている分にはそれくらいだろうと思ったのだが、生憎それを話す人が世間一般でミステリアスで寡黙な美人、吉田礼子であるから、困惑を隠すことは出来なかった。
礼子が出演し好評を博した映画。健太はまだそれを見れていないが、何とかこの前動画サイトに転がっていた広告だけを見た。その広告で礼子が演じている姿は、なんとも日本男児が好むようなお淑やかな女性を彼女は演じていた。完璧に、演じていた。
「落差が半端ない」
ワイドショーで見る寡黙で美人な礼子。
映画で演じていたお淑やかで美人な礼子。
そして、酒を飲んでバカ騒ぎして近隣住人に苦情を入れられ一夜を共にしたり、失敗ばかりの素の礼子。
イメージ、というものが、どれだけ広告代理店により構築された偽りの姿か。広報部の闇を、健太は垣間見た気がした。
……が、まあ。
他の一般人であれば知る由もない礼子のそんな姿を、自分が知れているという現状は、少しだけ気分が良かった。
カタカタカタと、健太は黙々とパソコンを操作し続けていた。健太は、在宅勤務という制度があまり好きではない。相談事をするにも電話を介さなければならない、というのは、相手の顔を見ながら仕事を出来ない、というのは、何より仕事とは、信頼関係が大切だと思っている健太にとって、死活問題でもあったからだった。
が、最近ではそんな時間も悪くないと思い始めていた。基本横やりが入らない、という環境は、作業を進める分には非常に効率的だと気付いたからだ。だから最近では、会社にいる日は日程や打ち合わせ業務をたくさん入れて、在宅勤務の日は図面製図など、作業に時間を当てるようになっていた。そんなワークライフを確立してから、健太の仕事の作業効率はグンと上がったのだ。
そろそろお昼か。
そんな時間に差し掛かり、健太は凝り固まった背筋を伸ばしながら椅子から立ち上がった。
丁度その時、ベランダから物音が聞こえてきた。
一瞬怪訝に思った健太だったが、鳥でもやって来たのだろうと気に留めることはなかった。
「にゃー」
しかし、その泣き声の後、窓をひっかく音がして、健太はカーテンを開ける気になった。
「にゃー」
カーテンを開けた先にいたのは、猫だった。窓越しに、首輪をしているのがわかった。
「お前……」
そして健太は、その猫に見覚えがあった。それは、丁度昨日の話。終電間近に家に帰り、ご飯を食べて、有名人の家で晩酌をした時のことにさかのぼった。
実の無い話をする礼子が、唐突に自らのスマホを撮りだして一枚の写真を健太に見せたのだ。そこに映っていたのは、猫の写真。聞けば、ペットOkのこのマンションで、礼子は猫を飼っているとのことだった。生憎、健太がお邪魔した頃には眠っていて本物の顔を拝見することは出来なかったが、先日に比べて深酒しなかった健太はその時見せてもらった写真のことを思い出せた。
そして、その時見せてもらった写真の猫は、間違いなく今、健太の家のベランダに侵入してきた猫だった。
窓を開けると、礼子の飼い猫は怯える様子もなく健太にすり寄ってきた。昨日家にお邪魔し、匂いが移ったのかもしれないと健太は思った。
「駄目だろ。勝手に人の家に入ってきちゃ」
猫にはわかるはずもない注意をし、健太は猫を抱きかかえた。そしてベランダに出て、どうして猫がこちらの部屋に来れたのかを調べることにした。
申し訳ないと思いつつ、仕切りをベランダに寄りかかりつつ避けて覗くと、微かに隣人宅の窓が開いていることに気が付いた。
「あの人、換気したまま外出したな……?」
あまりにもおっちょこちょいで、ぞんざいな礼子の対応に、健太は深いため息を吐いて頭を抱えた。一応、自室に猫を匿いつつ、一旦隣の部屋のチャイムを鳴らしに行くが、反応はなかった。どうやら、今は留守らしかった。
部屋に戻ると、玄関で猫が健太を待ち伏せしていた。
にゃーと鳴きながら、猫は健太の足にすり寄った。
健太は腰を下ろして、猫を抱え上げて、頭を撫でた。気持ちよさそうに、猫は目を閉じていた。
「お前のご主人、おっちょこちょいでもあるんだな」
本当に、テレビで見る礼子とはまるで印象が違う、と健太は思った。
それから自室に猫を匿いつつ、仕事をしつつ、時々猫に構いつつ、健太は着実に確実に仕事を終わらせていった。
夕日が沈み、完全に一日の仕事を終わらせた頃。
「カルパース」
窓の外から、件の人の声がした。
隣で眠ってしまった猫の頭を撫でていた健太は、ようやく帰ってきたかと重い腰を上げた。
窓を開けて、ベランダに乗り出して。
「吉田さん」
健太は、礼子を呼びつけた。怒ってやるつもりだった。健太達の部屋があるのは三階。ベランダに繋がる窓を開けっぱなしで、猫が遊びで飛び出し、落下でもしたらどうするのか、と。事実、猫はベランダ伝いに健太の家までやってきたのだから。
しかし健太は、乗り出してみた礼子の顔を見て、言葉を失った。
礼子は、目尻に涙を蓄え、悲壮げに周囲を確認していた。大切な何かを失った子供のような幼稚な姿と、大人びた美貌を持つ礼子のギャップが、健太から言葉を奪ったのだ。
「……岩瀬さん?」
自己紹介は、昨日済ませていた。
「あの、その……猫、見ませんでしたか?」
……酒の入っていない礼子は。
気弱で、幼気な少女に見えた。
「見ましたよ」
興を削がれて、健太はため息交じりに言った。
途端、礼子の顔が晴れ渡る。夕日を浴びながら、赤々とした美しい微笑みだった。
「本当ですかっ!?」
「はい。ベランダ伝いにウチに遊びに来ました。今、寝てますよ」
「すぐ、引き取りに行きますっ!」
「あっ、ちょっと……」
健太の制止も聞かず、礼子はベランダを飛び出して、部屋に戻っていった。少しして、健太の部屋のチャイムが鳴らされた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます