運命的なゴリ押し
月曜日。皆が鬱屈とした気分で学校や仕事へ向かう中、その中でも一際鬱屈とした気分で仕事に当たる男が一人いた。
健太はパソコンの画面に向かい、新製品の図面を書きながら、悶々とした気分でいた。
理由は、えりかとの別れ。ではなくて、そのえりかと別れた後、傷心の果てに自棄酒を煽り、酒での失敗をしたことが原因。
あの時一夜を共にした相手が、まさか隣人だったとは。
部品の寸法公差を設定しながら、健太は器用に脳内で別のことを考えていた。
酒での失敗。
ワンナイト。
そして、そのワンナイトの女性が知る人ぞ知る大女優、吉田礼子。
「はあぁぁぁ……」
休日二日間のやらかしを思い出す度、健太は大きなため息を吐いていた。仕事に私情は厳禁とはわかっているが、そうも言ってられなかった。
健太が気にしていたのは、世間体だった。
一方的にとはいえ恋人と別れてほんの数日。いや、あの時点では数時間でのやらかし。自分が薄情な奴に見えて仕方なかったのが悩みの理由の一つ。
そしてもう一つの理由は、その相手がよりにもよって有名人。しかもマンションの隣人であることだった。
有名人と一夜を共にできて嬉しいと思う人もいるだろうが、生憎健太はそこで喜べるような楽観的な男ではなかった。
有名人とやらかして、事務所とかから怒られたりしないだろうか。
大女優である彼女のスキャンダルのため、あの晩、傍にパパラッチとかが張ってたりしていなかっただろうか。
そもそも隣人と一夜を共にしただなんて、気まずすぎる。
これから一体、どんな顔をして彼女へ挨拶をすればいいのか。
陰鬱な気持ちは、最終的に仕事の進捗に影響を及ぼした。図面一つ書くのにいつもより時間がかかり、健太が会社を出たのは終電間近の時間になっていた。
こうなると隣人との関係だけでなく明日の仕事のことも健太の悩みの一つとなり、陰鬱になる負のスパイラルが着実に形成され始めていた。
明日の仕事もあるし、さっさとご飯を食べて寝てしまおう。そう思って自宅に着くや否や手短に料理を作り、パクパクとそれを食べ始めた。
お手軽料理に味気なさを感じた健太は、テレビを点けて気を紛らそうとした。
ドンッ
そんな、一日の疲れをようやく癒せそうな時だった。隣の部屋から、壁ドンをされたのは。
健太は突然のこと過ぎて、驚き体をビクッと揺すった。
隣……角部屋のそこに住むのは、件の有名人、礼子。礼子のことを思い出し居た堪れない気持ちの健太だったが、まもなく謂れのない壁ドンに首を傾げた。
「そんな騒いでないぞ」
今でこそ別の目的で行われる壁ドンだが、元々は隣の部屋の人が騒がしい時に黙らせるための手段のことで有名だった。今の壁ドンは、礼子が健太に対してうるさい黙れ、という意味で起こした行動であることが極めて高かったのだ。しかし、今ようやくテレビを点けた健太にすれば、何が礼子の琴線に触れたのか理解出来なかった。
『いったーい!』
まもなく聞こえてきた礼子の叫びに、健太は新婚さんトーク番組の司会者ばりに椅子から転げ落ちそうになった。
「何やってるんだ……?」
困惑する健太だったが、まもなく朧気ながら一つの記憶が蘇った。
「そういえば居酒屋で、叫びすぎて管理人から怒られたとか言ってたな」
確か、だからあの日は宅飲みはせず、居酒屋で飲むことにしたのだったはず。
はて、どうして今日は居酒屋で飲まなかったのか。
「……見ず知らずの男と一夜を共にしてしまったからか」
納得した健太だが、なんだか複雑な気持ちだった。
何故なら隣人である礼子が毎夜うるさいと管理人に苦情を入れたのは、まさしく健太自身だったのだから。
健太が今のマンションに越してきたのは、つい最近のことだった。今の会社に入社してから今までは社員寮にいたのだが、三年という期限があり、此度ついに追い出されてしまったのだ。
ある程度金払いの良い会社だったから、将来のことも考えて少し高めの二LDKのマンションを契約し、そしてその将来の話がご破産になった恰好だ。
ただ、まさか隣に有名人が住まい、その人が酒癖が悪いだなんてことは、入居当時はまるで考えていなかった。
健太は、辟易とした気持ちになっていた。一先ず騒がしい礼子を黙らすために、また管理人に連絡するか、と思った。
「でも、それは前にやって効果がなかったんだよな」
健太は頭を掻いた。
どんな経緯があったかは半分わかりかけていたが、とにかく管理人への苦情で礼子が宅飲みを止めなかったのは事実なのだ。また同じ行動を起こして、一定の効果が得られるかは微妙だった。
ただ、管理人への苦情でも止めなかったとなれば、どうするべきか。
少し考えて、健太は自らの重い腰を上げることにした。
あんなことがあったのだから、当然気まずさはあったが、それは向こうも同じはず。今最も気まずい健太からの叱責であれば、渋々ながら礼子も聞くかもしれないと思ったのだ。
「仕方ない」
健太はため息を吐き、部屋を出て隣の部屋に向かった。
扉の前、息を吐いて、意を決して、健太は礼子の部屋のチャイムを鳴らした。
「はあい」
妖しげな楽しそうな声が、部屋の中から響いた。インターホンで応じると思ったが、部屋の中からパタパタとスリッパの足音がした。
ガチャリ
扉が開くと同時に、健太はドキッした。礼子の格好が、Tシャツショートパンツと健康的な肌色が露わになる組み合わせだったからだ。
「あーっ!」
いけない気持ちに駆られていると、礼子の快活な声が響いた。
礼子の正体を知ってから、健太は動画サイトで礼子の活動を拝見していた。その末、礼子はイメージ通りミステリアスで物静かな女性という印象を抱いていたが、酒に酔った礼子はそのイメージから随分と乖離していた。
「この前のお兄さん! 今日はどうしたんですか?」
舌足らずな礼子の言い方に、何を言いに来たのか、健太は頭から吹っ飛んでいた。
少し考え押しかけた理由をようやく思い出した健太だったが、
「……あの、少し騒がしいのでーー」
「そんなことよりっ、一緒に飲みましょうよっ」
酔っていて押しの強い礼子に、再び困惑させられたのだった。
「いやあの、俺明日も仕事です」
「えぇ、あたしとの晩酌より仕事を選ぶんですかー?」
「はい。仕事を選びます」
きっぱりと言い切れたのは、健太と礼子が所詮一夜の関係で隣人であるだけだったからだ。
しかし、礼子の言いぶりが、健太にはえりかの言葉と重なって見えて、無意識に顔を歪めていた。
「えー」
礼子は子供のようにふくれっ面を作った。健太は、酒癖が悪い礼子に顔を歪めていた。
「ということで、もう少し静かに晩酌お願いします。俺、そろそろ寝ないといけないので」
ひとしきりのやり取りを経て、健太はようやく本題を切り出すことが出来た。これで少しくらい彼女が自粛してくれればいいなと思っていた。
しかし健太の思いとは裏腹に、ニヤリ、と礼子は笑った。
「ごめんなさい。あたしそんなにうるさかったですか」
壁に激突するくらい暴れててよく言うな、と健太は思った。
「じゃあ……見張ってくれる人が必要ですね。ええ、必要ですねぇ」
「……は?」
「お兄さん、あたしが騒がないように見張っていてもらえませんか?」
「は?」
「しょうがないのです。これはしょうがないのです」
健太が反論するより早く、礼子は健太の手首を掴んでいた。
虚を突かれるあまり、健太は思考が追いつかなくなっていた。
「さあ上がってください。さあ一緒に飲みましょう!」
礼子の力は強かった。とはいえ、健太からすれば引き剥がすことも出来る強さだったが、そうしなかった理由は女性に手荒な真似は出来ないと思ったからだ。
しかし、健太は礼子宅の玄関を超えた時、香っていたアロマの香りにクラっとした。欲求解消的な意味で。
……健太は、不安だった。
この前のように記憶を失くす程の泥酔ならまだしも、こんな綺麗な人とシラフで致すことは緊張のあまり出来そうになかった。
恥は掻きたくない。でも、要求されたら断れる自信がない。
健太は、八方塞がりな状況に顔面蒼白させていた。
が、それは心配無用なことだった。
「……でですね。えぇとですね」
酔った礼子が求めていたのは、致す相手ではなく話し相手。というか、聞き手だった。さっきから礼子は、まるで初めて出来た友達との会話のように、一人楽しく自分の思い出話を健太に披露していた。
礼子の用意していた日本酒を啜りながら、はい、とか、へえ、とか興味なさげな相槌を打ち、健太は肩透かしに悶々としていた。
結局礼子が健太を帰したのは、深夜の三時を回った頃のことだった。
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