運命的な再会
水を飲んで、ベッドの上でぐったりとしながら、健太は先ほどの女性の名前を調べていた。彼女の名前は、今出演している番組名を検索したらすぐに出てきた。どころか、画像一覧のところでど真ん中で笑顔で女性は写っていた。
女性の名前は、吉田礼子。二十五歳。身長百七十一センチ。体重四十九キロ。四年前に人気映画の主役を張り、それが大当たり。ミステリアスな雰囲気を醸し出した彼女の演技は各方面から絶賛され、今の地位を確立させた。最近では日曜朝の情報番組にもメインパーソナリティーとして出演し、それもまた彼女の人気に一役買っていた。
「この映画、さすがに名前は聞いたことあるな」
気だるさで滑る目を走らせながら、健太は自らも知る映画に出演していた礼子の凄さを実感していた。
ただ健太は、礼子という女性の名前も顔も、知ったのは今日が初めてだった。仕事に生きる人生を送るあまり、テレビという文化から乖離され始めていたのだ。それでも前までは、見逃し配信などででも見ようと思ったものだが、最近ではそれも止めてしまった。
だから健太は、昨晩。そして今朝も、彼女が礼子であることに気が付かなかったのだ。
そして、そんな有名人と一夜を共にしてしまったことに、健太は少しずつ興奮を……覚えることはなかった。
「あー……」
だみ声で、健太は目を瞑った。予想以上に、昨晩のお酒の飲みすぎが祟っていた。
目を瞑って、今にももうひと眠りをしてしまいそうになっていた。健太は、隣の部屋からテレビの音が漏れ出ていることに気付いた。どうやら消し忘れていたらしい。
ベッドから立ち上がり、テレビを消しに行くのは、酷く億劫だった。
そのまま眠りについて、昼頃に健太は目を覚ました。先程に比べたら、多少は二日酔いの気持ち悪さも緩和されていた。
「飯を食おう」
二日酔いが薄れた結果沸いてきたのは、食欲だった。
リビングへ向かい、キッチンスペースへ行き、冷蔵庫を開けると……中には、大した食材は入っていなかった。そう言えば先日、そろそろ食材の買い足しに行かないとと思っていたことを、健太は思い出した。
本当は昨日、デートの後に行こうと思ったのだが、それも紆余曲折を経て忘れてしまっていたのだ。
「えりか……」
結果健太は、元恋人の名前は思い出し、一人部屋で滅入った。不思議と、滅入る程に二日酔いの感覚が冴えるのだった。
一体、何がいけなかったのだろう。
彼女との行き違いは、どこで生じたのだろう。
昨日散々考えたことなのに、酒を飲んで忘れたことなのに。一夜明けて、昨晩の考察が熱を帯び始めた。
ソファに腰かけて、頭を悩ませることしばらく、さすがにいつまでもうじうじしていたもしょうがないと思い、健太は外出を決意した。
しかし、スーパーに食材を買って、家で調理をする気には更々ならなかった。
「どっかで食べて、スーパーに行って帰ってこよう」
丁寧に収納されたクローゼットを覗き、手短に衣類を着替えて、健太は家を出た。
それから色んなチェーン店が立ち並ぶ駅前にまで行き、しばらく何を食べるか悩んだ後、健太は胃もたれ気味の内臓のことを考えて、蕎麦を食べることを決意した。
入店したこざっぱりした蕎麦屋で蕎麦を大盛で注文し、それを平らげる頃にはある程度さっきまでの萎んだ気持ちも、二日酔いもマシになっていた。
少しだけ元気が戻り、健太は駅前を散策する気力が沸いてきていた。これから暑くなることを見越して、Tシャツでも買い込んでおこうと、近場のファッションショップに立ち寄った。
「うっ」
店の自動ドアが開くや否や、健太は顔を歪めた。店内にはたくさんの衣類とマネキンと、そして広告ポスター。
健太が唸ったのは、ポスターにだった。
決まった凛々しい顔でモデルとしてポスターに写る女性。その人に見覚えがあったのだ。
「あの人、こんな仕事もしているのか」
それはまさしく、一夜を共にした礼子その人だった。
居た堪れない気持ちでエスカレーターを上がると、大きなガラスから向かいのビルが見えた。
「あそこにも……」
そして、向かいのビルにもまた、礼子のポスターが貼ってあった。
健太は思った。
不動の人気を誇る女優、とは、ネットニュースだったり検索内容で見知ったつもりだったが、ここまでマルチに活躍しているとは予想外だった。
健太は、嫌な気持ちだった。
どこに行っても彼女の広告がある現状は、どこに行っても彼女に昨日の一件を咎められているようで、気味が悪かった。
しかしまもなく、こう思った。
その内、この感情も消え去るのだろうか。
たった一夜の出会い。たった一夜の過ち。
過ちはいずれ時効を迎え、いつか思い出すことも困難に。
そうして、昨日の一件は清算され、忘れ去られていくのだろうか。
そうなる、と確信している心があった。所詮健太にとっては、礼子が有名人であろうがなかろうが、彼女との一夜はその程度の出来事だったのだ。
が、しかし。
えりかとの別れは、健太にとっては、その程度では片付かない出来事だった。
健太は思った。いずれ、えりかとの別れも忘れられる日が来るのだろうか、と。
健太にしたら、しばらく訪れそうもなかったそんな日は……意外にも、あっさりと迎えられることになる。
そしてそれは、先の一件を一生忘れられない出来事へと昇華させることにもなる。
きっかけは、スーパーでの買い出しを終えた帰宅道だった。
いつも通りイヤホンでクラシックを聴きながら、マンションのオートロックを解除し、健太はエレベーターへと向かったのだ。
傍らに、健太は背後にマンションに入ろうとする人影を捉えていた。
エレベーターに着いて、上るボタンを押して、エレベーターが到着した後も開くボタンを押し続けたのは、後ろの人がエレベーターに乗ってくると予想したから起こした行動だった。
「すみません」
予想通り、健太の後ろにいた人は、エレベーターに乗り込んできた。女性だった。
そして健太はこの時、その女性の声に聞き覚えがあることに気が付いた。
「……あ」
健太が女性の方を向いた時、声を上げたのは彼女の方だった。
ピンクのフレームの眼鏡。黒のベレー帽。
今更健太は、それが彼女の変装アイテムであることに気付いた。
「……よ」
健太は、わなわなと口を震えさせて、気付けば声を荒げていた。
「吉田、礼子っ!」
エレベーターに乗り込んだその人は、昨夜を共にした吉田礼子、その人であった。
そして二人は、互いが隣人関係であることをここで初めて知ったのだった。
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