恋人に別れを告げられた次の日の朝、ホテルで大人気女優と寝ていた
ミソネタ・ドザえもん
運命的なあれこれ
運命的な出会い?
岩瀬健太が恋人である奥山えりかとのデートのために家を出たのは、目的地に十分前に着くように計算された時間だった。電車を乗り継いで、向かった先は新宿駅の傍の個人経営の喫茶店。えりかとのデートはいつも、彼女の提案で落ち着いた喫茶店からスタートするというのが定番だった。
その定番通りの、いつも通りのただのデート。
しかし、健太はいつもよりも胸を躍らせ電車に揺られ、目的地への到着を待ち望んでいた。こうしてえりかとデートするのが、実に一ヵ月ぶりであることが、健太がこの日を待ち望んでいた大きな理由だった。
昨今の社会情勢は極めて不安定だ。
世界的な疫病の流行に始まり、半導体不足、果てには欧州で勃発される侵略戦争。急激な円安も拍車をかけて、経済面の不安は日に日に増していくばかり。
健太の勤める職場もまた、その社会情勢の煽りをモロに受けた格好だ。毎月月末の締め日に向けて、オフィス内の空気も劣悪になり、社員の帰る時間も遅くなり。そんな会社環境で、健太は長時間労働に当たる日々に追われていたのだ。
一見すると辛く望まない会社環境のように聞こえるが、健太は今の会社のことが嫌いではなかった。厳しいながらに社員間の仲は悪くないことも一因だが、何より金払いは悪くないことがモチベーション維持に繋がっていた。月ごとに増えていく預金通帳を見るのが、健太は好きだった。来月も頑張ろうと、そう踏ん切りをつけられるのだ。
「あたし達、別れましょう」
しかし健太はまもなく、そんな会社のことが嫌いになりかける。
馴染みの個人経営の喫茶店に着くと、健太の恋人であるえりかは淡々と、作ったような無表情でそう告げた。
健太はしばらくえりかの言った意味が分からず、手に持ったコーヒーを啜ることもコースターの上に戻すことも出来ずにいた。
「……どうして?」
まもなくえりかの言った意味を理解した健太は、困惑気味に尋ねていた。唐突な別れを告げられ、疑問は尽きなかった。
「どうしてって。心当たりはないの?」
「ない」
少し思案したがわからず、情けなく健太は首を横に振った。
「あなた、仕事が好きなんでしょ?」
虚を突かれるえりかの言葉に、健太はただ黙った。
「明日会える? 明後日会える? 来週会える? あなた、いつもこう答えてきた。仕事だから無理。仕事だから後にして。仕事だからまた今度」
愚痴っぽい、ネチネチした言い方だった。
「いつもいつもいつも、仕事仕事仕事。風邪を引いて誰か傍にいて欲しい時も。仕事で失敗して誰かに慰めて欲しい時も。デートしたい時だって。あなた、いつもあたしの傍にいてくれないじゃない」
健太はただ茫然としていた。仕事に熱心に打ち込み、その結果こんな事態を招くだなんて、想像もしていなかったからだ。
「……仕事とあたし、どっちが大事なの?」
えりかの冷たい声色のそんな問いに、健太は即答できなかった。
そして、それが答えであり、契機であった。
「サヨナラ」
そう告げたえりかは、自分の分の会計を置いて、喫茶店を後にした。
しばらく健太は、その場でただ茫然とすることしか出来なかった。
喉が渇いてきて、注文していたコーヒーの存在を思い出して啜ると、コーヒーは既に冷たくなっていた。
一体、何がまずかったというのか。
仕事にかまけていたことが、悪かったというのか。
健太は釈然としなかった。
所詮、この世は金がないと何も出来ない。金がないと飯も食えない。金がないと遊ぶことも出来ない。金がないと良い景色を眺めて、ロマンチックな雰囲気で愛を囁くことも出来ない。
金が必要だったのだ。だから、健太は働き詰めたのだ。その恩恵を、少なからずえりかも感じていたはずなのだ。
なのに、どうして自分を切り捨てるような真似に乗じることが出来たのか。健太は、言い様のない怒りに駆られ、そしてそれを鎮火させた。
「結局、俺が仕事に執心していたことは事実だったじゃないか」
仕事では上司に散々結果を出せと言われる。結果を出さねば会社の金にはならない。結果を出さねば事業拡大は出来ない。結果を出さなければ会社はいずれ潰れていく。
そうしてその考えに囚われ、健太は結果至上主義の考えをモットーに仕事に当たった。
そしてその考えでは、常々こう言われ続けるのだ。
結果を出せなければ、頑張ったも苦労したも、無意味だと。言い訳でしかないと。
虚しい話だと最初は思った。非情だとも思った。
しかし、ノルマをこなせない同僚にヤキモキしている心が自分にあることがわかった時、その考えが真理なんだと健太は悟った。
そして、健太は今、気付いた。
今まさしく、えりかに対して感じたこと、思ったことは全て、結果を出せなかった、お眼鏡に叶わなかった健太の、言い訳でしかないということに。
気乗りしない気持ちを引き連れて、健太は喫茶店を後にした。このまま家に帰るのは、気が引けた。何を仕出かすかわからないと思ったのだ。
気分転換をしよう。そう思って健太は、電車を乗り継ぎ東京駅へと向かった。東京駅の丸の内駅舎から、皇居へ向けた道路。二十三区内でも珍しい大きな道路と、高層ビルと、自然と。健太は、あのあたりの光景が好きだった。
中央線のホームを降りて、地下通路を歩き、健太はすれ違った。
先ほどまで新宿駅で一緒の喫茶店にいたえりかに。
いつの間にここに。
どうしてここに。
そんな疑問は、すぐに吹き飛んだ。
全ては、えりかが楽しげに歩いていること。
男と腕を組み、楽しげに歩いていることでどうでも良くなった。
「良かったのかよ、あいつと別れて」
微かに、二人の楽しげな声が聞こえてきた。
「いいのよ。遊べないんじゃ金ヅルにもならない」
それは、愛を囁きあってきた相手から聞いた中で、最も辛い言葉であった。
いつ、彼女の熱が冷めたのか。
いつ、彼女の想いが逸れたのか。
いいや、そもそも最初から、自分への気持ちなんてなかったのかもしれない。
だってそうだろう。
人がたくさんいるとは言え、二人はかつて愛を囁きあった仲。そこをえりかは、健太の真隣を素通りしていったのだ。
涙を流すことはなかった。
それ以上にショックで、健太は思考も体も、微動だにさせることが出来なかった。
健太の横を過ぎていく通行人が、健太を訝しげに見ていく。しかし健太は、視界が真っ白になっていてそれにさえ気付くことは出来なかった。
その後の記憶は、酷く朧気だった。
気付いたら東京タワーの真下にいて、気付いたら芝浦ふ頭にいて、レインボーブリッジを眺めて潮風に当たっていた。
生暖かい潮風が、まもなく到来する夏の気配を感じさせた。しかし健太の心の中は、極寒の真冬のような空模様だった。
「……帰ろう」
健太は呟いて、帰路に着いた。
電車に揺られて、車窓の景色をぼんやりと眺めて、機械的に電車を乗り継いだ。
どこかで虫の羽音が聞こえた。
ついで、カレーの匂い。
更には、民家から漏れる家族の笑い声。
彼らは幸せいっぱいなのに、どうして自分は不幸なんだろう。健太は、無性に腹が立ってきていた。
いっそ、どこかの家に乗り込んで、笑い声を悲鳴に変えてやろうかとさえ思った。
邪な考えが漏れ出る健太をせき止めたのは、家の傍にある居酒屋に灯りが灯っていることに気付いたからだった。
「酒を飲んで忘れよう」
かつては、健太は家で毎日のように晩酌していたが、酒を飲んだ翌日の体調が優れず仕事に支障をきたすからそれを止めていた。一旦止めると、休日でさえ酒を飲む気は失せたのだった。
しかし、ここまで気分が優れないと話は別だった。
いっそ全てを忘れるくらい、酒を飲んでしまおう。急性アルコール中毒にでもなったら、その時はその時だ。
そう思って、重たく軽い木調の引き戸を開けた。
「いらっしゃいませ。おひとりですか?」
「はい」
思えば、最近居酒屋に入店する機会がめっきり減っていたことを健太は思い出した。最後に行ったのは、えりかと。あれが彼女との最後の居酒屋だったのかと気付くと、唐突に目頭が熱くなった。
「カウンターでもよろしいでしょうか?」
「大丈夫です」
嗚咽を漏らしそうになりながら、健太は女の店員が勧める席に腰を下ろした。お通しを通され、生ビールを一つ注文した。
健太は、今日は朝以降ご飯を一度も口に付けていなかった。えりかと喫茶店に入り別れを告げられたのは十時頃。それからはショックで、ご飯なんて食べたいと思うどころか、欲求の片隅にも沸いてくることはなかった。
ひんやりと冷えたジョッキの取っ手を掴み、一気にそれを喉に押し込んだ。アルコールがクラリと脳を揺すったが、到底気分が紛れることはなかった。
もう一杯。
もう一杯と、健太は酒を注文していく。
健太がお通しを食べ終わったのは、七杯目のビールを飲み干した頃だった。その頃には机に肩肘を付き、手は額に当てていて、完全に泥酔していた。
黙々とビールを煽る健太を、店員は心配げに見ていた。今の健太は、声をかけるにはあまりにも不気味だった。他の客も、ものの数十分で大量のビールを煽って呂律が回らなくなっていた健太に、訝しげな目で見始めるようになっていた。
「いらっしゃいませー」
そんな不穏な空気の居酒屋に、新たな客が来店してきた。
マスクにピンクのフレームの眼鏡。黒のベレー帽を脱いだ後に現れた肩まで伸びている黒髪。そして、思わず二度見するくらいスタイルが良い女性客だった。
「おひとりでしょうか?」
「はい」
甲高い声が、店内に響いた。
頭をフラフラ揺すりながら、健太は声色で来店客が女性であることに気付いた。女性が一人で居酒屋だなんて、珍しいとも思った。
「すいません。今、カウンター席しか空いていないんですが、大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫です」
女店員に導かれ、女性は健太の隣に腰を下ろした。
目を瞑っていた健太も、気配でそれを察した。
「お通しです」
「ありがとう。あ、注文良いでしょうか」
「はい」
「生一つ」
「はーい」
めっきりとペースダウンした健太は、チラリと隣を見た。件の女性客は、スマホをいじっていた。
なんとなくだった。
酒に酔って、今ならなんでも出来る気がしていて、健太は、なんとなく気軽に女性に話しかけてみる気になったのだ。
「居酒屋に女性おひとりですか」
呂律が回らない声で、健太は言った。
「え、ああ。はい」
スマホをいじっていた女性が、自分に言われていると気付いて、困惑気味に返事をした。
「珍しいですね。良くないですよ」
「どうしてでしょう」
「居酒屋だなんて、酔っ払いしかいないでしょ。暴漢に襲われでもしたら大変だ」
今この店で一番酔っていて危ないのはあんただよ、と店内の人間誰もが思った。
「すみません。ビールです」
暴漢予備軍の健太に怯えながら、女店員は女性客にジョッキを手渡した。
「ありがとう」
微笑んで、女性客はそれを受け取った。
「乾杯」
健太は半分くらい減ったビールジョッキを女性の前に掲げた。
女性は、明らかに戸惑っていた。
「僕と乾杯が出来ないって言うんですか」
しかし、面倒そうな健太に気圧され、女性はジョッキをカチンと鳴らした。
「乾杯」
静かに微笑んで、女性は言った。そして、気を取り直したかのようにビールを一気に飲み始めた。
「いい飲みっぷりですね」
と、言いながら……まるで品定めでもするかのように、健太は女性の顔をじっくりと眺めていた。眺めた結果、綺麗な人だな、と語彙不足な結論を導いた。
「ありがとうございます」
女性は、困ったように微笑んだ。
「すいません。もう一杯」
そして、次のビールを頼んだ。
「よくこのお店には来られるんですか?」
健太は聞いた。
「いいえ、初めてです。いつもは家で」
少し酔いが回ったのか、女性客の声色が仄かに明るくなった。
「へえ、今日は一体、どうしてこのお店に?」
しかし、女性はまた困り顔を見せた。
「……実は、ですね」
女性は苦笑気味に続けた。
「実は、管理人さんに怒られまして」
「何を?」
「毎夜毎夜うるさいってマンションの住人から苦情が来ているって」
「アハハ。酔うと騒いでしまうんですか?」
「えぇ、あたし、引っ込み思案な性格で。お酒でも飲まないと本心が語れないんです」
「それでお酒を飲むのも好きになって。ついつい飲みすぎるってことですか。アハハハハ」
健太は面白そうに高笑いをした。
高笑いをしながら、こんなに楽しい気分なのは久しぶりだとも思っていた。
「はい。飲みすぎるともう止まらないし、飲み始めでも止まらないんです。やめられないとまらないです」
「それはお菓子のキャッチフレーズですよ」
「そのお菓子くらい、夢中になるってことです」
先ほどより口数多くなった女性に、健太は気分が良くなり始めていた。
「ビールでーす……」
控えめな声で、女店員が女性にジョッキを手渡した。この二人にこのまま飲ませ続けて大丈夫か、と内心不安に思っていた。
「乾杯」
今度は、女性から健太にジョッキを掲げた。
「かんぱー」
健太はジョッキをあてがおうとして、
「あれ。ビール、進んでないですね」
ノリ始めた女性から、煽られた。
無言になった健太は、まもなくジョッキに残ったビールを一気に飲みこみ、店員に次のビールを頼むのだった。
それから二人は、どちらかがビールを注文する度に乾杯の音頭を取り、どちらかのビールの飲む速度を促進させた。絶対に真似をしちゃいけない大人な遊びを繰り返して、それでも会話に花を咲かせて、二人は二人の出会いを楽しんだ。
……そして。
「えぇ……?」
翌朝、グアングアンと痛む頭を抑えながら、健太は顔を青くした。顔が青くなった理由は、酒の飲みすぎか、はたまた現状に、か。
昨晩の記憶は、酷く不鮮明だった。
えりかに別れを告げられて、自棄になって、東京タワーや海を見て……居酒屋に入ったところまでは覚えていた。
窓の外はまだ白んでいた。
そんな時間に目覚めた健太の現状は……。
怪しげに光る照明。
見慣れないベッド。
そして……、
「……はうっ」
嫌な予感に健太は壊れかけの歯車のように首を回して、一層顔を青くして唸った。健太の隣には、居酒屋で出会った女性が静かに寝息を立てていた。
やってしまった。健太は思った。傷心気味だったとはいえ、まさか見ず知らずの女性と。
どうしたものか。健太は戸惑った。とりあえず、ズボンを履こうと思った。
抜き足差し足でベッドから降りようとして、
ピロリロリーン
小さな、されど大きな音が響いた。
それがスマホのアラームと健太が気付いたのは、静かに寝ていた女性が目覚めた時だった。
女性は眠そうに目を擦りながら、上半身を起こした。
そして、二人の目が合った。
「……おはようございます」
「あ、これはどうも」
丁寧な挨拶を交わして、
「あっ、ごめんなさい。あたし今日これから仕事なんですーっ!」
女性は寝ぼけが覚めたのか、慌てふためきだした。
「ひっ」
余程大切な仕事なのか、小さな悲鳴を上げた健太に気付くこともなく、女性は衣類を纏ってさっさと部屋を後にした。
健太は、昨日の喫茶店同様に一人残され、呆然と立ち尽くすのだった。
目の裏に残った光景は……放送コードNG。
「帰ろう」
健太がそう決心したのは、女性が去ってから数十分後だった。健太がいた場所は、自宅からほど遠くないホテル。
チェックアウトを済ませた頃に、健太は二日酔いの影響で酷い頭痛を患った。さっきの女性とどこで会ったのか、泥酔し記憶が混濁していた健太は思い出そうとするが、頭痛が酷くそれどころではなかった。
……ただ。
「とても綺麗な人だった」
顔立ちも。
溢れる気品も。
……そして、体も。
全てが、非の打ち所がなかった。
ただ、最後は酷い別れ方だった。
ただ、惜しい事をしたとは思わなかった。まだ健太は、なんだかんだえりかに未練があった。
えりかのことを思い出して、一層重くなった足取りで家へと帰り、健太は水を飲んでテレビを点けた。
「ぶふーっ」
そして、健太はその水を盛大に噴き出した。
『続いてのニュースです』
朝の時間、点けたテレビでたまたま放送されていた番組を見て、健太は取り乱したのだ。
テレビの前までダッシュし、テレビを鷲掴みにし、自分の目が間違ってないかと凝視した。
「えぇ……?」
しかし、どうやら間違いではないらしい。
健太がテレビを凝視した理由。それは今放送されている朝の情報番組にて話している女性に見覚えがあったからだ。
「あの人、なんでこんなところに……」
そこにいたのは、まさしく先ほどまで一緒のベッドで寝ていたあの女性だった。
健太は思った。合点がいったのだ。
思わず見惚れるような美貌。築かれた気品。そして、慌ててホテルを飛び出した理由。
「あの人、有名人だったのか」
健太は思った。ただ思ったことは、そんな人と一夜を過ごせてラッキーだとか、そんな人と一夜を過ごせたのに覚えてないとかアンラッキーだとか、そんなことではなかった。
「バイタリティ半端ねえ……」
健太はかの有名人のタフさに、ただただ感服したのだった。
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