第27話 怖い夢を見た

 怖い夢を見た。

 夢の中で俺は、神殿の奥にある隠された扉の向こうに忍び込み、安置してある魔鉱石を盗み出していた。

 魔鉱石を服の中に隠し抱えて部屋に戻ると、ルークのクローゼットの棚から魔術書を取り出し、転移に関する章を探し出して急いで読み解く。

 ナイフで指先を切って自分の血を使い、見よう見まねで魔方陣を描いた。記されている通りの呪文を詠唱する。魔力ならば、ルークとの交流である程度は体内に溜め込んである。足りない分は、勇者の剣に滞留している魔力を使えばなんとかなる。

 呪文を詠唱するうちに、魔方陣が光り出した。

 俺は元の世界へ帰るんだ。日本の、平和な小さな町の片隅にある、懐かしい家族の暮らしている家に——……。


 

 ハッと目が覚めて、俺は布団の上で飛び起きた。

 朝だった。

 いつもの俺の黄緑色のシーツの掛かった布団を跳ねのける。

 窓に掛かったカーテンからは早朝の爽やかな光りが溢れていて、今日が良い天気になるであろう予感に満ちている。

目覚まし時計はまだ鳴らない。机の上には昨日やり終えた宿題のノートが出しっぱなしだ。「物理Ⅱ」と背表紙に書かれた教科書もある。

「帰ってきた……」

 俺は信じられない気持ちでベッドを降りて、懐かしい自室のなかをぐるぐると見回した。

 俺の部屋だ。集めかけの漫画の単行本が並ぶ本棚。高校の制服がかけてあるハンガー。学習机の上のシャーペン。

「帰ってきた! 帰ってきたー! お父さん! お母さん! 姉ちゃん! 俺帰ってきたーっ!」

 叫びながら家の中をドタバタと踊るように走って回る。

「なんだなんだ、彩人、朝から騒がしいな」

「顔を洗っていらっしゃいよ」

「煩いわね。朝っぱらから騒がないでよ」

 いつもの家族の声がする。

 向こうの世界では四年間が過ぎていたはずなのに、家族の反応はまるでいつもと変わらない。もしかして、こちらの世界では時間が過ぎていないのだろうか。

 ——本当に、全部が夢だった? 

 当たり前に迎えるべきだった平和な翌日を、ようやく迎えることができたのだろうか?

 だとしたら、良かった。辛いのも悲しいもの寂しいのも怖いのも、それから胸がドキドキするのも、全部夢だった。

 俺はまだ高校生で、毎日高校へ通っている。勉強して、進学して、地元に就職して、たぶん結婚とかして、このまま安心して暮らせばいいんだ……!

 俺は洗面所へ行き鏡の前に立った。高校生だった頃の自分の顔がどんな風だったか、確認しようと思ったのだ。


 ……あれ?


 だけど、そこに俺の顔は映ってなかった。

 映っているのは、知っているどこかの街だった。

 荒んで変わり果てた見覚えのある街の姿。

 人の姿はなく、店の看板は傾き、民家は崩れかけている。そして所々に不気味な影が蠢いている。

 おぞましい節くれだった複数の脚、せわしなく動く触覚。蟲のような外見をした巨大な魔物だ。

 魔物は朽ちかけた店の軒下や、建物の屋根や、倒れた街路樹の陰にもいる。そうしてよく見ると、荷物を抱え蟲を避けるように逃げ惑う人の姿があった。

 逃げる一人が蟲の脚に捕捉され「ぎゃぁ」と悲鳴を上げた。魔物の前では人などまるで玩具のようだ。

 人を捕食しようとした蟲は、だけどどこかから飛んできた炎によって脚を焼かれ、人を放り出してのたうち始めた。

「勇者! 早く何とかしてくれ!」

 誰かが叫んだ。

「それでも勇者か! 番いに逃げられた軟弱勇者め!」 

 糾弾の声が飛び交うなか、ふらりと姿を現した勇者はボロボロだった。

 どこかに怪我をしているようで、泥と血に汚れ、騎士服は破れ掛けている。脚はふらつき、銀色の髪からは汗が滴る。

 勇者は歯を食いしばって、うごめく魔物達に対峙し、魔力攻撃を繰り返した。青白い炎を上げて燃える蟲達。だけど、倒しても倒しても蟲は減らない。それどころか、勇者を目指して蟲達が群がってくる。

「勇者の番いは極悪人の転移者だったらしいな!」

「転移者が魔鉱石を持ち出したせいでこうなったんだ!」

「責任を取れ! すべては勇者の責任だ! 囲っていた転移者が魔鉱石を盗んだせいだ……!」



 あぁあぁぁ......!

 自分の声で目が覚めた。

 目を開けると、見慣れた薄暗い部屋のベッドの中だ。

 シーツはルークが買ってくれた水色のものだ。机の上には文字の練習用のノートと本。

 あぁ、うあぁぁ……。

 枯れかけていた涙が、またぼろぼろとこぼれて出てくる。

「アヤト! アヤト、どうしたんだ?」

 ルークが焦ったようにドアを開け、灯りを持って近寄ってくる。

 俺はベッドに起き上って、両手で顔を覆って泣いていた。

「アヤト……」

 ルークは気遣うようにして、ベッドの傍らに跪いた。


 ……怖い夢を見た。

 夢だった。だけど、もしかしたらあり得たかもしれない、もう一つの現実のような夢だった。

「酷い夢だった」

 思い出すと身体が震える。恐ろしくて。

 同時に、夢だったことが残念で。帰れなかったことが悲しくて。

 堪えようとしても嗚咽が漏れる。一瞬だけ、本当に帰れたと思ったのに。

 背中に躊躇うように触れてくる手の感触。ルークが俺を慰めようとしているのだろう。無骨で優しい手のひらの温もり。

 ……俺を、この世界に引き摺り込んだ憎むべき手。

 でも、真っ直ぐな暖かさと、闘いの痛みと苦しみを知っている手。


 ……なんでもいい。

 もう、なんでもいいから。

 この苦しいほどの孤独を何とかしてほしい。

 俺は傍らにあるルークの身体に手を伸ばし、その厚い身体にしがみついた。

「俺、夢の中で、凄く酷い奴だった」

俺の身体はすぐに強く抱き返された。熱い胸の中に苦しいほどに閉じ込められる。

「大丈夫だ。アヤトは何も悪くない」

「でも、俺すごく迷惑をかけてた」

 思い出すと恐ろしい、おぞましい夢だった。そして悲しかった。

 ルークはそんな俺の髪や背中をゆっくり撫でた。

「アヤトは悪くない。大丈夫。ただの夢だ」

 大丈夫。悪くない。

 呪文のように繰り返し囁かれ、抱きしめられるうちに徐々に安心することができた。ただ夢を見た。それだけのこと。


 俺は狭いベッドの中で、ルークに抱きしめられて眠った。

 布団の中で、ひたすら抱きしめられ、髪を撫でられていると心地がよかった。波立っていた心が慰められた。

「……ルーカス」

 名前を呼ぶと、ルークはわずかに身じろぎをして、俺の顔をのぞき込んだ。

 翡翠の瞳、整った顔立ち、恵まれた男らしい身体付き。

「……本当に、勇者なの?」

 俺がそっと尋ねると、ルークは複雑な表情をしつつも「そうだよ」と答えた。

「この手でいっぱい闘ってきたの?」

 俺は握っていたルークの硬い手のひらを撫でた。するとその手は、俺の手を絡め取るようにしてぎゅっと握った。

「そうだよ」

 俺はもう一度その胸に顔を埋めた。

 ドクンドクンという力強い鼓動が聴こえる。心地よい体熱と肌の匂いも。

 勇者ルーカス。憧れの人。

 ずっと会いたかった人。

 無言でぎゅっとしがみつくと、相手の身体がわずかに息を詰めるのが分かった。

「……アヤト」

 そうして俺の身体は、さらに強く抱き締められた。 







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