第23話 勇者の証に似ている
商店街からルークと暮らす部屋までは、普通に歩けばそれほど時間はかからない。
日が暮れだす前に、余裕で帰宅できるはずだった。
奇術師の大道芸を見たあと、お金を投げ入れた際にちょっとしたアクシデントはあったけれど、あんなものは忘却の彼方に葬り去ればよいことだ。まっすぐに帰って温かいお茶でも飲んでゆっくりしよう。そう思っていたのだけれど。
帰り道を半分ほど歩いたところで体調を崩した。
吐き気がしてきて、身体が重い。
仕方なく、乗合馬車の停留所の所のベンチに腰掛けて休憩する。半刻ほど休んで、治まってきた頃にまた歩き出したのだけど、やっぱり気持ちが悪いし頭も痛んだ。
古びた店と店の間のあい路に木箱があるのを見つけて腰掛け、俯いて辛いのをやり過ごす。こんな風に体調を崩すのは久しぶりだ。最近の俺は本当に元気だったから。
いつの間にか日が暮れてきて、少し肌寒さを感じた。
その上、空はみるみる灰色の雲に覆いつくされ、しとしとと雨が降り出した。
やはり、人込みへ行ったのが良くなかったのか。
人込みでは悪い瘴気のようなものも集まりやすい。外では瘴気のことはなるべく見ないようにしているけれど、知らないうちに疲れてしまったのかもしれない。
しかし一番の原因は、やはりあの奇術師にされたキスにあるような気がする。皮膚の薄い部分の接触で、少しだけあの奇術師の魔力が身体に入り込んだのではないだろうか。
ルークとキスをしたときは、ひたすら気持ちが良かったけれど、奇術師と接触した後はなんだかむかむかとして不快だった。相手によって、合う合わないがあるのかもしれない。
雨脚が強くなってきた。
かろうじて軒下だったのでずぶ濡れにはならないが、このままここにいては本格的に熱でも出してしまいそうだ。それに辺りが真っ暗になってしまったら、さすがに一人で歩くのは怖い。
少しでも陽があるうちに、無理をしてでも帰らなければ。
俺は湿った壁に掴まりながら立ち上がり、雨の中を再び歩き出そうとした。
が、ザッと目の前で音がして、大きな影が立ち塞がった。
「アヤト!」
と思ったらがばっと分厚い身体に抱きしめられて、焦ったように上着を着せかけられた。
この声、この気配、この身体の感触は。ルークだ。
「アヤト! どうしたんだ、具合が悪いのか?」
腕の中に抱き込みながら、ルークが焦ったようにのぞき込んでくる。
ルークが迎えに来てくれた、と思ったら、なんだかほっとして力が抜けた。顔が無意味に緩んでしまう。
「……へへ。俺、大丈夫だよ」
それまで辛かったはずなのに、ルークの顔を見たら本当に大丈夫になったような気がした。けれど、ルークの表情は険しいままだ。
「急いで帰ろう」
そう言って、俺の身体を両腕で軽々と抱き上げた。いわゆる、お姫様抱っこというやつである。
うわぁっ、と俺は驚いてあたふたしたのだけど、ルークはまったく動じず真剣で、そのまますごい勢いで移動を始めた。
疾走している。俺を抱えたまま、俺の身体をほとんど揺らすことがない。階段もスピードを落とすことなく駆け上がった。
そうして、あっという間に部屋の中へと辿り着いた。
そのまま部屋のベッドへ連れていかれそうになったので、
「ま、待って。俺、口を洗いたい」
途中で下ろしてもらって、洗面所へ行って口を洗った。
先ほどに比べると、吐き気も頭痛も小康状態となっている。
何度か洗って口を漱ぎ、タオルでごしごしと拭った。そうして戻ろうとしたら、洗面所のドア枠にもたれるようにして、ルークが立っていた。ルークは真顔で観察するかのように俺を見ていたが、
「……お茶を飲まないか」
静かにそう尋ねてくる。
「うん、飲む」
俺は頷いた。ちょうど喉が渇いていた。
ルークは、俺の傍らに来て背中に手を回し、リビングのソファの場所まで労わるようにエスコートしてくれる。俺はルークに促されるままに、ソファのぬいぐるみ(こげお)の横にすとんと腰掛けた。
それからルークはキッチンに立ち、いつものようにお茶を淹れてくれる。なんだか一瞬剣呑な空気を感じたけれど、気のせいだったみたいで良かった。
お茶はちょうどいい温かさの、優しい香りのものだった。飲むと喉やおなかがほっとした。
「……アヤト」
ルークはお茶を飲む俺の目の前に跪くと、俺のことをじっと見守ったまま動かなかった。
その眉間には縦皺が寄り、若干不穏なオーラが滲み出ている?
俺はお茶を半分ほど飲んだところでそのことに気づき、そろりと顔を上げた。
や、やっぱり、ルークがなんだか不機嫌みたい?
「急に身体を壊したのには、何か訳があるのだろう。一体何があったのか、説明をしてくれ」
え、ええっ……と、……。
俺は焦って口籠りながら、無難な言葉を必死で探した。
ルークはあまり怒ったりしない男だけれど、そういえば俺の体調のこととなると異様に真剣になるのだった。
「……じ、じつは、大道芸を見たくて……」
奇術師のショーを見たくて人込みの中へ行った、ということを説明する。
「それで?」
「それで、えっと、見物料を払った」
ルークの険しい表情からは、こんな説明では全然納得していないことが見て取れる。
「そ、そしたら、握手をされて、……その、挨拶を、された」
「挨拶?」
ルークの眉間の皺がぐっと深まった。
「どんな」
ルークはソファの座面に両手を着いて身を乗り出し、己の身体で俺の身を囲うようにして問い詰めてくる。
そうされると俺はひどい圧力を感じて息が詰まった。逃れられない。翡翠の瞳が目の前にある。
「……口で、くちに……」
駄目。
と、その整った口元が動いた。
他人に触らせてはダメ。
(……ダメなことは、分かっている、けど)
俺は視線を泳がせてうつむいた。
俺だって、別に好きでキスをされたんじゃない。突然のことで不可抗力だった。まさかこんなふうに体調が悪くなるなんて思わなかったし。
「……心配だ……」
困ったような呟きが聞こえて、俺はそっと顔を上げた。
ルークは片手で前髪をかけ上げながら、困惑したように俺を見下ろす。
容の良い額や、男らしい綺麗な眉が露わになった。
その瞳には、艶やかで昏い熱のようなものが宿って、俺は瞬きをしながら、知らずに身体をたじろがせていた。
ひどく、美しいものを見たような気がして。
一瞬、別人のように見えた気がして。
目の前にいるこの男は、ルーク、だよな。
翡翠の瞳が、絡め捕るように俺を見つめる。
——今日は治癒をさせてもらう。
掠れたような囁きが聞こえた。
と同時に、その身体がさらに間合いを詰めてきて、俺は反射的に瞼を閉じた。
治癒をされる。キスを、される……。
唇がそっと重なってきた。
とても優しくて柔らかだ。
押し殺したような息遣いを感じる。
今回は、拒否や抵抗はしなかった。というか、できなかった。
治癒をされるのは、嫌じゃない。むしろ、そうされることを心のどこかで望んでいる自分がいたかもしれない。
上書をして欲しい。あの奇術師にされた痕跡を消してほしい。
唇は確かめるように、何度も触れて離れてを繰り返す。
触れた場所からは、ルークの魔力の熱がゆっくりと忍び込んでくる。俺の身体の内側を、熱は広がりながらじわじわと浸透してゆく。気持ちがいい。
唇はついばむような動きとなり、俺が抵抗しないと分かると、さらに深く重なろうとする。俺はどういたらいいか分からなくて、力を抜いたまま受け入れた。
そうされながら、「いい子だ」とでも言うように、何度も髪を撫でられた。髪だけじゃない、首筋や肩や腕にも、大きな手のひらが何度も這った。
途中、頬にヒヤリと冷たい感触がして、俺はピクッと身をすくめた。
ルークの雨に濡れたシャツが当たったのだった。雨に濡れたのに、ルークはまだ着替えていなかったようだった。俺のことばかり優先するから。
と思ったら、俺に治癒術を行いながら、ルークはもどかし気に己の濡れたシャツを脱ぎ始めた。脱いだシャツは無造作に床に投げ捨てる。
裸の肌からはルークの男らしい匂いを感じた。
唇を受けながら俺は思わずため息をついた。ルークの匂いが好きだと思う。いつの間にかすごく好きになっていた。
身体の中に纏わりついていた、吐き気や頭痛といった濁りが霧散してゆくのがわかる。
音を立てて啄まれ、時折熱を逃すようにして、頬や目元にも口づけを落とされた。
こんな風にされるのも、治癒術の一環なのだろうか。口づけを絶え間なく受けながら、ほんの少しだけ疑問に思う。
けれどすごく気持ちがいいから、もう少しこのままされていたい。
身体の中に余分な熱が溜まり始める。そろそろ終わりにしなければ、身体が変に反応してしまう。だけど、もう少し。
俺は身体の熱から気を反らしたくて、薄く瞼を開いて視線を逃した。
ルークの身体は綺麗な筋肉がついていて、男らしくて格好いい。
よく見るとその胸にも腹にも、傷跡が所々に刻まれていて、騎士ってこんなにも傷を負うものなのかと、少しだけ恐ろしく思う。
左の腰の腸骨の下、丁度ボトムスに隠れるか隠れないかのところには、紅い痣のようなものが見えた。
痣は何かの形に似ているような気がした。なんだろう。
六角形? みたいな。
たしか、物語の中で読んだことがあるような気がする。
六角形の紅い痣。
そうだ。思い出した。
『勇者の証』に似ているんだ。
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