第17話 治癒をするのは
「アヤト」
シャワーを終えたルークが、果実水の入ったグラスを俺に差し出してくれる。綺麗なシトロン色の果実水だ。
お礼を言って俺がグラスを受け取ると、ルークは自分のぶんのグラスを片手に、ソファの隣に少し間をあけて腰掛けた。
このシトロン色の果実水は、ほのかな甘みと爽やかな酸味が特徴で、シャワーのあとによくルークが作ってくれる。作り方は簡単で、シトロンの原液を水で薄めるだけだから自分でも作ろうと思えば作れるけれど、ルークが作ってくれる果実水のほうが、自分で作るのよりもなぜか美味しいから好きだ。
ゴクゴク飲んで息を吐く。お腹の中が温まってほんのり頬が熱くなったから、少しアルコールが入っていたのかもしれない。
「……アヤト、目の下に隈があるな」
ルークが果実水を飲む手を止めて、心配そうに俺を見る。
「そうかな」
いっぱい寝ているつもりだけれど、まだ寝足りないのだろうか。
俺は空のグラスをテーブルに置いて、目の下をぐりぐり擦った。こうやってマッサージをすれば、ちょっとは隈が消えるんじゃないかな。
ルークは半分ほど残したグラスをテーブルに置くと、なぜだか急に俺の方に向き直るようにして座りなおした。互いの距離が少し近くなる。
「アヤト」
改まった様子で名前を呼ばれて、ソファに凭れていた俺は目の下をこする手を止めてルークを見上げた。
? 何だろう。
いつもよりも雰囲気が硬いような。
重たげな前髪の隙間から、翡翠の瞳が俺を見ている。あいかわらず綺麗な色の瞳だけれど。
「……なに?」
俺は無意識のうちに、身構えるように姿勢を直した。ルークの美しい瞳の奥底に、いつもと違う昏い熱のようなものが見えた気がしたからだ。気のせいかもしれないけれど、なんとなく、いつもよりも翡翠の色が深い気がして。
「……治癒をしよう」
抑揚を抑えたような声で言う。
……治癒。回復魔法のことか。
俺はルークを見上げて固まったまま、首を振った。
「いい。大丈夫だよ。どこも怪我をしていないし、熱もないし」
魔力による回復術をしてもらうのは、体調が良くなってとてもありがたい反面、妙な熱が身体に溜まって困るという難点がある。だから最近ではなるべく回復魔法は断るようにしている。
ルークはちょっと過保護なところがあって、指にトゲが刺さったとか、牛乳でお腹を壊したぐらいのことで「治癒をしようか」と言ってくる。あまり迷惑を掛けたくないし、そんな程度の不調で治癒をしてもらっていては、逆に身体がなまりそうだ。
だけど今回は本気で治癒術をする気でいるのか、俺が断ったのに、ルークは引き下がろうとしない。
「でも、疲れているだろう」
真剣な表情の中に憂うような陰を滲ませ俺を見てくる。断りきれない圧のようなものがある。
「……」
こうして見ると、ルークの身体はとてもでかい。
騎士をしていて、普段から鍛えているのだし、戦いの訓練とかもしているだろうから、当たり前といえば当たり前だけど。俺の貧弱な身体なんか、その気になれば簡単に捻じ伏せてしまえそうだ。
いつの間にかルークの身体がとても近くて戸惑いを感じる。
「俺、そんなに疲れてないよ。治癒をしてもらうほどじゃ、ない」
治癒をしてもらうのは、本当はキライじゃない。
キライじゃないけど、治癒をしてもらうと俺の身体は本当に気持ちが良くなって、良くなりすぎて困るのだ。身体の中が熱くなって、ぼーっとして、変になりそうなことがあるから。
俺はルークの瞳から逃れるように目線を俯けた。
食い入るような眼差しを感じる。なんだか緊張して鼓動が速まる。
今は身体が触れそうで触れない距離にいる。逃げ出したいような気もするけれど、離れたくはない、というか。離れられない。
抗いがたい、強烈な吸引力を感じる。ルークの身体に、甘く惹き寄せられている。
……なんだこれ。怖い。
「……治癒を恐れる必要はない」
ルークの声がゆっくりとした言葉を紡ぎ、耳朶に沁み込む。
「能力を使いすぎた状態でいると、消耗するんだ。消耗した部分は補わないと心身の健康を損なう。治癒はアヤトを健康に導く行為だ」
「……」
そういえば、神殿で働くようになってから、疲労や眠気を強く感じるようになった。
俺は知らないうちに能力を使いすぎていたのだろうか。少ない魔力で頑張りすぎて、いろいろと消耗していたのだろうか。
「目を閉じて」
掠れた低い声に言われて、俺は無意識のうちに目蓋を閉じた。拒むのはとても困難なことに思えた。
訪れた真っ暗闇の意識の中で、ルークの気配だけが濃密だ。
呼吸がどうしても乱れてしまう。治癒をしてもらう時はいつもこうなる。これから起こることを予期して、体が強張る。
「……っ」
唇に柔らかいものが触れた。
優しくて柔らかないつもの感触。
でも今回は、触れるだけでは終わらなかった。丁寧にそっと、啄むように動かされた。
「んっ」
思わず肩がピクリと跳ねた。
身体がぐらつきそうになるのを、ルークの両手が押さえ込むようにして支えてくれる。
身体の内側が熱くなって、甘美ともいえる感覚に支配された。与えられた魔力の熱が浸透してゆく。
ドクンドクンという、己の心臓の音がうるさい。
濃密だった気配が離れて、治癒行為が終ったのだと分かった。
呼吸はなかなか落ち着かないけど、取り敢えず、あとはこの感覚が治まってゆくのを待つだけだ。
涙で潤んでしまいそうな目を開けると、思ったよりも至近距離にルークの身体があって、翡翠色の瞳が俺を見ている。
「……もう一度、する?」
聞かれて、俺は乱れた呼吸のままぶんぶんと首を振った。
もう一度だなんてとんでもない。呼吸も心臓も乱れすぎていて持たないというのに。
するとルークは、一旦逡巡するように唇を閉じ、それから、わずかに求めるような眼差しを俺に向けてきた。
「俺は、治癒をしたほうが、アヤトの魔力を感じられて身体が楽だ」
「……?」
どういうこと?
俺は、言われた意味を頭の中でゆっくりと反芻した。
……治癒をした方が、俺の魔力を、感じる? 体が、楽?
今まで、治癒をされる時は、自分のことにしか意識がいっていなかったけど。
治癒行為によってルークも元気になるというのか? 俺の魔力がルークの身体に良い影響を及ぼすと……?
……手を繋ぐのと同じような作用だろうか。或いは、それよりも効果が高いのか……?
「わ、わかった。じゃあ、もう一回、だけ」
俺がそう言うと、ルークの瞳に艶やかな煌めきのようなものが増した。日に焼けた喉仏が大きく上下するのが見えた。
俺は慌てて身構えて目を瞑った。
治癒がどのようにして行われるのかは知らない。けれど、今まで通り目を閉じていた方が、怖くないと思うんだ。
治癒をされると身体が高揚するように熱くなり、疲労が取れて楽になる。けれど、奇妙に甘い疼きのようなものが溜まる。
だけどこの行為が、ルークの身体に良い影響を及ぼすというのなら。もう一度くらいならば、この感覚に耐えられないこともない。
「……」
「……んっ……」
お互いの、苦しいような吐息を残して治癒は終った。
俺は目を開くと、ルークの腕を押しのけるようにして、すぐさま席を立ってソファを離れた。
呼吸は最大限に乱れているし、脚も若干ふらつくけれど。
「じゃあ俺、寝るね。ありがとうっ」
自分の部屋へと大急ぎで引っ込んだ。
治癒をされると、やっぱり身体が妙になるから。困る。
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