第7話 ルークと暮らし始めた頃のこと
ルークと暮らし始めたばかりの頃、俺はよく微熱を出していた。
寝つきが悪かったり、なんだか食欲がなかったりして、一日中ぼーっと過ごすことが多かった。宿屋で働いていた時よりはましだけど、体調はいまいち低空飛行ぎみだった。
心配したルークが医者を呼んでくれたけれど、医者には「疲れでしょう」としか言われなかった。昼間はソファーやベッドでぐったり過ごし、夜は何度か目が覚める。
少し食べてトイレに行って、あとはぼんやりするだけの日々。
ある時、さすがに自分でもこれでは駄目だと思い至り、散歩をしようと思い立った。
十分ほど歩いた先にある公園へと足を運んでみる。ルークに連れられて行ったことのある場所だから、迷子にはならない。
のんびりと外を歩くのは心地がよかった。公園は広々として、若草の匂いと、どこかから漂ってくる花の香りに癒される。時折吹くそよ風は清々しく、空には雲がのんびりと浮かぶ。
俺は公園の隅に丁度良い高さの石積みの段差を見つけて腰を下ろし、足元の小さな花や、散歩する人、徐々に暮れていく空を眺めた。
夕暮れに染まる空の赤さは、元いた世界と変わらない。
親と一緒に手を繋いで見た夕焼けや、部活帰りに自転車をこぎながら眺めた夕日の記憶と同じ。けれど元の世界での思い出は、最近では靄がかかったようにあやふやだ。所々思い出せない部分もあった。
どんどん忘れていくんだろうな。
なんだか感傷的な気分になってため息が出る。
ていうか、なんで俺ってこの世界で生きているんだっけ。
吸い込まれそうに美しいオレンジ色の世界の中で、自分の存在さえもぼやけて透けて、なんだか曖昧に消えてしまいそうな不安に駆られた。
「アヤト!」
突然リアルに名前を呼ばれて、俺はびくりと声のするほうを振り返った。
公園の小路の向こうから俺を呼ぶのは、騎士の姿をしたルークだった。
ルークは俺の姿を捉えると、早足でずんずんこちらへ近づいて来る。
それで俺はハッとして、ルークとの約束を思い出した。
『出かけても良いが、夕方の六時までには帰ること』
さきほどまで眺めていた夕日は、いつの間にか街並みの向こうに消えようとしており、もしかしたらとっくに六時を回っているのかもしれなかった。
俺は急いで立ち上がり、近づいて来る騎士にあわてて謝った。
「ご、ごめんなさい、俺、ぼんやりしててっ」
騎士の表情はよく分からない。
あまり笑ったり喋ったりする男ではない。難しげな顔をすることが多くて、何を考えているのか読みにくい。
もしかしたら、怒っているのかもしれない。
来て早々、簡単な約束でさえ守れない俺にイラついているのかもしれない。
気が付くと俺は冷や汗をかいていて、変に強張る身体で身構えの体勢を取っていた。
宿屋で働いていた時は、殴られる瞬間はいつも身構えないといけなかった。
そうしないと身体が吹っ飛んでしまうし、殴られた場所が余計に痛むような気がするからだ。常に警戒し、緊張しながら働いていた。それに、警戒すべき相手は上司だけじゃなかった。理不尽な嫌がらせをしてくる者はどこにでもいた。自分を守ってくれるのは、自分だけしかいなかった。
俺の上着の内ポケットには、いつだって護身用のナイフが忍ばせてある。
「アヤトッ」
俺が後ずさるよりも先に、接近したルークの両手がすばやく俺の両手首を捕まえた。
「無事でよかった……」
ルークは脱力するようにそう呟くと、その場に崩れるようにして跪いた。
どうやら怒っているわけではなさそうだ。
俺は若干戸惑いながら、目の前で項垂れる騎士を眺めた。
そんなに心配してくれていたとは。もしかして、そこらじゅうを探し回ってくれたのか?
やがてルークは顔を上げ、真剣な、どこか切なげな瞳で俺を見つめた。
「……そのうちちゃんと自由にする」
掠れるような声で言う。
「好きな場所へ行っていいし、何不自由なく暮らせるように支援する。だけど今は傍に……、どこかへ行ったりしないでくれ……」
前髪が乱れて、滅多に覗くことのない翡翠の瞳がはっきり見えた。まっすぐで美しい、とても真摯な眼差しだ。
「……う、うん」
俺は気圧されるようにして頷いた。
「わかった」
そうしないと、この騎士はいつまでも俺をその瞳で見つめるのだろうと思えた。
ルークは立ち上がると、「暗くなる前に帰ろう」と言う。
たしかに、夜が来ると気温が急激に下がるので、早く帰った方が良さそうだ。
言われるのに従い、ルークと一緒にアパートへ帰る。ふたりで無言で並んで歩いた。
問題なのは、ルークの右手が俺の左手を握ったままだということだった。つまり、大の男ふたりで、手を繋いだまま歩いているのだ。
別に手なんか繋がなくても、俺は逃げないし、迷子になったりもしないのに。そう思うけれど、振りほどくのも変な気がして、大人しく繋がれたままにする。
薄昏の道はすれ違う人もまばらだった。皆それぞれに、帰るべき家を目指しているのだろう。
頬を吹き過ぎる風が徐々に冷たいものへと変わる。
ルークは時おり「寒くないか」と問うてくる。俺は「ううん」と返事した。ちゃんと上着を着ているし、これぐらいならまだ平気だ。
ルークの大きな手は温かだった。意外としっかりとした力で握られている。歩くのがとてもゆっくりだから、もしかしたら俺の歩調に合わせてくれているのかもしれなかった。
「……ルークは、どうして俺を身請けしたの?」
俺は、この際だと思って、ずっと気になっていたことを尋ねた。
こんな貧相な身体の、魔力もほとんど持たない魅力のない自分を、どうしてこの騎士が引き取ったのか、常々疑問だったのだ。性的な捌け口にでもにするのかと思ったけれど、どうもそんな感じではない。
表向きは「仮専属」ということになっているけど、俺のような転移者で魔力値の低い者が、騎士の「専属相手」になるなんて本当はありえない。身請けをした本当の理由が何かあるんじゃないかと思う。
「……身請け?」
不意にルークは立ち止まり、驚いた様子で俺を見た。
俺が頷いて見上げる先で、ルークは愕然としたように固まって、それから「ちがう」と珍しく大きな声を出した。
「身請けじゃない。アヤトは『専属』だ。……身請けって、そんな風に聞いていたのか?」
「え、と、宿の人が言っていたから」
するとルークは額に手をやり、はぁー、と大きなため息を吐いた。少しの間、疲れたように立ち尽くし、だがすぐに、再び俺の手を引いて歩き始める。
「……俺はアヤトを、大事な仲間だと思っている」
前を見据えて歩きながら、ルークははっきりとそう言った。
――仲間。
なかま、と、俺は口の中で反芻してみた。
それは、味方、とか、同志、とかと同じ意味あいの言葉だろうか。
なかなか悪くない響きだと思う。
「もし、俺が、アヤトに何か愚悪なことをしようとしたら、」
不意にルークは俺を見つめて、至極真面目な口調で言った。
「迷わずナイフで刺してくれ」
それが、あまりにも真剣な様子だったので、
「刺さないよ」
俺は思わず笑ってしまった。
そんな風に言ってくる人を初めて見た。悪いことをする人は、普通そんなことを言わない。
「いやいいんだ。本当に、グサッとやってくれればいいんだ」
重ねて言ってくるから、ふははっ、と声に出して笑ってしまった。
ルークは俺が笑うのを見ると、少し安堵したように前を向いた。
もうすぐアパートの建物が見えてくる。
近隣住人らしき人とすれ違うようになり、いつまで手を繋いでいるのかなと俺がそわそわする頃に、ようやくルークはそっと左手を放してくれた。
部屋へと向かう階段を上る。
途中、ルークが急に足を止め、どこか思い詰めたように俺を見るから、どうしたのかなと思ったら、
「ずっと怖い思いをさせていたよな。すまなかった」
少し掠れた、でもはっきりと聞こえる声で、どこか哀しげに、ルークはそう言って俺に謝ったのだった。
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