特別編

春がくれた出会い(前編)

※こちらのエピソードは本田先生視点です



 どうしてこんなことになってるんだろうか。


「好きです。お付き合いを申し込みたいのですが」


 目の前の女性と私は、当然面識なんてない。

 すれ違いざまにぶつかってしまって、手に持ったスマホがはずみで落ちて、女性がすみませんと親切に拾い上げてくれた。


 そこからどうして、愛の告白を受ける展開につながってしまったのだろうか。


「……あの、」


 私たち、初対面ですよね。

 背後の踏切で電車が通り過ぎたタイミングで、やっとそれだけを声にする。


「いぇす。一目惚れってやつです」


 臆面もなく言い切って、女性は顔の横でピースサインを作る。

 正直、ナンパの常套句だろうとこのときは疑っていた。


 アッシュグレーに染めた女性の髪が夜風に吹かれ、街灯の明かりできらきらとなびく。


 彼女の第一印象は派手な出で立ちで、まず肩がむき出しのオフショルダーニットというのがいかにもそれっぽい。

 腿まで見えるスカート丈がなお、ギャルコーデを強調している。寒くないのだろうか。


 それに初対面の人間を相手にして、これだけ軽妙な調子で話せる人は滅多にいないだろう。

 こういうの慣れてるんだろうな、と思わせるには十分だった。



 話はちょっと前にさかのぼる。

 3月も末となった春の夜。アパートの自室で私は独り、ぼーっとベッドに腰掛けていた。


 中途半端にお腹が空いてて寝付けない。

 夕飯は外食だったのに、あまり喉を通らなかったのが原因か。


「…………」


 なんとなく、風に当たりたくなってベランダに出た。気温も20度を超える日が増えてきたとはいえ、まだまだ夜間は冷え込みが強い。


 空腹が広がっていく胃への鈍痛と熱さを少しでも紛らわすため、すーっと深夜の空気を肺に取り込む。

 寝静まった街の上空、誰もいないステージを照らす灯りのように。少し欠けた月の光だけが、強い輝きを放っている。


 はあ、虚しい。

 こんな夜更けになにやってんだろうか。明日から月曜日なのに。

 寝付けないのは、時期も関係しているかもしれない。春は寂しい季節だって、私は思う。


 空腹の身体が、まとわりつく倦怠感が、日増しに温かくなっていく気候が、開花を告げる桜前線が、あちこちで新生活を応援する広告が、いっそう寂寥感を膨れ上がらせていく。


 進めない私を置いて、日常は新たな季節に芽吹いていく。

 私の春は、今だ遠いのに。


 初恋は実らないというけれど、一体いつになれば私の恋は実るのだろう。


「くしゅっ」

 センチメンタルムードはくしゃみによってかき消される。

 パジャマと裸足という舐めた格好でベランダにいたもんだから、ただ無駄に身体を冷やしただけに終わった。


 エアコンの効いた室内に戻って、今更靴下を履き上着を羽織った。ストーブも点けた。

 目が冴えてるんだから、この際残業をやってしまおうか。眠くなるまで。


 電気スタンドのスイッチを入れて、机に向かう。


 端っこに飾られた小さなおもちゃが目に入る。普通ならインテリアにもならず、即座に処分している代物。

 だけどそれは、『あの人』との最後の思い出の品だから。未練がましく、私は捨てられずにいた。

 それどころか、辛くなるだけって解っているのにこうして机に飾っている。


 日野さん、久々に会ったけどあんまり変わってなかったな。


 今日の夕飯は、珍しくファミレスで済ませた。

 というのも、以前副担任を勤めていたクラスの子たちの卒業パーティーだったから。


 日野さんは当時、クラス担任だったため間違いなく出席するだろう。彼女と過去にいろいろあった立場である私としては、正直気が進まなかった。

 だけど今は、私は別の学校にいるのだし。生徒たちを私情でないがしろにはできない。


 ご飯と生徒との歓談のためって割り切って行ったはずなのに、こうして帰ってからも私はうじうじ想いをこじらせている。

 他でもない、自分のせいで。


 今思い出しても恥ずかしい。なんで、最後の機会で私は見栄を張ってしまったんだろう。

 ノリのいい生徒が『先生たちは恋人いるんですかー?』なんて振ってきたものだから、私はとっさに『いますよ』なんて言ってしまった。


 日野さんもいる手前、いませんなんて言ったらまだ引きずってるのかって気を遣わせてしまいそうだから。


 それから日野さんに話題が回ってきて、彼女は『まぁ、ねえ』なんて照れくさそうに頬を掻いていた。

 その仕草は誰がどう見ても、私のようにとっさの嘘をついたような態度には見えなかった。

 西園寺先生がからかうと、日野さんは頬をゆでだこみたいに真っ赤に染めてわーわーと手を振り乱していた。


 私の知らない、かつての想い人の表情。

 いつかは訪れる結末だって、覚悟していたことなのに。


『教員ですと、なかなかプライベートの時間が取れませんよねー……』


 日野さんは私に相手が出来たことを心の底から応援してくれて、仲間意識から恋バナをたくさん振ってくれた。

 たくさん嘘をついた。

 恋人ができて惚気けている自分を演じる私の前で、日野さんは本物の恋する乙女の顔で会話に応じてくれていた。


 優しい地獄が、そこにあった。


「私の馬鹿」


 独りごちて、かたかたとキーボードを叩く。

 自分が浅はかで、みじめすぎて嫌になる。

 前に進むべき足を傷つけて、いつまでも同じ場所に留まろうとしている。


 学生時代はもっとひどくて、失恋のたびに穴に潜って引っ張り出してくる相手が現れるのを待っていた。

 さすがに恋煩いで欠席してた頃よりはマシになったものの、同年代の大人はもっと割り切って出会いと別れを繰り返している。


 恋愛ってそういうものだって、いつになったら心は夢見る少女時代から切り替わってくれるのだろうか。



 翌日。いつも通り仕事を終えて帰宅した私は、スマホからひとつのアプリを呼び出した。

 政府主導のマッチングアプリである、”恋愛希望調査”を。


 かつての想い人にも寄り添う相手ができたのだし。私もいい加減、次に切り替えるべきなのだ。相手はいくらでも探せる。

 行動しなければ、分岐する無数の道すら見つけることはできないのだから。


「…………」


 でも。プロフィールを更新して、近しい条件の相手を絞ってめぼしい人を見つけたのに。メッセージボタンに指が届かない。


 また、実らなかったらどうしようって。

 失敗体験の積み重ねが、意思に鎖を巻き付けためらっている。


 断られたら怖い。

 楽しかった時間が無駄になるのが怖い。


 子供ははっきりと好き嫌いを顔と態度に出してくるが、大人は愛想笑いで期待をもたせてくるぶん残酷だ。

 まるで面接時は話が弾んだのに、後日ばっさり不採用通知を突きつける就活のように。


 ようは、もう傷つくのを覚悟で恋をしたくないのだ。

 だけどこの喪失感は、きっと新しい恋によってしか埋まることができないのだろう。


 私は、弱い。

 独りで生きていくことも、失敗を恐れず次の恋に踏み出すこともできやしない。

 指先ひとつでつながれる接点を、せっかく国がお膳立てしてくれているのに断ち切ろうとしている。


 結局勇気が出ずに、私はアプリを閉じてしまった。

 不甲斐ない自分から逃げるように、バッグをひっつかむと私は外へ向かった。

 目的地も用事もないのに。ただ気の済むまで歩き回って、頭を冷やすために。


 そして、いつも通る踏切を渡りきったところで。

 私は思いもよらぬ、出会いとすれ違ったのだ。



「で、その……私の聞き間違えじゃなければ一目惚れって聞こえたのですが」

「まじっす。もう顔が好みドンピシャで。これ運命じゃんって先走っちゃったと言いますか。ここで声かけなかったら一生後悔すると思ったんで」

「それはどうも……」


 女性は胸の前でお祈りポーズを組むと、上下に頭と眼球を揺らした。

 『いい……』って心の声が漏れてるんですけど。好みという言葉は本当らしい。


 仮にナンパだとしても、すごい度胸の持ち主だ。

 今はもう、”恋愛希望調査”で相手を探す時代だから。個人情報は正確に登録するため、顔写真や生年月日、配偶者の有無を偽ることはできない。


 この手のマッチングアプリで懸念されていた『ヤリモクで登録する既婚者』もシステム上不可能なため、安心安全に探すことができる。


 ナンパの場合は恋人の有無や性的指向、性愛対象を聞いてからじゃないと狩りに出られないため効率が悪い。

 手当たり次第、相手に声をかける時代は終わったのだ。


「改めてお聞きしますが、おねーさん今フリー?」

「……普通はそれを最初に聞くものだと思うのですが」

「んー、先に聞いたら警戒して逃げられちゃうかなって。あなたが好きです、のがインパクトあると思って言っちゃいましたー」


 けけけ、と立ち止まっている私を狙いすましたように女性は笑う。

 確かに目論見通り、私は律儀に立ち話に付き合っているのだから。お人好しにもほどがあるだろう。


「…………」

 で、恋人の有無か。

 いる、ってはったりをかましたらこの女性はなんと返すのだろう。

 ナンパならしつこく食い下がるだろうけど、もし本当に勇気ある乙女の方であったら。


「それでさきほどの答えですが……独身です」

「おぉ、まじっすか。取られる前に行動した甲斐がありましたなー」


 そして、バカ正直に私は答える。

 ほんと、初対面の相手にここまで打ち明けるのは我ながらどうかしている。


 だけどまた、虚しくなるだけの嘘を塗り固めたくなかった。

 もしも本気の想いで呼び止めているとしたら、彼女を傷つける結果になってしまう。

 少し前に本気の恋を経験した身としては、どうしても無下にはできなかった。


「んじゃ、無事フリーってことが確認できたんで。立ち話もなんですし、そこのファミレスでお茶でもしませんかね。もちろんおごりまっせ」


 ささ、と女性は手を差し出した。

 もう手をつなぎたいってことなのかしら。声掛け慣れしているだけあって、気も速い。


 さて、どうしよう。

 独身ということは伝えたけど、正直に言えば女性は私の好みとは外れていた。


 女性は私の迷いを看破してか、こちらに腕を伸ばしたまま固まっている。考える時間をくれているように。


 ……街中でナンパ。上も下もゆるい人や、ワンナイト目的の人くらいしか成功しないような確率だ。

 目の前の女性が本気か遊びなのか、まだ私には判別がつかない。

 他の人に聞けば9割方『やめておけ』って注意するだろう。


 でも、たまには振り回されてみるのも悪くないかなって、私の中にある好奇心が顔を出した。


「構いませんが、割り勘で結構ですよ」

「え? いいんですか?」

「誘ったのはあなたでしょう?」

「そうですけど。やー、おねーさんほんといいひとっすねー」


 かくして私は、まだ名前も知らぬ女性の手を取った。

 アプリは簡単に探せるけど、婚活というルールの名のもとに行動する。

 デートの約束を取り付け、話題を吟味し、デートスポットを下見する。

 そういった小難しい段取りにはもう疲れたのだ。


 かつて、日野さんが言ったように。駆け引きを考えずに、シンプルに恋愛がしたい。

 このご時世にアプリも使わず突貫した目の前の女性に、私は少しずつ興味を惹かれていた。


「先に名乗っておきましょうか。私は本田と申します」

「本田さんっすね。りょーかいです。あ、申し遅れましたがわたくし岡村おかむらです。以後よしなに」

「オカムラさん、ね。かしこまりました」


 人生、本当に何が起きるかわからない。

 出会いの季節という言葉通り、彼女との時間はここから始まったのであった。

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