弱まる雨脚

 薄暗い玄関にわたしは立ち尽くしていた。

 同居人のヒールの音はとっくに遠ざかって、強い雨音だけが耳を打ち鳴らしている。


 こもっていた梅雨の湿っぽい匂いは、アロマオイルの香気に塗りつぶされたまま。

 日野の部屋を訪れるといつも漂っていた、ラベンダーの爽やかな芳香。まだ、鼻孔に残っている。


 当然か。

 さっきまで、抱きついていたのだから。


「…………」


 己の行動を思い返して、ドアへと寄りかかり額をくっつける。

 何、やってんだか。

 無機質な冷たさが沁みて、のぼせた体温に融けていく。


 着てほしい服、やってほしい髪型、もとの顔立ちがさらに映えるメイク。

 好み全開の着せ替え人形となった日野を目の前にして、自制が効かなくなった。

 戻れない距離まで密着して、もっと醜いエゴをぶつけてしまうところだった。


 デートのおめかしのお手伝いをすると申し出ておいて、未練たらたらじゃないか。

 どうせ叶わない想いなら、先に唇だけでも奪ってしまえって。最低の発想だ。


 養子として傍にいるんだって、決めたはずなのに。


「人間って余分なものが多すぎるよね」


 自戒をつぶやきつつ、今日の分の水をサツキの盆栽へと注いでいく。


 繁殖のためだけに生まれ、生きる。

 疑問を持たず、苦悩せず。ただ有りのままにそこに在る植物が羨ましいと思った。だいぶ葉が伸びてきたから、そろそろ剪定の時期かな。


 自分好みに飾り立てるのは、植物で十分なのだから。



「いらっしゃいませー」


 今日はお祭り初日。

 駅に近いここのモールは、祭りに便乗して外の広場で露店を開くらしい。

 スタッフは各店舗の従業員から駆り出されるため、うちからも2名ほど現場で作業している。


「ごゆっくりどうぞー」


 昼過ぎになって、店内の客の密度は増していた。

 外はどしゃ降りの雨だというのに、浴衣とか風船とかお面とか、祭りを意識した装いで訪れる人の群れはますます増えていく。

 伝票はひっきりなしに吐き出され、渡す番号札も残り少ない。


「露店出張のがマシだったわ……」


 隣でアスカがぼやき、茹で上がった麺をちゃっちゃと湯切りしていく。


 ここのフードコートエリアは複数の店舗が入ってるとはいえ、安価で調理も早いバーガー店かうちみたいな麺類の店に集中しがちだ。

 お向かいの閑古鳥が鳴くステーキ屋さんにも入ってやってよ。店員ヒマそうにしてんだから。


「こんな雨なのになんでここまで密なわけ?」

「露店は全部、屋台テントに覆われてるからな。ちゃっかり下の食品売り場で、祭り意識したパック詰めのメシ売ってるっしょ。だから屋台にわざわざ並ぶよりも楽なわけ。てわけで、祭り会場より手軽に食い物買えるこっちに人が流れているというオチ」


「んじゃ、外は何売ってるの?」

「水風船とか金魚とかお面。完売したら撤収してそのまま現地解散。うちらは閉店まで麺上げるだけのマシーンだけどな」

「それまでここも具材持つかねぇ」

「持つよ。だって切れたら買いに行けばいいだけだから」


 アスカが人でごった返す客席に視線を向けて、露骨に肩を落とす。

 うへぇと息を吐いて同調したけど、実際そこまでわたしは仕事が苦ではない。


 だって、休む間もなく働いている間は。余計なことを考えずに済むから。


 今頃郊外のモールに着いているはずの日野を思い出したところで、『冷やし2個入りましたー』というレジスタッフの声にかき消される。


「今日、ひんやりしてんのに冷やしの注文多くね? これ調理まで5分以上かかるからずっと伝票が片付かないんだけど」

「そりゃ、この人混みだもの。お客さんからすりゃ暑いんだよ」


 冷蔵庫で冷やした大皿へと麺を移し、わたしは10個近くにおよぶタッパーからひとつひとつ、具をつまんではレシピ通りに並べていく。


 錦糸卵、海老、中華クラゲ、細切りハム。冷やし中華を構成する具材を、花びらのように盛り付けて。

 あ、そろそろキュウリがなくなる頃だ。合間にさっと刻んでタッパーをいっぱいにしないと……


「そういえば」

 冷やし中華の提供を終えて厨房に戻ったところで、アスカが耳打ちしてきた。


「お前、あれから日野さんとは上手くやってんの?」

「うん、まあ」

「どれくらい?」

「いずれ養子になるくらいには」


 役割を納得させるように、固い声に乗せる。

 アスカはわたしのクソほど荒れてた時代を知ってるから、日野が手を焼いていないか探りを入れているのであろう。


「いい子にしてんのか?」

「しなきゃ駄目でしょ」

「前にそれでしんどいって愚痴こぼしたのは、どこの誰だっけ?」


 にたにたいやらしく笑って、アスカは下げ台の片付けに回った。

 あのときとは状況が違う。なんとも思ってなかった頃だし。


 わたしの黒歴史を知らない人と同居して、いい子に振る舞わなければ優しくしてくれないと不安を覚えていた。

 悪い子でも受け入れてくれるのかなって、日野を試そうとして。


 アスカにそりゃ里親という責任を背負って、向き合おうとしている人を傷つける行為だぞと怒られて。

 自己肯定感の低さは、他人になんとかしてもらうものではないと気づいた。


 あれから、わたしと日野は少しずつ信頼関係的なものを築けていたはずだ。

 あとは。家族になりたいという、お互いの気持ちが一致すれば解決する心の問題だ。目指す方向がちょっとずれているだけで。


 わたしが、未練を捨てれば済む話なのだ。


「仲がいい基準ってのは、ちゃんと意見を言い合える間柄なのかってことか気になってね」


 違う言葉に置き換えられると、少し返答に詰まってしまう。

 話し合いができる関係。

 少なくとも前まではできていた、はずだ。


 日野の初授業で気まずい空気になった際に、ここで腹を割って互いに主張しつつ、相互理解で着地点を見つけた。


 それが、今も持続していると聞かれれば、答えられなかった。


「そりゃいい関係を築くのに衝突はしないに越したことはないけど、”自分さえ我慢すればいい”は大間違いだからな。不満を本人じゃなく他人にぶつけるやつは、もっと論外だよ」


 いずれ家族になろうとしてんなら、尚更だよ。

 まるでわたしが抱えている心の闇を見透かしたように。

 自分に愚痴る前に日野とちゃんと話し合えと、アスカは優しい言葉で突き放す。


「分かった風に言って、」

「分かるよ。おめーとの付き合いは今んとこ里親より長いんだし。ほんとに上手く行ってたら、今頃マウント取ってくるだろ、アキ。ドヤ顔でいいだろーって」


 エスパーか、こいつ。自分でも無自覚だった行動パターンを先読みされて、かっと臓腑が熱くなる。

 物理的だけじゃなく舌戦でも勝てないのか、わたし。


「顔に出やすいんだよ、アキ。近頃シフトやたら多く入れるようになったのも、無理してるように見えんだよ」


 背中をべしべし叩いて、言いたいことだけ言い切るとアスカはカウンターに向かっていってしまった。


 わたし、そんなに思い詰めた顔だったのか?

 もやもやは晴れないまま、バイトの時間は過ぎていってしまった。



「おつかれー」


 モールの閉店時間になって、退勤処理を終えて。

 お祭り自体は11時近くまでやっているということで、約束通りわたしは山葉さんたちと駅前周辺を歩くことにした。


 天候は小雨へと落ち着き、傘なしでもなんとか歩けるくらいには回復している。

 案の定、夜遅くということもあり屋台はほとんどが撤収作業に周っていた。


 あとはメインイベントとなる、町内を曳き廻していた提灯山車が駅前に集うお披露目会を残すのみとなった。


「これ、買っといたから。お腹空いてるよね」

「まかない食べたからそこまでは」


 でも、日野は食べたいって言うだろうか。お言葉に甘えて、まだ温かい焼きそばのパックを受け取る。


「外、雨ですごかったでしょ。ふたりとも大丈夫だった?」

「うん。山葉さんちのベランダで眺めてたよ。ご飯はここで買ったし」

「高みの見物です」


 山葉さんが得意そうに胸を張って、駅のすぐ近くにそびえ立つマンションを指差す。

 ええ、山葉さんあそこに住んでるんだ。混雑に関係なく毎年お祭りが間近で見れるっていいなあ。


「最終日は出くわさないように昼間だけの参加にするから、ごゆっくりぃ」

「朗報です。その日の夜は晴れるそうですよ」


 謎の気遣いをいただき、浴衣姿に着替えたふたりが顔を見合わせ忍び笑う。


「ちゃんと約束取り付けたんだよね?」

「うん……」


 した、けど。

 もうそれは距離を縮める恋愛イベントではなく、家族として仲を深めるふれあいだ。

 こんなに応援してくれているのに、諦めたなんて言ったらがっかりさせちゃうだろうな。


 アスカにはちゃんと話し合えと遠回しに釘を刺され、ふたりには成就しますようにと陰ながら応援をいただいて。


 わたしは、どの方向に向かえばいい?

 単なる悩み相談であれば、他人を介するまでもなく日野に打ち明けられた。

 だけど、これは。

 YOU言っちゃいなYOと気軽に特攻できる話題ではない。


 優しくされるのは怖い、見捨てられるのはもっと怖い。

 そして現状は、可能性なんて想像できないほど不利だ。

 結果が見えていても進むのか、見えているからこそ引くのか。


「三井さん」


 あなたは、どうして告白することができたの?

 失恋から、どうして立ち直ることができたの?


 少しでも勇気がほしくて、わたしは勇気ある先人を引き止める。

 内容が内容なので、人混みの少ない路地裏へと移動して。


「告白のこと? そうだねぇ」

 たこ焼きをかじりつつ、懐かしむように三井さんは思い出を話してくれた。


「そいつとは家が近所で、いわゆる幼なじみだったんだ。物心ついたときから一緒で、友達通り越して家族みたいなもんだった。てか、家族ぐるみの付き合いだった」

「それだけ近い関係でしたら、告白もためらったでしょう」


 今わたしが言おうとしていた台詞を、山葉さんが的確に述べる。

 立ち位置は異なるとはいえ、関係性は似通ったものがある。わたしはふんふんとうなずきつつ、次の言葉を待った。


「そうだねー、長い間葛藤したよ? うちらだけじゃなく親同士の仲もあるから、ヒビが入ったら気まずくなるだろって。ずっと性別を超えた心の友みたいな関係でいいじゃんって、何度も言い聞かせた。でも、割り切ろうとすればするほど、苦しかった。前みたいに心から楽しんで遊べなくなって、つらかった」


 当時のことを思い出したのか、途中から三井さんの声が鼻声にかすれていく。

 残りのたこ焼きを一気に頬張って、強引にお茶で流し込んで、三井さんは話を続けた。


「失恋する痛みよりも、本心を隠して仲良しこよしするほうが痛かったから。相手にも楽しくないのかって気を遣わせちゃうし、当たって砕けた。で、ほんとに砕けた」


 向こうは夏休みの間に彼女とっくに作ってて出遅れたんですけどねー、と三井さんは自虐的に笑う。


 その言葉から推測すると、もしかして夏休み前に行動していたら違った結果になったのでは? なんてわたしと山葉さんは顔を見合わせた。


「前みたいには戻れなくなったけど、言いたいこと言えたからすっきりはしたよ? しゃーないよね、好きになっちゃったんだから」

「すごいね、三井さんは」


 心から讃えて、三井さんの肩を叩く。

 告白できる人って、合否判定関係なく本当にすごいことだと思う。


 傷つくのが怖いのは、誰だって同じ。向こうから白馬の王子様や、積極的なお姫様が現れることを望む気持ちだってわかる。

 だけどその相手が、自分も好きになれるかどうかは分からない。


 どこかで妥協点を見つけるか、自力で理想の恋を勝ち取るか。どっちかしかないのだから。


「失恋する、本心を隠して仲良しこよしする。光岡さんはどっちが痛いと感じる?」


 自身の経験から、友人にも後悔してほしくないと三井さんはわたしへと問う。

 正直に言えば、どっちもだ。


 だけど、後者の場合は。今日みたいに危ない場面もあった。

 今日はギリギリ踏みとどまれたものの、このまま同居生活を続けていけばいつ爆発するかわからない。

 過ちを侵してから実は好きでしたでは、何もかもが遅いだろう。


 このままでは、わたしは今まで通り家族として振る舞える自信がない。

 揺らいで初めて、わたしはかつての三井さんと同じ位置に立とうとしていた。


「だったら、自分に正直になりなよ」


 まさか、自分で勝手に答えを出して諦めてるわけじゃないよね、と。

 少し挑発的な笑みで、三井さんは肩を肘でつつく。


「骨は拾ってあげますよ」

 山葉さんからも尻を叩かれ、彼女にしてはきつめの言葉に笑っているうちに。

 胸の内が、少し軽くなっていることに気づいた。


 もしかしたら、もう遅いのかもしれない。デートを許可した身ではあるのだから自業自得だけど。


 どのタイミングで言っても、結局は相手の気持ち次第だ。

 割り切れないことが感情でも行動でも自覚しているのであれば、進むしかないのだ。

 わたしが幸せになりたい道へと。


「うん、行ってくる」


 お礼を言って、その後はわいわい山車を見届けて。

 祭りが終わり、わたしは家路を急いだ。


 逸る気持ちを押さえて、水たまりを蹴飛ばし、髪が乱れるのも構わず。

 ただひとつの明かりを目指して駆ける。

 心に、ようやく身体が追いついたから。


 肌をしっとり濡らしていた小雨は、マンションに着く頃には止んでいた。

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