賽は投げられ、匙も投げた
少し、よそよそしかっただろうか。
参考書を開く手が止まり、ページの上に顔を伏せる。
避けているわけではなく、適切な距離感を保っているだけだ。
あんまりべたべたしすぎれば日野の迷惑になってしまうだろうし。
今、わたしがやるべきことは。次の期末に備えてこつこつ勉強すること。
日野と並び立つには、立派な大人に成長しない限りは単なる庇護対象から脱却できないだろう。
たとえ報われずとも、努力してきたことは絶対に無駄にならない。
必ず、新たな未来への一歩となるから。
そう言い聞かせて、滑りかけていた目を基礎問題から逸らさないように叩き込んでいく。
「彰子ー、いいかーい」
「どうぞ」
小一時間ほど経過したところで、おぼんを持った日野が入室してきた。香ばしい匂いとともに。
「徹夜だけはだめだぞー」
背後のローテーブルへと、日野は夜食を置いていく。氷がぎっしり入った麦茶のグラスと一緒に。
「え……こんなにいいの?」
ラップがけされたお皿には、いつもの海苔で巻いたおにぎりがふたつ。
加えて卵焼きとウインナーが添えられていた。
ふんわり巻かれた厚みのある黄金色と、ほどよく焼き目がついたパリパリの皮の輝き。
落ち着いていたと思っていた胃が急速に動き出して、熱々のうちにかぶりつきたくなる。
なんで、ただ焼いただけなのにこんなに美味しそうに作れるんだろう。
「余ったものは明日のお弁当に詰めればいいから。冷蔵庫の一番上の棚にあるよ」
「ありがと……」
でも、なんで今日は気合が入ってるんだ。わたしの誕生日でもないのに。
「もうすぐテストだしね。たくさん食べて力をつけるんだぞー」
がんばって、と親指を立てて日野は部屋を後にした。
少しどもっていたから、真意はべつのところにありそうだけど。
そのストレートな応援は、まっすぐわたしの心を射抜いていった。
思わず、手元の参考書をくしゃりと丸めそうになって。あわてて手汗でよれたページを直していく。
ちょれーな、わたし。
いつもの日課に、少しの変化が加わっただけで。もしかしたらと甘い期待に胸を膨らませてしまう己がいる。
そう勘違いしても仕方がないくらい、今日の日野はやたらと距離が近かった。
なんだろう。朝はなんともなかったのに。バイトに行っている間になにがあったんだろう。
って、また手が止まってる。いちいち乙女みたいな思考にトリップしてんじゃないよ。
余計な雑念を振り払い、わたしはふたたび参考書と向き直……る前に振り向いてテーブルにあった夜食へと手を伸ばした。
ごめん、この匂いにはあらがえないんだ。
それから7月も後半に差し掛かり、運命の期末テスト期間が過ぎていった。
最終日の今日は、苦手な数学Bと英語Ⅱ。
日本語以外の文面と連続で向き合ったおかげで、教室内は負けたチームの試合後みたいな死屍累々の光景が広がっていた。
みんな机に突っ伏したり、無念そうに天を仰いでいる。
「あー、終わったー」
一方わたしは、大きな達成感を胸にぐっと腕を伸ばした。ずっと同じ姿勢だったから背中からぽきぽきと音が鳴る。
中間よりも、もしかしたらできたかもしれない。
ゲームの二週目プレイのように、すいすい攻略チャートが浮かんできてシャーペンが捗ったときの快感は忘れられそうにない。
詰まる箇所ももちろんあったけど、何も攻略法が分からず真っ白になっていたあのときとは違う。
無記入から、考えて近しい答えをなんとか埋める程度にはレベルアップしているはずなのだから。
なるほど、これが成功体験の積み重ねなのか。
「あー……終わったー……」
台詞は同じでもまったくニュアンスが異なるぼやきと共に、前の席の三井さんが振り返る。
ゾンビみたいに腕をだらんと背もたれに垂らして。
「もうだめ、死んだ。なんで最終日が数式とアルファベットなんよ。暗黒の木曜日だよ」
「まだ問題文が日本語なだけマシよ」
ここは公立で、そんなに偏差値高くないとこだからね。
海外に出稼ぎに行く日本人も増えてきたことを考えると、やっぱり英語は覚えておいて損はない。
できるだけ普段から英文に慣れさせておこうということで、進学校なんかは日本語禁止の授業だったり英文オンリーのテスト問題も増えてきているらしい。
「にしてもまーだ梅雨明け宣言出ないんだ。今年梅雨長くない?」
勉強から逃げるように、三井さんが強引に話題を変えた。
彼女の動きに釣られて、窓の外を見る。
清々しい心境とはうってかわって空は白く濁ったままで、小雨がしとしとと桜の葉を重たく濡らしていた。
7月に入ってから晴天、そういえば見たっけってレベルでぐずついた天候ばかりだな。
「もしかしたら冷夏だったりしてね」
暑いと寒い以上に対処のしようがなくなるから、やる気を根こそぎ奪われていく。
ま、却って巣ごもり需要は最強になってるから結果オーライなのかもしれない。
海とかプールとかお祭りとか、イベント盛りだくさんの夏でももう外に出る気しないもんな。って三井さんに振ってみると。
「でも光岡さん、好きな人いるんでしょ? その人を誘ってみようとか思わないの」
……あ、それは盲点だった。
特別な相手、とかあ。
それだけで、どこにでも行ってみたくなると思えてしまうのだから不思議だ。
観光業がそれを見越してペアプランで呼び込むのもわかる。
近い夏のイベントだと、隣駅で毎年やっている神社の祭礼か。
祭礼の期間は1週間と定められているけど、大規模な祭事をするのは初日と最終日だ。
ひと月に二回という奇妙な祭典行事は、もう100年以上にもわたる歴史に刻まれているらしい。
「夏の間に差をつけられるのは勉強だけじゃないよ。今から思い出つくっとかないと、ぐずぐずしてる間に予定埋まっちゃうかもしれないんだからね」
「詳しいね、三井さん……」
「うちがそれで失恋したんですわ。告白後見事に玉砕。同じ屍を作りたくないのですよ」
経験者からの言葉の重みよ。
勉強を頑張り、思い出作りも妥協しない。欲張りな考えだけど、高校の夏休みはたった3回しかないのだ。
遊ぶための夏は、来年は受験生で無理だから実質今年だけだ。
「うん、頑張ってみる」
「その心意気やよし」
光岡さんに栄光あれー、なんて相変わらず腕は伸ばしたまま気の抜けたエールを贈ると。
三井さんは『てわけで景気づけにお祭り行こうぜ』と誘ってくれた。山葉さんを手招きしつつ。
「うーん……」
初日はバイトが入ってるから、日野を誘うなら最終日にしたい。
となると、バイトが終わってからになってしまうけど……
「いいよいいよ、そのための景気づけだもの」
「はい。その日でなくても祭事は近い日にたくさんございますし」
「じゃあ、終わるまではふたりでたくさん楽しんできてね」
友人たちからの温かい言葉を受け、勉強で追い込むだけと思っていた夏休みにささやかな楽しみが生まれた。
今年は、何もない夏にはしないぞ。
やる気をみなぎらせ、わたしは教室を後にした。
湧き上がる高揚感を押さえつけるように、小走りで駅へと向かう。いちばん報告したい人への言葉を頭につづりながら。
だけど、舞い上がっているのはわたしだけだと数時間後に思い知らされることになる。
「…………え?」
どういう、こと?
帰宅した日野から、夕食後に重たげな口ぶりでひとつの報告を受ける。
「実は、ね。先日こんなことがあって」
いわく、同僚からデートの申込みを受けたということを。
学業に影響が出ないように、テスト期間が終わるまでは報告も返事も保留にしていたこと。
隠し事を告白する申し訳無さそうな口調で、日野はゆっくりと説明していく。
理解できているのに、呑み込めない。
日野は美人だ。優しく気立てがよく頼りになって、そのスペックで放っておく人がいるわけがない。
いつかは覚悟できていた展開だった。
だけど、だけど。こんなに早く訪れるなんて聞いてない。
まだ、わたしはなにもしてないのに。心の準備が追いつくはずがない。
なんで、って問い詰めたくなる反発心がじわじわ膨れ上がっていく。
「ど、」
どんな人? といろいろ迷って聞きたい一言を声に集約させる。
同僚だ、対象は同じ教員以外にありえない。判明すれば、今後学校で見る目が変わってしまうかもしれない。けど、知りたい気持ちには勝てなかった。
日野は若干答えづらそうに、その先生の名前を言った。
「そうなんだ」
荒れ狂う心とは打って変わって、おそろしく平坦な声が出た。あまりに感情の振れ幅が大きすぎると却って冷静になるとかいうやつか。
ああ、だからあのとき『光岡さんとは仲良くしたいので』と言ってきたのだろうか。
「もちろん私は彰子の意思を優先するよ。うん。家族がいちばん大事だってことは変わらないから」
嫌だよね? と顔色を伺うように、日野は眉根を下げてわたしへと首をかしげる。
「…………」
嫌、と言うのは簡単だ。
言葉にすれば、日野はあっさり引くだろう。
それでわたしの束の間の安息は守られる。
それでいいじゃないか。
だけど、そうやって日野の婚期をいつまで妨害し続けるつもりなんだ?
己の恋路の征く末を、今さら現実的な目線で考える。
叶うのか? と胸の内に問えば、無謀でしょ、と別のわたしが乾いた声を返してきた。
わたしは金もなく、地位もない。
努力で埋められないこともない差ではある。
けど。その位置に並ぶまでに、日野は歳をとっていく。
結局それはわたしの自己満足で、日野の人生を潰しているのと変わらないんじゃないか。
若い女の5年10年は、決して取り戻せない貴重な時間なのだ。
それを割いて、日野は子育てに奮闘している。
わたしのために、時間を使ってくれている。
それだけで十分じゃないか。
養子で、いいんじゃないのか?
ちょっと位置が置き換わるだけで、大切な家族と思い出を作っていく予定に変更はないんだからさ。
考えられなかった別の道が、足元から分岐していく。
養子縁組を結べば、わたしと日野は直系血族となる。
この関係は、仮に離縁によって親族関係が終了したとしても続く。
つまり、法律上、どうあがいても婚姻は不可能となる。
可能性を捨てて、それでも別の形で一緒にいる未来を望むか。
一縷の望みに賭け、関係が破綻する未来が見えていても行動するか。
想いを伝えれば確実に、日野と縁が切れてしまう。この生活が終わってしまう。
それがなによりも恐くて、わたしは二の足を踏んでしまった。
だから。
「い…………」
「い?」
「いいんじゃ、ない」
デートまでなら許すって言ったしね。
同じ教員なら一致するものもたくさんあるだろうし、きっとうまくいくよ。応援するから行ってきなよ。
本音と建前と愛想笑いを浮かべて、わたしは機械のように口を動かした。
そのうち音が遠ざかって、自分が何を言っているのかも日野が何を返したのかもわからなくなっていく。
そんなときでも身体は正直なんだと思った。
外の雨足が少し、強まった気がした。
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