【皐月視点】不穏
GW中の課題は、成績で伸び悩んでいる彰子に合った勉強法を見つけ出すこと。
頑張っているのに、結果が伴わない。
これでは自信がつかず、次に踏み出すところか二の足を踏むようになってしまう。
この悪循環を打破するためには、成功体験を積み重ねていくしかない。
『またうまくいかなかった。もうダメだ』
『そんなときもあるよね。次は頑張ろう』
失敗続きと、成功体験がある中での失敗は上記の感情に分岐される。
失敗の程度は同じでも、モチベーションの差は歴然だ。
やってきたことが報われる喜びを、彰子にも知ってもらえたらいいな。
「さて、彰子はなんの教科からやってみたい?」
夕食を済ませて、いよいよ今日からマンツーマン指導が始まった。
中間テスト範囲となる教科書をずらっとテーブルに並べて、彰子と向き合う。
「ダントツで苦手なのは数学」
「じゃあ、今日はそれからにする?」
「本音を言えば数式見ただけでフリーズする」
いちばん覚えなきゃいけないけど、数字アレルギー起こすからやりたくない。
そう言いたげなのがしかめっ面から読み取れた。
でも最初の課題は、克服ではなく成功体験の積み重ね。
それも大きな成功ではなく、最小レベルの成功を目指すことが目標だ。
であれば嫌いなものから入るよりも、好きな分野のほうが脳への吸収率は高いはず。
なので興味がある科目は? と聞いてみると。
「英語、かな」
話せたり長文読解できたらかっこいいと思うから、と理由を聞かせてくれた。
英文にもアレルギー起こす人はいるけど、彰子は興味があるからこそ英語字幕を読み取れるようになりたいみたい。
うむ、興味が原動力というのは大事だ。
そうなると、まずは単語からだね。
「おっけー。今日はまず10語覚えようか」
私は文房具店で買ってきた単語帳を取り出した。
これに10個の英単語を書いて、英単語から和訳、和訳から英単語が引っ張り出せるように一問一答形式で答えていく。
「それだけでいいの? 大学レベルだと5000語が目安なんでしょ?」
「満点を取るまでやるのが目標だから。100語でも満点取るまで寝られま10とかだったら鉛筆ぶん投げたくなっちゃうよ」
それに比べれば、1日10語であればまだ満点の現実味はある。
次の日に昨日のぶんの10語を書き出させて、満点を取ればまた新たな10語暗記へと移る。
それが10日続けば100語暗記も夢じゃないよと説くと、彰子の目つきが変わった。
続きを聞きたがっている、まっすぐな視線だ。
「文法からって意見もあるけど、be動詞とか言われてもどんな英文だったかすぐに思い浮かばないよね。”Apple”って言えばりんごが浮かび上がるけど」
日本人は英語ができないって言われがちだけど、完璧な文法での発音を気にして躊躇している人も多いのが事実。
英単語のみに絞れば、意外と耳にしたことがある言葉は多いのだ。
「少しずつでもいい。英単語を読み書きできるようになれば、絶対に成績は伸びていくよ。知ってる単語が増えていくんだから」
文章から知ってる英単語を拾えるようになれば、英文の意味をおぼろげに理解しはじめてくる。
そうなれば英熟語、英文法へと暗記範囲を広げていく。
何を書いているか分かるようになるのも、成功体験のひとつだ。
それから、1時間が経過して彰子は無事満点を獲得した。
単語もジャンルを絞って出題したため、思ったより早く終わったのは良い収穫となった。
「お疲れ様。よく頑張ったね、今日だけで10個も語彙が増えたことになるよ」
「全部食べ物だから覚えやすかっただけだよ」
口ではそう言いつつも、彰子の口角は微妙に緩んでいる。
満点の解答用紙にちらちらと目が行ってて、自信につながってくれたことに私は内心胸をなでおろした。
「どれ、なでなでしてやろう」
おちょくるように言って、彰子の頭に手を伸ばす。
てっきりええわと跳ね除けられるかと思いきや、彰子は大人しく従っていた。むすっと唇を尖らせて。
ちなみにこれは照れ隠しの態度だ。一緒に暮らすうちに、だんだん表情が読めるようになってきた。
「もっと覚えられそうなら、明日の分の予習もしておくかい?」
「予習って……今ここでテストしないの?」
「うん。テスト本番は明日。少し時間を置いたほうが、脳に定着しているかの証明になるからね。で、明日も余裕と時間があれば、また次の日のぶんの予習をしていくというスタイルさ」
「それはいいけど、GW中はずっと英単語暗記がメインなの?」
「それじゃあ、50語覚えたら次の教科に移ろうか。一日一回がもったいないなら一日二回にする? 午前と午後に分けて」
「うん、そうする」
私は短いゴールをつけて、次の教科も基礎から始めていくよと予告した。
簡単なものからでいい、目標数値も低くたっていい。
こんなの誰でも満点取れるじゃんと笑われそうだが、それでも問題をすべて理解した喜びには変えられない。
だって今の彰子は、楽しそうに新しい単語を書き出しているから。
「ということがあってね」
数時間後。
私は本日の予定通り、カラオケボックスにいた。
女性教員だけで食べたり飲んだり歌ったりする、いわゆる女子会というやつだ。
彰子も今日は、友人と出かける用事があるとのこと。
良かった、春先に出来た友達とは仲良くやってるみたいだね。
養育里親の件は報告済みとはいえ、里親を始めた教員というのはけっこうセンセーショナルな話題だったらしい。加えて里子がうちの生徒となれば。
店員が去るなり『ちゃんと仲良くやってる?』と西園寺さんに詰め寄られたので、かいつまんで報告すると。
「へー、彰子ちゃんってすごいね」
西園寺さんが感心したように手を叩いた。
横から『日野さんはすごくないんですか』と同僚からツッコミが入る。
「さっちゃんだってすごいよ。でも勉強に意欲的な子って珍しいじゃない。どうやる気を出させるか、お勉強の必要性をわかってもらえるか。そこに行くまでが大変なのに」
「若いうちから具体的な将来像も描けて、どうして大学に行きたいのかきちんと筋の通った答えを持っている。自慢の子ですよ」
鼻高々に私は答えた。
実際、進学の理由を明確に答えられる子は少ない。学歴のため、が大半だ。
それもちゃんとした理由ではあるけど、一昔前はあまりにも大卒神話が強すぎて高卒や中卒が人にあらずみたいな扱いだったからね。
「日野さんとは親戚だからある程度信頼関係もあるのでしょうが……中高生って難しい年頃ですよね」
「そーそー。施設の子となると委託解除率高いって聞くもんね」
そうなのだ。中高生の引き取り手が少ない理由は、コミュニケーションを築くことの難しさにある。
加えてこの年頃は反抗期真っ只中とあって、絆が芽生える前に愛情が尽きてしまう例も多い。
保護動物だって懐くまでは吠える噛み付く粗相当たり前だが、人間の場合は言葉で傷つけられてしまうのがね。
彰子は昔荒れていたらしいが、想像もつかないほどしっかりしている。
……あるいは、自分で気づかざるを得ないほどの体験をしてきたのだろうか。
「そういえばミカちゃん、だいぶ大きくなったねー」
「おかげさまで安定期にやっと入りました。まじつわりやばすぎてケトン値がえぐい単位までいきましたが」
少し上着をまくって、国語担当の
出産予定日はもうすぐみたい。その割にお腹ってそんなに目立たないもんなんだ。
「奥さんはどうしてるの?」
「もう大丈夫ですよ。つわりの私よりご飯食べなくてどんどん痩せてって、何度も自分が産めばよかったねって泣かれましたが」
ああ、淀川さん同性愛者なんだ。
今は同性婚に加えて、同性出産も認知されてきたね。
代理母や精子提供なしに、お互いの子供が授かれるようになって。
最近のDBの方向性には疑問があるけど、こういう形での化学の発展は良い傾向だと思う。
奥さん同士だと、片方産むか両方産むって分かれるよね。
でもつわりが重いか軽いかは妊娠しないとわかんないよなあ。
カラオケができるまでに回復した淀川さんを祝って、西園寺さんが胎教に聞けと『こんにちは赤ちゃん』を熱唱し始める。おお、結構うまい。
「…………」
ん?
隣を向くと、体育教師の
綺麗な方なんだけど、体育教師らしかぬ寡黙な方であんまり話したことがない。なんの用だろう。
「どうしましたか?」
「日野さんってご結婚されてたんですね」
ん? 結婚?
あ、そっか。この人は私が里親になったこと、初めて聞くだろうしね。なら勘違いもするか。
「いえいえ、親戚の子を里子として預かることになったんです」
「……独身でですか?」
「ええ、福祉活動の一環として」
私の答えに納得がいかなかったのか、本田さんは不可解そうにぎこちない相づちを打つ。
そこで話を打ち切ると思いきや、さらに会話に踏み込んできた。
「教師と里親は、これからも両立していく予定なのですか?」
「ええ、まあ……」
なおさら結婚したほうがいいんじゃないですか、と持っていきたげな雰囲気だなあ。突っ込まれるよね、そりゃあ。
「あはは……未婚なのに希望するっておかしいですよね」
「独身でも適応されているのでしたら、おかしいとは思いません。ただ、もう一人保護者がいたほうが、収入面でも精神面でも安定するんじゃないかなーと思っただけです」
「本当は結婚して家庭を持って、母として成長したうえで挑むべきなのでしょうが。今も助けを求めている中高生がいるかと思うと、いてもたってもいられなくて……」
その結果、一人に手を差し伸べられたのだからこの選択に後悔はしていない。
ただ、彰子が巣立ったあとも里親を続けたいという気持ちはあれど、ずっと一人で里親と教師を続けていくのは難しいだろうという不安はあった。
「なるほど。では、結婚のご予定は無いわけではないと」
「ええ……そもそも相手もいない状況ですが」
本田さん、何が言いたいんだろう。彼女も里親に興味があるんだろうか。
それから歌の順番が回ってきたので、本田さんとはまたあとで話すことにした。LINEを交換して。
「あ」
マイクを取ったところで、スマホが鳴った。着信の知らせだ。
誰だろう。
……あれ、この番号って。彰子のバイト先のお店?
私に掛けるとはどういう要件なんだろうか。西園寺さんたちに断って、いったん部屋を出る。
『突然のお電話、大変失礼いたします。こちら、日野さんの携帯番号でよろしいでしょうか』
「はい……日野本人ですが。どうされたのですか?」
そういえば、時間帯はもう夕方。彰子はたしか今日、バイトだったはずだ。
まさか。
店長さんの緊張に包まれた声と発された言葉が、現実味がなく耳から頭へと入ってこない。私は思わず声を荒らげていた。
「彰子が、時間になっても来ていない……?」
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