罪と罰 ※暴力描写注意

 首がねじ切れたのかと思うほどの衝撃が、耳の奥ではじけた。

 正面を見ていたはずの景色が真横へ、下へと急速に傾いていく。


「あ、わ」

 情けない声とともに、よろめいた体は後ろ足でふんばるのもむなしく崩れ落ちる。どっと土の匂いが鼻の奥に広がっていく。


 尻と背中を打って、ようやく頭の横をぶん殴られたのだと理解した。

 脊髄を打たなかったことに一瞬だけ安堵する。火箸をつっこまれたような熱さがじんじん響くこめかみを押さえて、


「ごほっ」


 今度は背中を蹴り上げられて、肺から空気をまとめて吐き出した。

 つま先がきれいにクリーンヒットしたらしく、初めて聞く肉体の軋み音が神経を揺さぶる。

 背中に穴が空いたんじゃないかってくらい鋭い痛みがやってきて、視界が痛覚由来の生理的な涙ににじんでいく。


 咳き込みながら、混乱する頭にわたしはただひとつの司令を送る。

 逃げなきゃ。

 なぜかわたしは今、昔のクラスメイトらしき女子にリンチを受けている。


 相手が同世代の女子だから油断していた。

 木々の多い人目のつかない場所に連れてこられたのも、今思い返せば迂闊だ。

 くそったれ。


 呻きを噛み殺し、芝生をむしり取るように手を支えにして上体を起こす。

 だけど相手はわたしが逃げる動作を感じ取ったのか、判断は向こうのほうが早かった。

 ブーツの残像が視界を横切って、わたしの脛を蹴り払う。


「い゛、づぅ」

 立とうとしていたところへ追加の攻撃を受けて、骨を強く打ったのか最初の打撃とは比べ物にならない疼痛にわたしは悶え転がった。


 情けない呻きを漏らし、土と草をへばりつかせたわたしへと。女子がまた一歩を踏み出す。

 ぎゅっと強く目をつぶって、立てないわたしはダンゴムシのように身を縮こまらせた。


「なんでこうなってると思う?」

 一切の温度が失せた、静かな凍てついた声に肝が冷えていく。


「わからない」


 バカ正直に答えた結果、額に唾が飛んできた。

 なお、『なんで怒ってるかわかる?』みたいなヒステリックな大人がよく使うこの手の台詞はクイズではない。

 正解か不正解かは相手にとってどうでもよくて、私刑宣告に変わりはないから。


「お前のせいで、私の人生はめちゃくちゃになったんだ」


 一房に結った髪の毛が引っ張り上げられた。引っこ抜かれそうなくらいに力が込められる。

 打撃よりはマシだけど痛い痛いやっぱこっちだって痛い。両手で毛根を抑え込むように頭部をかばうと、女子はそのまま髪房を振り乱しながら罵声を浴びせてきた。


「全部、あんたがやったことだよ。蹴って殴って引っ張って怒鳴り散らして。しかもターゲット選んでたよな。何もかも恵まれたDBじゃなくて。私みたいな反抗してこないVBを、くそが」


 言葉の途中で声が震えて、女子が振りかぶるような動作で髪から手を離す。

 反動にバランスを崩し、わたしは肩から落ちた。

 暑いからって半袖で出かけたせいで、今の衝撃で左腕がまともに地面をかする。


 痛い。

 骨に響く打撲と、皮膚を削る擦り傷。傷は浅くとも痛みが鋭いのは後者だ。

 いたい、と耐えきれず声に出して、じくじくと痺れる左腕の泥を払おうとすると。


「っ」

 血を、流している。久方ぶりに見た、傷口の鮮烈な赤さに一気に闘志が削がれていく。

 それ以上の血祭りにこれから上げられるのだと確信した脳は、恐怖を震える歯となって送り出す。


 やめて。引きつった喉から絞り出そうとする。

 だけど、真っ赤に表情を歪ませ、瞳に怨嗟の炎を燃やしている女子と目が合って。

 この程度の傷では罰にすらならないのだと、理性は告げていた。


 人は心の底から怒り狂っているとき、文字通り鬼の形相になれるのだと身を持って知る。


「忘れているなんて、ほんとおめでたい頭だよね。こっちは何万回脳内でぶっ潰したか分かんないほどなのに」


 涙にまみれた怒声と共に、女子は馬乗りになって胸ぐらの代わりに右腕を引っ張り上げた。

 細い指からは信じられないほどの馬鹿力が、ぎりぎりと手首を締め上げる。


『荒れていたわたしのターゲットに逢い、女子は不登校になった』


 一文に要約すると上記の文面になる内容を、女子は何度も何度も言葉を変えて刃物の代わりに突き刺していく。


 そんなことを、わたしはやってしまったのか?

 どれだけやってきた己の罪を暴露されても、心にまるで実感がわかない。

 都合のいい記憶力に吐き気がする。


 この、物覚えの悪い脳みそは。

 自分が傷つけた被害者のことなんざ、名前ごときれいさっぱり忘れやがっていた。

 己が加害者だったときの記憶すらも抜け落ちている。


 つまるところ、これは復讐なのだ。

 悪いことをすれば、必ず自分に返ってくる。

 女子に舞い降りた千載一遇の好機は、わたしにとっての罰。

 わたしはそれを、甘んじて受けねばならないのだ。


「ごめんなさい」


 この一言で過去の過ちがなかったことになるとは当然思ってないし、許してもらうために謝るわけではない。

 ただ、あれこれ悩んで結局謝罪の言葉のひとつもないのはもっと最低極まる。


 舌打ちして、女子は手首をつかむ指にさらに力を込めた。

 皮と肉と骨を圧迫されて、わたしは苦痛に顔をしかめる。


 だけど締め上げる女子の指は、ぶるぶると震えていた。

 握力の限界なのか、筋肉が悲鳴を上げているように感じた。


 こんな力任せの制裁を加えずとも、さっきみたいに丈夫そうなその革製のブーツで好きなだけサッカーすればいいのに。

 なのに女子はこらえるように唇を噛み締めて、それ以上の行動に移ろうとしない。


 復讐という大義名分があっても、最後の一線は超えないようにギリギリ踏み止まっているように見えた。


「お前さえいなければ、うちのクラスは平和だった」


 呪詛を繰り返し吐き出す女子の険しい顔すらも、今は恐いと思わなくなっていた。

 きっと、彼女は誰かを殴ったことがないいい子だったんだ。

 だってこれだけ憎い相手であれば、顔面か胸か腹を集中的に痛めつけるはず。


 だけど女子は、一度も狙ってこなかった。

 急所を避けているのだとしても、暴力に慣れている人はあんなに苦しそうな顔で拳を振り上げるわけがない。


 得物だって持ち出してもおかしくない。顔を晒さなくても精神的に追い詰める方法なんていくらでもある。

 反撃を恐れているのなら、喧嘩に慣れた手練者を連れてきたっていいくらいだ。


 なのに、女子は単独でわたしを誘い出した。

 二度と声も掛けたくないであろう怨敵に、笑顔を振りまいて。


 そんな人を、わたしは。

 学校も行けなくなるほどに追い詰めて。慣れない暴力に踏み切るほどに消えない傷を残して。

 取り返しのつかないことを、してしまっていた。


 遅すぎる罪の意識を覚え始めて、血の気が引いていく。

 外の陽気とは真逆のすさまじい寒気が背筋を這い上がり、鳥肌がざわついた。

 滑稽な自分のツラが、女子の仄暗い瞳に映っている。


「お前みたいなやつがいるから、VBのイメージが悪くなるんだ」


 その一言が決定打となり、心に深くヒビの入る音がした。

 あれだけ全身を支配していた痛みすらも遠ざかって。女子の放った言葉だけが、ぐわんぐわんと脳内を駆け回っている。


 わたし、わたしは。わたしなんて。



「何をなさっているのですか」


 思ってはいけない言葉の引き出しに辿り着く前に、第三者の声によって現実へ引き戻された。

 木々の向こうに、複数の影が見える。


 逆光でよく見えないけれど、声は聞き間違えようもない。山葉さんのものだ。

 最後にLINEを送ってからだいぶ経っているし、不審に思って探しに来てくれたの?


「その方から離れなさい」


 両側に屈強な大人を引き連れて、澄んだ声を響かせ山葉さんはこちらへと淀みなく歩を進める。

 すでに警察と救急車は手配しておりますというひと押しに、女子の表情がなぜかほっとしたように緩んだのが見えた。


「ありがと。これ以上こいつといたら何するかわかんなかった」

「…………はい?」


 あまりにも状況にそぐわない言葉に、常にポーカーフェイスな山葉さんもさすがに眉をひそめる。

 暴力を振るっておいてその開き直りっぷりはなんだ、と周囲の大人は目を釣り上げ語気を強めるのが聞こえた。


 女子はそのまま素直に大人たちによって引き剥がされ、まるで次のターゲットを見つけたと言わんばかりに山葉さんに興味の視線を向ける。


「あんた、こいつのオトモダチだよね?」

「はい」

「よく、こんなやつと仲良くできるね」

「山葉にとっては、御学友として接してくださる今の彼女が全てですので」


 気のせいだろうか。ぎりっと、山葉さんが拳を握ったように見えた。

 それ以上は何も交わさず、山葉さんはわたしのもとに近づいてきた。

 同時に緊張がほどけたのか、一気に全身に受けた痛みがぶり返してくる。


「大丈夫? 頭は打ってない?」

「すみません……ありがとうございます」


 大柄な中年女性が傍にやってきて、立てるようにわたしの体を支えてくれた。


 山葉さんもまずは傷口を洗い流しましょう、と新しく買ってきたであろうペットボトルの水をティッシュに含ませている。

 救急車が到着するまでの間、わたしはその場で応急手当を受けることになった。


 あれだけ怒りをにじませていた女子の形相は、今は憑き物が落ちたような無表情へと移り変わっている。

 遠ざかる背中をぼんやりと見つめ、殴られていないのに痛み始めた胸を押さえる。


 彼女の中での復讐は終わるわけがないのだろう。

 胸中はわたしには推し量れない。ただ、少しでも気が晴れてくれたらいいと思った。


「山葉さん」

「はい?」

 まずはお礼の言葉を述べて。こめかみを濡らしたハンカチで冷やしてくれている山葉さんへと、淡々とつぶやく。


「暴力って、こんなに痛いんだね」

「…………」

「わたし、バカだ。今までそんなことすら気づかなかったなんて」


 山葉さんは、黙って唇を引き結んだ。

 

 日野と再会したのは、それから数時間後の病院となった。

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