寄り添いたいと思い始めて

「待たせてないけど来た」

「ひ、ひひぇっ?」


 従業員ではなく客として登場するとは思わなかったのか、日野はぎょっと目を見開いた。

 そんで勢いよく顔を上げた反動で、背後の壁と激突する音が聞こえた。コントか。


「大丈夫かー?」

 痛そうに頭を抱える日野へと、後頭部をさすってやる。

 音にびっくりしたアスカがこっちに出向いたけど、『問題ないから』と両腕で○を作ったジェスチャーを送った。


「し、仕事は」

「人少ないから上がっていいって」


 淡々と事情を説明して、向かい合って座る。

 本を閉じて、気まずそうにわたしへ視線を彷徨わせる日野へと『ごめん』と言い放った。


「ごめんって、何が?」

「居眠りのこと。がっかりさせてごめん。わたしの自己管理がなってなかっただけだから」

「そんな、生徒を寝落ちさせてしまったのは先生の責任だよ。眠そうだったのは他の子も一緒だし。そもそも、振り返ってみれば寝ちゃっても仕方がない授業だったんだから」


 5時間目は、ただでさえ食後で血糖値が上がっている状態だ。

 だけど日野は説明責任を果たそうと、一方的に喋るだけの授業をしてしまった。


 最近の授業は板書をほとんどしないので、自作プリントを必死に作った。

 それが裏目に出てしまったと、日野は反省点を列挙する。


「生徒目線だと、教科書探って穴埋めればいいからあとは寝たろ、って思っちゃうかもね……」

「プロがしっかり監修した教科書に、いち教員の自作プリントが敵うわけないよなあ……」


 ますますツボにはまって、日野はテーブルへとうなだれてしまった。


 生徒の立場であるわたしからすりゃ、授業はたいてい退屈なもの。

 だけど先生は真剣に考えて、日々授業づくりに励んでいることは分かる。


 教える側としては、ちゃんと生徒の学習意欲が上がってしっかり学べる授業にしたい。

 でも、どうやったら面白い授業になるのかわからない。


 どんな指導方法がはまるかなんて、クラスどころか生徒ひとりひとりが異なるからだ。


 日野は今、そこの壁にぶち当たっているのか。


「……キブツ」

「え?」


 肩と頭を落とす日野に手を伸ばして、そっと背中に手のひらを置いた。


「今日の授業内容。”人間社会と家族”のテーマから集団育児を先駆けた社会共同体がある、って内容だったよね」

「うん……あ、ちゃんと勉強してきたんだね」

「寝ちまった罪滅ぼしで。でも義務感からとかじゃないよ? 個人的に興味深い内容だったから」


 キブツ。イスラエルにある社会共同体のこと。ヘブライ語で『集団』を意味する。


 わかりやすく言えば、自給自足の地域協同社会。

 労働と生活を上下関係なくみんなで行って、協力して生きる理想社会を体現する。


 そしてこのシステムは、育児も一緒。

 養育と教育は、住民全員で行う仕組みとなっていた。


「一見すると、子育ての環境としては理想に見えるんだよね。日本は核家族の限界で、とくに母親への負担が大きすぎるから少子化にもつながっていたわけだし」


 そんなキブツも、子育てに関してだけは失敗例があった。

 子供たちの多くは、対人関係に問題を抱えた大人になってしまったとのこと。


 職員が交代で子どもたちの面倒を見る。

 実に効率的で合理的だ。

 だが子供視点では、誰に愛情を定めればいいかわからず、愛着障害を抱える結果となった。


「日本も方向性は違えど、子育ての環境はどんどん整ってきてるじゃん? 保育園義務教育化とか。ただ、親の負担を減らすことだけに注力しすぎてキブツと同じ轍を踏んじゃわないか、日野はそれを言いたいんじゃないかと思ったんだよね」


 分野そのものに興味があって、隅々まで知りたくなって、そうしてるうちに知識として身についている。

 わたしは調べて、その言葉の意味を知った。


 ちゃんと授業内容は復習したことを伝えると、日野は顔を上げた。


 濁っていた瞳に光が差して、やがて笑みがほころんでいく。

 しおれた花が水を得たかのように。


「すごいなあ、彰子は。なぜそれを学ぶのか自分で考えて、自分なりに結論を出して」

「すごいことじゃないよ。寝てしまったぶんの遅れを取り戻そうとしているだけ」


 そもそも、通ってる学校は福祉系だし。

 本当に興味がある分野だっただけだ。


「授業がなければ、知見が広まることもなかった。だから教えてくれてありがとう」

「うう……なんていい子なんだ君は」


 日野の声がふやけて、表情を隠すようにまた首が垂れる。

 これが熱血教師ドラマなら感動的な主題歌が流れ出しそうだ。


 いいえ先生、わたしは悪い子ですよ。

 いい子なら授業の必要性を分かっているから寝たりしないよ。


「授業中寝ているのは自分の責任。授業料を無駄にしているのは自分だって今さら知っただけ。日野もあんまり自分を責めないで」


「ありがとう。でも、私もまだまだだから。今日の失敗から学んで、また次につなげるよ」


 置いたままの手のひらを、優しくぽんぽんと撫でる。

『延長しますか?』と冗談めかして聞くと『します』なんて弱々しく返ってきたもんだから、しばらく背中をさすってやった。

 

 ここの席がカウンターから死角にあってよかった。

 母娘というより、仕事で失敗して落ち込む同僚を慰める図だなこれ。


 でも、完璧だと思っていた人の一面を見れて悪い気はしなかった。



 呼び出しベルが鳴ったので、カウンターまで食事を取りにいく。


 ちらっとレジを見ると、ちょうど数少ないお客様が来店したところだった。

 明らかに外国人と思われる、肌の黒い男性がアスカに話しかける。英語で。


「May I see the side menu, please?」

「ソーリー。ジブンニホンコしかワカラナイね」


 胡散臭いカタコトで、アスカは胸ポケからスマホを取り出した。

 翻訳アプリを起動するからこれに向かって話せ、というニュアンスだ。


 赤毛で緑目のアスカはどっからどう見ても日本人じゃないから、通じると思った海外のお客様がああして話しかけてくるときがある。

 初対面の人はあの外見からぺらぺら日本語で話しかけられると、大抵目ん玉をひん剥くね。



「それじゃ、いただきます」


 さて、暗い気持ちは美味しいご飯に上書きしましょう。

 ラーメンと餃子と炒飯のセットが並んだトレーは、ひとつのテーブルに二人分置くとちょっと狭い。


「よし。次からは寝かさないぞ」

「誤解招きそうな台詞だなぁ」


 気を取り直したらしく、日野の表情には覇気が戻っている。

 日野、けっこう顔にも出やすいよね。


 下がり気味だった眉が今はぴんと上がって、目の前の香ばしいごちそうに分かりやすすぎるくらい目を輝かせている。


 お互いに中太縮れ麺をずるずるすすりながら、一心不乱に箸とレンゲを動かしていく。

 この極力油を抑えた、あっさり醤油スープがたまんないのよ。


 かりっときつね色に焼き上がった餃子も。

 中身が野菜中心だからもたれづらく、規定数の6個が物足りなく感じてしまう。


 黄金にきらめく炒飯は、大盛りで掬って豪快にかっこむのが好き。


 早食いは胃に悪いんだけど、いちど口にしたらレンゲが止まらないんだこれが。

 ぐいぐい喉に送り込めてしまう。


 米の一つ一つが油に包まれぱらっぱらの食感を主張し、添えられたザーサイの旨味を引き立ててくれる。


 こんなにがらがらの店内でも、親しい人と食べれば胃も心も満たされていくんだから不思議だ。

 日野も『また来たいな』と頬を上気させていた。

 気に入ってくれたようでよかった。



「今日は美味しいご飯を教えてくれてありがとう。それと、ごめんね」


 帰り際、日野からは愚痴っぽくなってしまったことを謝られた。


 親に愚痴掃き溜め代わりにされてうんざりしてる子供はたくさんいるのに、自分も同じ道をたどるとこだったと。


「だからって日野は攻撃的に非難しないし、一方的じゃなく会話に応じてくれているでしょ。そもそもわたしから振った話題だったじゃん」


 そうフォローして、今日のような現場のリアルはたまに聞かせてほしいなと興味を伝える。

 もちろん守秘義務に触れない範囲で。

 職は違えど、わたしも目指す方向性は似たようなものだから。


 せめて家では悩みを受け止め、ささやかでも背中を押せる人間になりたい。

 親だって子供だって教員だって教え子だって、教えて教えられて失敗して成長するんだから。


 それは、どんな言葉にしたら様になるんだろう。


 それから数日後、日野は滅多に引かないらしい風邪を引いた。

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