【皐月視点】お人好したち

 ……さて、どうしよう。

 彰子はおそらく店員に『放置されている子がいる』と親への注意を促してくるだろうから、そうしたら私たちが介入できるポイントはここまでだ。


 正直、これ以上の干渉は避けたい。

 人さらいだと万が一言いがかりをつけられ職を追われることがあっては、彰子と離れ離れになってしまう。

 気が気ではなく、冷や汗がにじんでいく。


 でも、女の子は私の服の裾を握ったまま離れない。

 このまま振り払って退散、は良心が痛んだ。


 とりあえず店の外にあるベンチに腰かける。

 女の子は、私にぴったり体をくっつけて座った。


 葛藤するようにしばらく菓子パンの袋と見つめ合って、やがてゆっくりとビニールが破られていく。


「そんな急いで食べるとむせるよ」

 飲み込むようなスピードで、もりもりとパンにむさぼりつく姿に切なさを覚える。

 いつも、こうしてお腹を空かせていたのだろうか。


「ほら、お茶もどうぞ。つまっちゃうだろうから」

「ありがとうございます」


 女の子はきちんとお礼を言ったあとに、小さな両手でお茶のペットボトルを抱えて飲み始めた。

 口を離したときにはほとんど空っぽで、喉もこんなに乾いていたのかとあの女性に怒りが湧いてくる。


「おねーさんがママだったらよかったのに」


 舌っ足らずな声で放たれた一言に、周りの音が一瞬消えた錯覚に陥った。

 女の子は愛想の失せた光のない瞳で、ぽつぽつと語りだす。


「お話したいだけなのに、どうしてみんなムシするの? ママにも話したいこといっぱいあるのに、どうしてぜんぶ聞いてくれないの?」


 親には話しかけるだけで鬱陶しがられ、他の大人も迷惑そうに遠ざける。


 こうして店に放置され、店員から追い払われたこともあった。

 女の子の言葉からは、断片的な悲惨な思い出が読み取れた。


「私でよければ、ここでたくさん話を聞いてあげるよ」

 リスクは跳ね上がるが、こんなにつらい境遇を聞かされてはそうせざるを得ない。

「ほんとう?」


 女の子の顔がぱっと華やいで、パンを食べるのもそこそこに口から言葉のマシンガンが放たれる。

 けっこう話し込んでいたはずなのに。一向に様子を見に来ようとしない母親に、私は怒りを通り越して呆れ返っていた。


 ようやくすべてを吐き出して満足した女の子が、私へと問う。


「ねえ、なってって言われたらママになってくれる?」

「それは……」


 だって私はもう、義理とはいえ一児の母で。

 だからこんな、その場限りの優しさしか与えられなくて。


 なんて、教育者にあるまじき言葉が喉までせり上がってくる。

 答えに言いよどむ私に、女の子はすっと背筋を伸ばした。

 くっついていた体が、離れていく。


「やさしくしてくれて、ありがとうございました」


 何もかもを悟った子供の言葉とお辞儀は、私の胸に深く突き刺さった。



「ただいま」

 店員に注意を促すだけにしては、ずいぶん長かったな。

 なにかひと仕事を終えたあとのような、すっきりした表情の彰子が戻ってきた。


「お話中悪いけど、日野はこちらの方とバトンタッチしてね」


 女の子はこちらで保護しますからと、若い女性の店員さんが私に頭を下げた。

 お礼を言って、女の子にも挨拶をする。


「またね、おねーさんたち」

「うん。またね」


 またね、か。

 守れない約束事を交わして、ふたつの背中が遠くなっていくのを見守る。


 どうか、あの子の未来が明るいものでありますように。

 切ない空気を切り裂いたのは、女性の金切り声だった。


「はぁ? 児相ってどういうことですか?」


 遠くでは、あの態度の悪い女性に店員が話しかけているのが見える。

 その隣には、明らかにスーパーの店員には見えないスーツ姿の男性が立っていた。


「彰子、もしかして」

「匿名で通報してもらった」


 ああ、やっぱりそういうことか。

 確かに、これだけ放置子の条件が揃っていれば児相案件だよね。

 にしても、それまで誰も通報しなかったっていうのも信じがたい話だけど……


 彰子が店員に聞いてみたところ。

 あの親子は土日に必ず姿を見せて、春休みに入った今は毎日のように訪れるようになったらしい。


「何度も上司と一緒に注意したものの、『ゲーセンに置いておけば誰かが見るだろうから安心』『お金はもたせているし、子供も同意している』と聞き耳を持ってくれなかったんだと。それに店側からすりゃ、あのばばあは金落としてくれる優良客だからね」


「それが、どうして今になって動いてくれたのかな?」

「ご飯をろくに与えられてないことを話したらね。あとは今この場でわたしが通報しますって言ったらあわてて」

「なんともまあ……誘拐されてからでは遅いのに」


 ちなみに証拠のため、会話も録音してあるとちらつかせたのも効果的だったらしい。

 『見知らぬ子供に対応するときはボイレコが基本だよ』と彰子は教えてくれた。


「納得いきません」


 目を吊り上げて怒鳴る女性と、冷静に対応する児相職員の口論は未だに続いている。

 耳を傾けて会話を拾ってみると、案の定無茶苦茶な理論だった。


「家に置き去りや車内放置は虐待で、お店に連れて行っても虐待扱いなわけ? なにそれ。親は一分一秒でも目を離さず見守っとけって言いたいの? 金注ぎ込んだのに裏切られた側にもなれよ」


 違う。

 あなたが普段からお子さんに構っていれば、防げた案件だった。


 一緒に遊んでいれば、虐待の疑惑を持たれることはなかった。

 子供が愛情不足から、他の大人に愛を求めようと絡むこともなかった。

 すべて、日頃の行いが招いた結果であった。



「本当は、ぶん殴ってあの母親に怒鳴り散らしてやりたかった」


 帰り道。

 店から出たタイミングで、彰子が怒り濃くつぶやき足元の小石を蹴った。


「わかりやすいんだ、愛情不足の子って。子供って基本、自分が遊びたいことを優先するじゃん? 親以外の大人の前じゃ、何話していいかわかんないから生返事になりがちで」


 ゲームよりも、あの子は手当たり次第にゲーセンにいる大人に話しかけていたらしい。


 大人たちはターゲットにされたくないと、逃げ出すか無視を決め込んでいた。

 そういったクレームが何件も来ていると店員から聞かされたのだという。


「自分の親に認められないから、他の大人に認められたい。大人の会話をして、自分だけを見て欲しい。あの子の場合はゲームの腕前で気を引こうとする。愛への執着で生きている。わたしがそうだったから」


 わたしはあの子よりももっと酷かったし、親から愛想を尽かされたのは自業自得だけどねと彰子は乾いた笑声を飛ばす。


 酷薄な笑みを浮かべた口元が、やがてへの字にゆがんでいく。

 後悔をにじませている顔だ。


「わたし、おせっかいだったかな」

「そんなことあるものか。よくやったよ」


 うなだれそうになる彰子の肩へと、労りをこめて手を置く。


 逆恨みが怖いとか。

 もし虐待が思い違いで、母子を引き離すきっかけを作ってしまったらどうしようとか。


 躊躇して、通報に踏み切れない人はとても多い。

 彰子の勇気を余計なお世話と罵る権利など、誰にもないのだ。


「君はすごいよ。話しかけられたときに私はしどろもどろだったのに。他人の子供だからってためらわず、しっかりと注意をしていた。なかなかできないことだと思うよ」


「先生とか、かつての友達とか。いろんな人から注意を受けて、教わったものがたくさんあったから。親に言われてもむかつくだけだったけど、他人のお叱りってけっこう効くんだよね」

「だから教育現場も、びしっと叱れる先生は必要なんだよね……」


 彰子は幼少期の自分にあの子を重ねて、救いたい一心で行動したのに。

 私は保身から、面倒事に巻き込まれたくないと逃げようとしていた。


「君子危うきに近寄らず、も一つの選択だよ」

 抱えていた醜さを吐露すると、彰子はあっけらかんとした声色で肯定した。


「多くの大人が保身に走るのは当たり前でしょ。立場、会社、従業員、養ってる家族とか失っちゃならんものを抱えてるんだし」


 迷子を交番に連れて行って、誘拐犯扱いされたり。

 病人になりすました痴漢に騙されて、恩を仇で返されたり。

 放置子を不憫に思って優しくしていたら、つけあがられるようになったり。


 情けは人の為ならずという言葉が誤解されつつあるほど、世の中はときに無情である。


「自分を守れるのは自分しかいないんだから、見えてる地雷を避けようとするのも立派な生存戦略じゃないの」


「……そこまで分かっていて、どうして踏み込もうとしたの?」


「わたしは数少ないお人好したちに生かされているからなあ」


 私に視線を合わせて、彰子ははっきりと微笑んだ。


 あどけなさが残っていて、かわいらしい一面を見た。

 昼間はそんな感想を抱いたけれど、今は荒波に揉まれて、成長途中にある大人の凛々しさがにじんでいる。

 私よりも、ずっと。


「ま、今はあんまりやんちゃできないね。ついに身寄りができたから」

「そうだぞー、カチコミ行くなんて言ったら全力で止めるぞー」


 というか、その言い方だと言えないことをしていたようにも聞き取れるのだけど。


 でも、今日みたいな大胆さは失わなくていい。

 私もまだまだ、学ぶべきところがある。

 教員として、親として。


「彰子」

 横に並んで、私は彰子の手を取った。

 ぴっと彼女の肩がこわばる。


「な、なに」

「今日はハンバーグだよ」

「あ、そうなんだ? ……ありがと」


 それ以上は何も追求せず、私は震える指を固く握りしめた。

 想像以上の度胸と勇敢ぶりに、頼もしいなと私は尊敬すら抱いていた。


 ……子供の立場で大人に立ち向かうことが、どれほど恐い中勇気を振り絞ったかも知らずに。

 最後までおくびにも出さず気高かった彼女を、心から讃える。


「あ、いきなり握っちゃってごめん。人目があって恥ずかしいとかだったらすぐ離すけど」


 彰子の頬は分かりやすいほどに赤くなっていた。湯気すら可視できそうなくらいに。


 ここは外だし、いつ山葉みたいに知り合いとすれ違うか気が気じゃないよね。

 多感な時期だから余計に。


「や、いい。このままで」

「ほんとに?」

「べつに……家族だし」


 言い聞かせるように彰子はつぶやき、今度は向こうから力をこめてきた。

 あの、彰子さんちょっと力入れすぎじゃないかな。腕相撲してるんじゃないんだから。


 そのままふたりで手をつないで、私たちは帰路につく。

 途中で、彰子が疑問を口にした。


「にしてもあの子、見た感じDBだったよね。なんでぞんざいに扱うかなぁ。ここは富裕層だらけだから、貧しさから余裕がないわけでもなかろうに」


「DBだって完璧じゃないよ。必ず注文通りに生まれてくるとは限らない。リスクコントロールは極力抑えてても、確率は0じゃない」


「あー、そういや施設のDBにもいるわ。カスタムしたつもりなのに違ったからポイされたって子。どこまでも勝手だよね」

「うん。本当にね」


 ”金注ぎ込んだのに裏切られた側にもなれよ”


 私は、先ほど女性が吐き出した台詞の一部を思い返していた。

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