同居初日
明日で3月もおしまい。
新学期まで残り数日となった。
それに合わせたのか面会交流を経て、いよいよ正式に委託されることが決まった。
なのでわたしの部屋では、プチお別れ会という名のお菓子パーティーが催されていたんだけど。
「よっしゃ。今日から使い放題だぜ」
「せめて形だけでも寂しがれよ」
ルームメイトが去るというのに、目の前の女はガッツポーズをかましながら小躍りまでしやがっている。
二人部屋が一人部屋になるなら、そっちの喜びのほうが大きいか。
「どうせ、店では変わらず会うじゃん」
「それもそうね」
この薄情女、アスカは幼少期からの施設仲間。
今のバイト先の同僚でもある。
彫りの深い顔立ちで、髪は赤く、目の色は緑。
どう見てもアジア人ではない。
なのに日本語は全く違和感のないレベルで流暢で、それ以外の言語はからっきしだ。
最初は、西欧人風にカスタムしたDBだと思った。
だけどアスカは、れっきとしたVB。
施設の子は基本複雑な事情を抱えているので、それ以上の深入りはしないのが暗黙のルールだ。
「よくこんな奴と暮らせる変人が来たもんだよ。自分だったら月20万の養育手当が出ないと割に合わないねぐげぇ」
「金目当てに申請とか一番最悪のパターンでしょ」
手刀を振り下ろすと、大げさなダミ声が漏れた。
何年も同室だったことをもうお忘れか?
「今生の別れってわけじゃないんだし。たまにこっちには遊びに行くわよ」
「すーぐ音を上げてぴーぴー逃げ帰ってくるんじゃないぞ」
「進学かかってんだからするかぐげぇ」
遠慮なくアスカから背中をはたかれる。
奴なりのエールなのかさっきのチョップの仕返しなのか。
わからないくらい痛かった。次覚えてろよ。
「じゃ、行くわ」
「お達者でー」
日野から迎えに来たとの通知がスマホに届いたので、短く挨拶を交わして退場することにする。
外に出た瞬間、春霞の白さが視界いっぱいに広がった。
まぶしさに目を細めて、こちらに近づいてくる日野に軽く手を振る。
職員さんと駐車場までわらわらとついてきた子どもたちに見送られて、わたしは助手席に乗った。
行き先はもちろん、日野の住むマンションだ。
「さ、着いたよ」
駅ロータリーに面した、地上15階建ての分譲マンションがこれから生活することになる住まいだ。
少し散歩しようということで、車を降りて日野に続く。
「残念ながら、先生の春休みは数日で終わりなんだよ。明後日からまた出勤なのです」
「教員ってほんと激務ね」
着いた場所は、すぐ隣の東口駅。
交通広場に植樹された桜の木の前で、日野は歩みを止めた。
見上げて、スマホを構える。
少し若葉が見えてきた枝が涼風に揺れて、ほろほろと薄紅色のシャワーが降り注いだ。
「よかった、まだ散り際で」
「あと一週間遅かったら新学期に間に合ったのになぁ」
「んーん、むしろ今日で都合がよかったよ」
意味深なことをつぶやいて、日野は連れてきた目的を説明する。
「入学式……は1年過ぎてるけどね。ここで写真を撮りたかったんだ。せっかく桜が咲いているのだから」
「いいけどSNSには上げないでよ。数字取れないから」
「気にするポイントそこ?」
日野に突っ込まれつつ、白い絨毯と化した歩道へと立つ。
ちょうど風に煽られた花びらが舞って、何気なく開いた手のひらへと着地した。
おお、縁起がいい。
ハンカチで丁寧に包んで、崩さないようにバッグへと入れる。
ポーズはお好きにーとスマホを構え始めた日野へと、ふと思いついて口にした。
「1枚撮ったら、次こっち来てよ」
家族ってそういうものだよね、と付け加えて。
日野が気を良くしそうな台詞を言ってみただけだ。べつに他意はない。
日野は今日一の笑みをほころばせて了承してくれた。
子供みたいにその場で飛び跳ねながら。
どっちが年上なんだか。
「自撮りって難しいなぁ」
「あーちょちょ落ちる落ちる」
ぷるぷる腕を震わせて、いまにもスマホを落としそうな日野を危うげに見守る。
言い出しっぺのくせに、わたしは自撮り棒を持ってない上ツーショットを撮ったこともなかった。
交代するも、ファインダーに収めつつシャッターを切るタイミングがつかめない。
さっきから何度もブレてやり直してるもんだから、顔も肩もカチコチだ。
明日の筋肉痛は避けられないだろう。
「あの」
ふいに、背後から声がした。
年若い少女のものだ。
「よろしければ、代わりに撮りましょうか」
見かねた末に発したかのような、おずおずと控えめな声調だった。
機械の操作に四苦八苦する年寄りみたいに見えていたのだろうか。恥ずいな。
でもこのまま駅前でわちゃわちゃしてても邪魔になるから、できないものはできないと認めるべきなのだろう。
「すみません、お願いしてもよろしいでしょうか……」
諦めて、第三者の手を借りることにする。
振り返って、親切に申し出てくれた女の子にスマホを差し出そうとして。
わたしたちは同時に固まった。
「意外な組み合わせですね。おふた方が、そこまで仲がよろしかったとは」
「え、
視線の先には、あろうことかクラスメイトが立っていた。
同居初日にさっそくバレるとか漫画かよ。
「奇遇ですね、日野先生」
「あ、ああ。そうだね……」
短めの黒髪を揺らして、淡々と
なぜ、クラスメイトが教師と春休みにツーショットなんぞ撮ってるのか。
山葉さんからすればナニコレ珍百系だろう。
「光岡は私の従妹なんだ。今日は遊びに来ていてね」
ちらっとわたしの方を見て、日野が端的に状況を説明する。
里子って言っても信じてくれなさそうだから、ちょっとフェイクを混じえて。
「そうですか」
めっちゃ興味なさそうに山葉さんは聞き流すと、スマホを構えた。
そらそうか。
駅構内から出てきたってことは、この街に用事があって訪れたんだろうし。
さっさと済ませたい雰囲気が伝わってくる。
深入りされないのはありがたいけど。
「では、撮りますよ」
そのまま滞りなく撮影は済んで、また新学期にお会いしましょうと残して山葉さんは去っていった。
1年同じ教室にいたくせに、どんな子だったか全然記憶になかったけどすげークールな子ってことだけは分かった。
ちゃんちゃん。
マンションに戻ると、お茶にしようかと日野が冷蔵庫からケーキを取り出し始めた。
「駅前通りに最近オープンした店なんだけどね。これが絶品なんだ。行くといつも混んでて」
「へえ、期待」
「種類は定番のショートケーキにしてみたけど……これでよかったかな?」
「美味さよりもウケ狙いの食べ物じゃなけりゃ、なんでも食うよ」
「そーかそーか。好き嫌いがないのはいいことだ。より美味いものに出会える確率が広がるからね」
かつて偏食が酷かったことは黙っていよう。
つくづく、母親には迷惑をかけてばかりだったな。
「どうぞ」
白磁の真新しいカップに、香り高いコーヒーが注がれていく。
リビングはモデルルーム並みに片付いていて、来客を意識したセンスにあふれている。
テーブルクロスも、ランチョンマットも、ティーセットも、生花を挿した花瓶も、ドライフラワーの壁飾りも。
気分はカフェに訪れた客のようだ。
「いただきます」
ケーキは苺と生クリームのオーソドックスなやつで、口にするのは何年ぶりだろう。
フォークを入れて、一口を運ぶ。
とたんに、優しい甘さが味覚を包み込んだ。
スポンジケーキの柔らかさと、クリームのふんわり溶けていく食感に両目を見開く。
糖分が控えめなので胸焼けすることもなく、苺の甘酸っぱさを引き立てている。
日野が絶賛するのも納得の味だった。
「うま……」
「だろー?」
へへっと、勝ち誇ったように日野が肩を揺らした。
それから大きめに切ったケーキの欠片を口にして、んーと歓喜の声を漏らす。
一緒に食事したときに知ったけど、日野は美味しいものを食べたときの反応が分かりやすい。
食レポを求められた芸能人のように全身で美味さのリアクションを取って、幸せそうに目を細める。
なのに一連の動作にわざとらしさがないのは、食べることが心の底から好きなんだろう。
食べ進めていくうちに、脳裏には懐かしい光景が浮かび上がってきた。
小学生の頃、何度か同級生の家にお邪魔する機会があった。
お金持ちの家に行ったときの記憶は、今でも鮮明に思い出すことができる。
門がくそでかくてだだっ広い庭があって、グランドピアノがでんと鎮座してたリビングは衝撃的だったな。
お母さんは意外と普通の方で、トレーナー姿にスウェットパンツという出で立ちだったけど。
ケーキなんて誕生日でしか食べられないものだと思っていたから、おやつに普通に出てきてお金持ちってすげーと思った。
優しいお母さんに、きれいなおうちに、豪華で美味しいお菓子。
前世でどんな徳を積めば、そこに産まれてこれるんだろうか。
ひとときのぜいたくを味わいたくて、その後もたびたびその家には訪れていた。
大好きな時間だった。
『ママから、あきちゃんはもう誘わないでって言われたの』
次の友達も、また次の友達も。
欠けた愛を他人の家庭に求める迷惑な問題児のまわりには、いつしか誰もいなくなってしまった。
すべて自分のせいだ。
己の非常識さを理解するのには、数年の歳月を要した。
人様の家に行くときは手土産を持参することも。
冷蔵庫を勝手に開けたり勝手に歩き回ってはいけないということも。
ご飯の時間までには帰るということも。
きちんとお礼を言うことも。
わたしはなにひとつ知らなかった。
「…………」
コーヒーの芳しさが鼻に抜けて、舌先には苦味と酸味が残される。
封印していた黒歴史が呼び醒まされたからなのか、鼻の奥と喉が熱い。
胸がいっぱいに詰まって、こみ上げてくるものがある。
バカか、わたしに泣く権利なんてないのに。
泣きたいのは当時迷惑していたお母さん方だろうに。
戒めても、己につける感傷はさらに涙腺を刺激するだけだ。
だめだ、こぼれる。
ハンカチで拭おうとしたけど、あれにはまだ桜の花びらが包まれていたことに気づいた。
汚すわけにはいかない。
フォークを置いて、傍の可愛いケースに入ったティッシュに手を伸ばす。
ケーキ食いながら泣き出した変人と思われても仕方がない有様だ。
「ちょっと花粉症で」
ばればれの嘘をついて、これ以上空気を台無しにする前に席を立とうとした。
「彰子、おかわりいる?」
……へ?
あまりにも状況にそぐわない発言に、一瞬涙が引っ込んだ。
日野がでかいケーキの箱を取り出したもんだから、空気読めよと吹きそうになる。
ショートケーキ買ってきたんじゃないんかい。
パニクるわたしを、日野はまったく気にも止めない。
空になったわたしの皿に、新たにケーキが取り分けられる。
「この状態の人間におかわりって聞くか普通」
「え、もういらないってこと?」
「いや食べるけど」
癪だけど、食欲には嘘をつけない。
日野はだよなーと笑うと、脇にあったウェットシートを取り出す。
それから、わたしの目元に軽く押し当てた。
化粧を落とさないように、そっと伝う雫をシートに吸わせていく。
「泣きたくないのに泣いちゃう日も、笑っちゃいけないのに吹き出しちゃうときもあるでしょう。それが人間なんだから」
拭き方は優しく、迷いがない。
あっという間に不快な生暖かい感触は取り払われ、シートの冷たさが肌にひりつく。
「ほら、ちーんして」
次はティッシュを鼻に近づけてきたので、さすがにこれは自分でできるわいと抵抗した。
子ども扱いされているのに、優しい声と指が反発心を削いでいく。
それどころか、温かさに触れてふたたび喉が引きつっていくのを覚えた。
「ごめ、また」
「いいよいいよ。身体に溜めると毒だからね」
背中に、日野の手のひらがぽんと弾む。
アスカとは比べ物にならないくらい優しいのに、どこか力強さを感じた。
顔に出ていたのか、日野の声が優しさを帯びていく。
「もうちょっとこうしていようか」
今はあく抜きをするべきなのだろう。
そう身体も言っているのだから。
小さく頷くと、無言で腕が伸びてきた。
かすかに震えるわたしの背中に、温かい手が何度も行き交う。
日野が言う毒素をぼたぼた垂らしながら、鼻をちんとかんだ。
情けない光景なのに、丸まった背中はなかなか正せない。
甘えてるのか、わたし。
母親の虚像に飢えていた幼少期と変わっていないことを自覚させられ、かあっと血がのぼっていく。
でも、あの頃と違うのは。
友達のお母さんはどこまでいっても他人でしかないけど、目の前の女性は他人から自分のために親代わりになってくれた人だと言うこと。
わたしが泣き止むまで、日野は優しく背中を撫でてくれた。
「んー、やっぱり甘いものは格別だね」
新しく切ったケーキにぱくついて、日野が頬を緩ませる。
ささやかなぜいたくに目を輝かせる姿が、顔も思い出せない級友とだぶった。
きれいなおうち、おいしいお菓子、優しいお母さん。
切り取られた楽しかった頃の記憶が今と重なって、塗り替えられていく錯覚を感じる。
胸に淀んでいた痛みは抜け落ちて、とっくに目元は乾いていた。
そうだ、ここからわたしは変わるんだ。
よい関係を築き、普通の暮らしを手に入れるための一歩をいま踏み出そう。
みじめだったあの頃の自分とは、いい思い出を作って少しずつおさらばしていくんだ。
「……おいしい」
枯れた喉に、甘味を補給する。
2個目のケーキは、ちょっとしょっぱかった。
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