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番外話 ふたりだけのやくそく 前

※亡くなった次男エーリクと、その護衛騎士ダニエルの話です。ダニエル視点で。

(47話 どろどろと 直後の様子から)



 迷いなく駆け去って行く足音に、理不尽だとわかっていても嫉妬する。エーリク様は、もう走ることもないというのに。

 昔からそうだ。少しずつ、と勉学も嫌がらず頑張っていたエーリク様を、レフィ様は軽々と追い抜いていった。「レフィはすごいね」って弟を褒めながら、彼が部屋から去った後に小さくため息をつくのを何度耳にしただろう。


 身体を起こしているのが辛くなって、血だまりのできた地面に横たわる。

 風の音が心地よく感じるくらいには、静けさが戻ってきていた。

 どうして踏み出してしまったんだろう。崖から突き落とそうとしたのは自分じゃないか。斬られるのを黙って見ていればよかったのに。

 ……それをエーリク様が望まないのだとしても。

 笑いがこぼれる。いつまでも、囚われている自分に。


 もういいだろうか。レフィ様を身をもって助けようとする騎士が現れたから。

 その騎士を、レフィ様も助けようと手を伸ばしたから。

 自分が成したくて出来なかった関係をそこに見てしまったから……エーリク様。本当に、腹立たしいですね。あなたの弟は――



 * * * * *



 病弱な次男の護衛騎士にと任命されたのは、おそらく若かったから、というのもあるのだろう。『冷血宰相』の血筋だと遠い親戚のことを揶揄する輩もいるが、その分真摯に努めようとは思っていた。

 一つ年下のレフィ様がいかにも子供らしい様子なので、エーリク様が羨ましそうにすることもしばしば。そこに次男と三男の違いがあることは、どうしようもないことなのだが、子供たちに大人の理屈は通じない。


 エーリク様の勉強中に駆け込んできて、庭で捕まえたと色々な虫を持ち込んでは侍女たちに悲鳴を上げさせたり、エーリク様の解いている問題を横から覗き込んで「わかった!」と奪い取って解いてしまったり。街や川で遊んだ様子を嬉々として語る様子は、部屋からあまり出られないエーリク様のためを思ってのことなのだろうが、時にエーリク様をひどく落ち込ませた。


「もう、レフィがになればいいのに」


 そういう意見があることも知らないままに、頬を膨らませてそう言うエーリク様が痛々しい。跡継ぎは長男だ。イアサント様は特に問題なくその道を進んでいる。もしもの時のスペアなど、誰でもいいだろう。

 でも、どうだろうか。レフィ様にその役が回れば、エーリク様は今ほど他の人間に気にかけてもらえるだろうか。身体が弱いというだけで、頭の回転も気性も他の兄弟と変わらないと思う。レフィ様もそれがわかっているから、病弱な兄の元に通ってライバル視するような言動をするのだ。

 切磋琢磨していけるのなら、それがいい。

 幸い、ご両親もその点では差別などしていない。

 もう少し成長すれば、きっと体力もそれなりについてくれる。そうしたら、軽やかに動けるレフィ様が助けてくれることだろう。


 それも、もしかしたら口惜しいと思うのかもしれないけれど。


 ままならぬ自分の身体と、複雑な立場を抱えながらも、エーリク様はあまりわがままを言わなかった。時に落ち込みながら、自分にできることをしていこうと前を向く、少し大人びた子供だった。

 だから、自分も彼と共に生きようと、二人だけの時にそっと忠誠を誓ったのだ。命ぜられたからここに居るのではないと、知ってほしかった。

 わがままをぶつけられても、そんなことで揺らぎはしないと。

 揺らぎはしないと……思ったのだ。




 エーリク様の七つの誕生日を迎える直前だった。寝込む回数も減ってきて、そろそろ本格的に跡取り教育を始めようと、周囲も前向きだった。穏やかな冬の足音からの急な冷え込みで、体調を崩すものが増えたかなと思っていたら、それはあっという間に広がった。

 高熱が何日も続き、命を落とす者も多い。ごく初期に家の侍女が咳をしていたので、大事を取って他の任務に振り替えてもらって正解だった。まもなく高熱を出し、一週間ほど寝込んでしまった。しっかりと治して復帰すれば、すでに城の下働きの半数以上がかかっていて、あちこちで手が足りなくなっている。


 エーリク様にうつらないようにと気をつけてはいたけれど、病魔はやすやすと退けられるものでもない。とうとう咳をし始め、あっという間に熱も上がっていく。同時期にレフィ様も熱を出したので、手の足りない中、無理をして働いていた者がいるのかもしれない。一度罹ったものは罹りにくいようなので、できるだけエーリク様のお傍にいるようにしていた。

 咳がひどく、また、夜の方が症状がひどいので、ひとときも目が離せない。五日ほどで熱の下がったレフィ様と違い、エーリク様の熱は七日すぎても八日すぎても、まだ高いままだった。


 うなされ、咳き込み、浅い眠りでうわごとを呟く熱いエーリク様を、時に抱いて背をさすり続けた夜も一晩や二晩ではない。

 ヒューヒューと、か細い呼吸音の合間に見上げられ、「ごめんね」と気を使われるのがどんなに辛かったか。辛いのも頑張っているのも、エーリク様だ。


「……代わって差し上げられれば、いいのですが」


 そう言った私に小さく微笑んで、少しの間まどろんだエーリク様は、腕の中でうわごとのように、寝言のように囁いた。


「……このまま息が止まっちゃえば、らくなのに、ね。ダニエル、ぼくが、ほんとうにつらいとき、おねがいしたら……きいて?」


 背筋が冷えるようなことを聞いた気がして、思わずエーリク様を見下ろしたけれど、彼はもう浅い眠りに落ちていて、とても聞き返す気にはなれなかった。

 身も心も弱っているのだ。少し眠れば、忘れる。気の迷いだ。

 私は必死に自分に言い聞かせたのだと思う。若かったし、疲れも溜まっていたし、何よりそう思い込みたかった。エーリク様もレフィ様も、そんな状態の時に思っていないことなど口にしはしないと、知っていたのに。


 九日目か、十日目、イアサント様とその周辺の者が数人一気に熱を出して、城内は対応に追われていた。エーリク様から目は離せないが、交代の人員もいない。さすがに時々ぼぅっとしながら、身体を拭いたり、水分を取らせたり、進まない食事を(固形食は受け付けないので、離乳食のようなものだ)回数を分けてとらせたり……それも、夕方になって熱が上がってくると、ほとんど受け付けてくれなくて途方に暮れていた。砂糖を加えた水くらいしか口にされていない。


 咳がひどくなり、背にクッションを入れたりして楽になる形を模索する。どうにか眠りに入ってくれたのは、もう日付もとうに変わった夜中だった。常に苦しそうな呼吸音は聞いている方も苦しくなる。きっとまたすぐに起きてしまうからと、片付けと、水を変えたり、着替えを用意したり、自分の食事も、できるだけ静かに済ませていた。


 少し座ってうとうとしていた時、咳き込む声に目を覚ます。だんだんひどくなり、丸める背中を抱え込むようにしてさする。すがるように伸ばされた手が、私の服を掴むので、そのまま抱きかかえた。熱い身体は咳き込むことでさらに熱くなり、小さな体はどこまでも軽い。

 咳が止まらないままにえずいて、エーリク様は吐き戻した。胃の中にはほとんど何もないのだろう。ほぼ水分と胃液で、吐くものもないのに、衝動は治まらない。息の吸えない様子に、背をさすりつつ、焦りながらもできるだけ穏やかに声をかけた。


「ゆっくり、少しずつ、吸ってください。大丈夫、大丈夫ですか……」

「……け、て」


 大きく肩で息をしながら、ようやく衝動が治まれば、エーリク様は潤んだ瞳で見上げてきた。


「たす、けて……だにえる……もう、いい。もう、いや、だ。ゆっくり……ねむり、たい」


 頭の芯が一気に冷えた。疲れていたからだろうか。以前の話を思い出してしまったからだろうか。言葉通りの意味にどうしても取れなくて、私はいっとき、その言葉を完全に無視した。


「着替えましょう」


 一瞬、エーリク様の瞳が絶望に沈んだ気がしたけれど、私は淡々と彼を気替えさせ、汚れを拭き、ベッドに戻して自分も着替えた。

 その間も、咳は断続的に続き、呼吸は乱れていく。

 その合間合間に、エーリク様は独り言のようにずっと囁いていた。


「レフィは、元気になったのでしょう?」「気をつかって、あんまりこないけど」「兄さまも、大きいから、すぐよくなるよね」「ねえ、ダニエル」


 ベッドの傍に戻れば、エーリク様は返事をしない私に冷たく微笑んだ。


「主人の命令は、ぜったいだよね。今夜なら、きっとバレないから」


 時間を置けば、少し冷静になってくれるのではないかと思ったけれど、エーリク様は熱に浮かされ、咳き込み続けながら、もうずっと考えていたのだ。覚悟を決めた顔は、鏡で見る自分よりも大人びて見える気がした。

 小さな手が、私の手を掴み、自分の首へと導いた。


「……できません」

んだよ? ダニエルにしか……頼めない……」


 けほけほと湿った咳をする喉の震えが伝わってくる。ひゅー……と少し長い息を吐いて、「ね?」と、エーリク様は横たわったまま、少しだけ首を傾げて、かすれた声で続けた。


「ぼくがしんだら、レフィが大変だと思うんだ。でも、レフィはがんばりやだから……きっと、だいじょうぶ。ダニエルは、レフィをたすけてあげてね。やくそくだよ? もちろん、今夜のことはだれにも言わないで。レフィだってぼくがそんなことを言ったって知ったらいやがるから」


 自らの手を重ねて、エーリク様は促すように力を入れていく。病気の子供の力など、いくらでも跳ね除けられただろう。けれど、その日の、この世に誰もいないような静けさや、命令だという囁き、そして、もうエーリク様の苦しむ姿を見たくないという自分勝手な思いが、いつの間にかその首に力を加えていた。

 苦しませたくはない。耳の下の太い血管を圧迫するようにすれば、すぐにエーリク様の手から力は抜けた。意識が落ちただけで、まだ息はある。そこで止めればよかったのだ。でも、意識がない時も続く喘鳴が、この先また何度も同じ夜を過ごすのではないかという恐怖を呼んだ。

 首からは手を離したけれど、額に乗せていた濡れたタオルで鼻と口を覆い、柔らかなクッションを上から押しつける。


 あまりにもあっけなく、部屋の中にも静けさが訪れた。

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