第61話 心配かけやがって
エルチェはすぐに馬を用意した。予定通りに裏口の傍へ繋ぎ、屋敷が寝静まるのを待つ。奥様の寝室のドアの下から打ち合わせ通りの簡単なメモを滑り込ませ、リラの寝室へと向かった。
今のところ、唯一の懸念は、リラがごねずについてきてくれるかどうかだ。
レフィならともかく、エルチェは彼女と過ごした時間が長いわけではない。騒がれる可能性も充分にあった。
わざと少し音を立てて部屋に入り込み、飛び起きたリラの口元に人差し指を添える。
「静かに」
ベッドサイドに屈みこむと、彼女にならわかるだろう単語を引っ張り出す。
「お嬢さん、ピクニックだ」
小さく息を飲んだリラは「エルチェなの?」と、声を潜めてくれた。第一関門は突破だと胸をなでおろす。
「時間がない。申し訳ないが、これに着替えてくれ」
用意していたメイド用の黒いワンピースを手渡して、着替えを促す。暗いとはいえ、その場にいるわけにもいかないので、廊下に出ていようと踵を返した。エルチェのその目に壁に掛けられたレフィの上着が飛び込んでくる。
――あいつ、これを着て俺になりきれというつもりじゃ……
などと一瞬考えてしまったけれど、さすがにそこまで考えてはいなかっただろう。リラが手元に置いておくかもわからないのに。
ひとつ頭を振って、それでも執事の服はメイドといてより目立たないだろうと拝借することにした。
「あ、の」
「そこにいる。いそいで」
あれこれを説明している暇はない。リラの言葉を遮って、エルチェはドアの外に出た。上着を脱いでレフィの上着に袖を通す。さすがにきつくて、どこかが破れる音がした。
黙って着替えて出てきたリラに心の中で感謝しながら、その手を掴んで裏口に走る。用意してあった剣を背負い、馬に飛び乗ると、リラを引き上げた。
乗馬も問題なくこなすようだったので、町を過ぎてからはきちんと彼女を跨らせた。後ろから抱え込むようになってしまうが、我慢してほしいところだ。と、エルチェは軽く断りを入れておく。万が一にも怪我などさせられない。
乗り潰す勢いで走らせ、途中で馬を変える。そいつも限界まで走らせたら、馬車に乗り換えた。
列車を使わなかったのは、なるべく人の目に触れるのを避けたかったからだ。
夜通し駆けて、さすがにエルチェも疲れていた。不安顔のリラには申し訳ないと思いつつも、「少し寝る」と宣言して目をつぶる。
しばらくして、近づく気配に反射的にそれを掴んだ。開いた目に映ったのが男だったら、おそらく引き倒していただろう。引きつった赤紫の瞳が見えて、エルチェはどうにかそれ以上力を籠めるのを踏み止まった。
「ああ……悪ぃ。気が張ってるもんでな。着いたら、上着は返すから」
リラが手を伸ばしたのはレフィの上着だ。エルチェが着ているのが嫌だったのかもしれないと……あるいは、レフィが恋しくなったのかと、エルチェは謝った。
「わ、わたしの上着ではありませんわ。その、ほころびが……気になっただけで……まだ、遠いんですの?」
リラは慌てたように言い訳をして、窓の方へと視線を逸らす。エルチェはカーテンの隙間から外を眺めて、だいたいの位置を確認した。夕方には宿泊予定の街へ着くはずだった。
「もう少し」
予定通りに馬車は着き、次の日の昼過ぎには、秋に使った丸太小屋の前に立っていた。すこし呆然とするリラを促して中へ入る。
以前よりも、もう少しだけ部屋は整っていた。着替えも暇つぶしになるような本も、レフィの指示でローズが用意してくれていた。リラがそれらを確かめるように見回っている間に暖炉に火を入れてしまう。
戻ってきてソファに腰を落ち着けたリラは、エルチェの作業が終わるのを見計らって質問を投げかけた。
「ここは本当は誰の家なの?」
「誰のでもない。クローゼットの中身も本も、レフィが見立てたお嬢さんのためのものだ。間違いはないと思うが、気に入らないものは捨ててしまえ」
「レフィが……じゃあ、レフィは……!」
ここに居るのかと言外に問われ、期待に応えられない自分に落ち込みながら、エルチェは首を振る。自分がついていたなら、確実にリラの元にレフィを届けてやると言えるのに。後ろめたい気持ちを誤魔化しつつ、エルチェは上着を脱いでリラに放った。
「ここにはいない。ほとぼりが冷めるまで、おとなしくそれでも繕っててくれ」
「ほとぼりって……」
「すぐ終わる……はずなんだがなぁ」
あちらの様子はすぐにはわからない。パトリスが連絡を繋いでくれるはずだったが、ずれが生じるのは仕方のないこと。リラの安全が第一だった。
気を取り直して、リラに注意事項を知らせておく。
「丘の上には行ってもいいが、俺の家を越えては一人で勝手に行かないでほしい。レフィに頼まれているから、その先へひとりで行動されると俺が叱られる。田舎だし、この辺りには畑しかないから迷子になられても厄介だし……数日のことだと、思うから。散歩したいなら明日でも付き合うから言ってくれ」
「レフィがそう言ったのね……」
頷けば、リラはあっさりと「わかった」と頷いた。
「食事は俺が運んでくる。あまり火を使わせたくないらしい。茶のお湯を沸かすくらいはできるだろうが、料理できるほどの道具は揃ってないんだ」
「あ……えっと、それは、助かり、ます……」
視線が泳ぐ様子に、料理はあまりしないのだろうなと予想がついた。侍女をひとりも付けてやれないのが少々申し訳なくなる。長引くようなら、ローズに掛け合ってみようとエルチェは頭の中でチェックをつけた。
「前みたいにうちで食べてもいいんだが、二人きりだと気まずいだろうから、そういう感じで。基本は夕方に朝食分も届けることになると思う。という訳だから、俺は今日の分を作りに帰るな」
「え! あ。……はい」
「疲れただろうから、とりあえず休んでくれ。あと、一人の時は鍵をかける癖をつけてくれ。俺は声をかけるから」
エルチェがドアの内カギを指しながら振り返れば、リラは小さく頷いた。
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