第52話 忘れていたような

 スムーズに話は進んだのか、レフィは一時間ほどで部屋から出てきた。次の予定があるので、二人はそのまま玄関を出る。パトリスとレフィがもう一度握手を交わしていると、庭の奥から可愛らしい声が近づいてきた。


「パーパ! 見て見て!」


 頭に乗せた花冠を手で押さえながら、亜麻色の髪にはちみつ色の瞳の女の子が駆け寄ってくる。三歳くらいだろうか。かなり近づいてから、ようやく客の存在に気付いたようで、表情をこわばらせるとパトリスに飛びつくようにして顔を伏せてしまった。


「こら。お客様の前に出てきたのなら、挨拶は?」


 いやいやをするように振られた頭から花冠が落ちる。エルチェはそれを拾い上げて、少し迷ってからレフィに差し出した。レフィは肩をすくめながらそれを受け取る。


「君が渡せばいいじゃないか」

「泣かれるんだよ。こういうのは、王子様の役目だろ」

「……おうじさま?」


 興味を持ったのか、パトリスの足に埋まっていた顔が離れる。その後頭部、少し横にずれて斜めに、まだ花がついていた。顎の辺りで揃えられた細く柔らかそうな髪に、オレンジのバラの髪飾りが留めてあるのだが、今にも落ちそうだ。

 そぉっと振り返りかけた女の子のその髪飾りに目を留めて、パトリスは苦笑した。


「またママンの髪飾りを勝手につけて」

「もう少しかみがのびたら、くれるっていったもんっ」

「落として失くしたら、ママンが泣くよ? だから、花冠を作ってくれたのではないのかい?」


 思い出したというように振り返る女の子の前に跪いて、レフィは手にした花冠をその頭に乗せてあげた。


「とてもお似合いですよ。レディ」


 すっかり硬直して真っ赤になっている女の子の髪から、パトリスはそっと髪飾りを外していた。一歩引いて女の子の視界から外れるようにしながら、エルチェは控えめに子を呼ぶ母の声を耳にする。視線を向ければ、綺麗に刈り込まれた植え込みの向こうで腕に幼子を抱いた女性が足を止めた。


「ママン……! 見て! おうじさまが……!」


 母に向かって駆けて行く小さな背中を見送って、エルチェは小さく頭を下げる。レフィは立ち上がってひらりと手を振った。


「ママン、おうじさまとおともだちだったの?」


 ローズが会釈で応えたので、女の子は不思議そうに振り返る。よく響く子供の声に、パトリスは苦笑しっぱなしだった。


「どうしてくれるのです。信じてしまった。女性の気を引くのがお上手だ」

「やれと言ったのはエルチェだ。苦情はうちの騎士に頼みます」

「は?」


 一瞬、素になりかけて、エルチェは咳払いひとつで誤魔化した。


「なるほど」


 パトリスは意味ありげに笑うと、手の中の髪飾りに視線を落とした。


「今度ご教授願いたいものですね。商売にも役立ちそうだ」

「そうでもないですよ。浮いた話は聞こえてこないので」

「レフィ様が、お止めしているのでは?」

「そんなことは……ないのですが」


 レフィが爽やかに笑うので、エルチェはあり得るのかもと息をついた。エルチェがレフィへの取次ぎを断ることはよくあることだったけれど、レフィに忠誠を誓ってから、マラブル卿が何度かレフィを訪ねている。自家を売り込むことに余念のない彼のことだ。レフィへの縁談だけじゃなく、エルチェにもと話を持ってきていてもおかしくはない。手のひらを返したように好意的に近づく彼は、わかりやすいと言えばそうなのかもしれなかった。


 会話の切れたところで、今度こそ場を辞する。

 馬にまたがると、次の街へと向かった。



 *



 コリーヌ地方から海側に走ると、やがて景色が一変する。長閑な畑や牧草地帯から、住宅が立ち並び、海の傍には煙吐き出す高い煙突や、太さの違うパイプの巡らされた建物が、夕陽に鈍く光っていた。

 街には活気があふれ、高級店もちらほら見える。夜の街に繰り出す人々の顔は明るい。

 エルチェの育った町も、ここから近かった。実入りのいい製鉄所勤務の者たちが住み、お金を落としてくれるので、活気もあったしその分治安も少々悪かった。

 大きな河口を遡っていけばその町にも着くのだけれど。


 製鉄所を含む海岸近く一帯はプラージュ子爵オディロン・バリエの治める地域だが、実権を握っているのは製鉄所所長のヒューブだ。彼は貴族並みの財力と暮らしをオディロンの陰で謳歌していた。

 不正も搾取も掘ればあるのだろう。だが、今回のレフィの目的はそこではないようだった。


「宿はこちらでよろしいですか? レフィ様。指示通り私の名前でお取りしましたが……」


 アランと合流して少しだけいい宿に身を落ち着ける。高級宿でないのはレフィの指示だったけれど、自分たちはどうとでも、とは思っても、レフィに一般レベルの宿を供すことにアランは気が引けていた。


「いい。公務じゃないからな。目立ちたくない」


 すっかりトレードマークになっている鎖の付いた銀縁眼鏡も外していて、涼やかな見目は相変わらず周囲の目を引いてはいたが、同じ隊服に身を包む三人は身分の差を感じさせない。城下町ではよく知られた顔も、少し離れた町ではほとんど知られていないのだ。自ら名乗って歩かなければ、誰も気にすることはなかった。


「アランも、以前のように外では『様』はやめるように」

「……はい。懐かしいけれど、すっかり立派になってしまったから、なんだかレフィ君、とも呼びにくいね」

「呼び捨ててくれてかまわない。そこのバカは育っても相変わらずだし」

「まったく、羨ましいよ」

「うるせーな。全然褒めてねぇだろ。かしこまれるぞ? 王子様扱いしてやろうか? お背中流しますよ?」


 エルチェがさっとシャワー室のドアを開けて軽く角度の付いたお辞儀をすれば、レフィは顔をしかめた。


「騎士爵をもらって、生意気になったよね」

「エルチェだものね」

「やめろよ。くそっ。アランの新しい嫁の話でもしてろよ」

「それは藪蛇じゃない? エルチェ、ローズに会ってきたんだろ?」

「なんか、カッコつけてた」

「つけてねぇ!!」


 そんな気安い会話も挟みながら、翌日のスケジュールを確認する。午前中に製鉄所を見学して、昼食を所長と共にする予定だった。プラージュ子爵(オディロン産業大臣)は別の予定があるので参加しない。というか、彼の予定の入っている日に企画されたのだった。

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