第48話 たんたんと
人間、意外と丈夫なものだ。
腕と肋骨に罅を入れて、打ち身、擦り傷、切り傷多数。そんな程度でエルチェは助かった。大樹の枝に優しく受け止められて……などというメルヘンチックなこともなく、そこそこ太い枝までへし折りながら地面まで落下した。
痛みに息が止まり、しばらくは動けなかったけれど、思ったよりも早く自分を探す声が聞こえきて、エルチェは安心したように意識を失った。
次に目が覚めれば病院で、いるはずのない母の顔を見て、エルチェは一瞬、何もかも夢だったんじゃないかと思ってしまう。傍にベルナールもいたので、少しばつの悪い思いをしただけで終わったのだけれど。
そのベルナールから、炭鉱は沈圧済みだと聞いた。
発破のための火薬で騒ぎを起こし、混乱に乗じて鉱夫たちは逃げ出した。犯人たちの一部は埋まったらしいが、掘り出すのは当分先になりそうだとベルナールは息をつく。
管理棟はブノワたちが力押しで取り返したそうだ。
「怪我が治れば、騎士の叙任を受けさせてもいいという話になってるぞ」
どうする、とエルチェの母の前で訊くベルナール。
「レフィ様は」
「一緒に叙任を受けるかとイアサント様が打診していたが、断っていたな。まだ早い、とさ」
無事かどうかを訊いたのに、全然明後日の方向の話をされて、エルチェは言葉に詰まる。無事ということは確認できたので、先の質問に答えることにした。
「……俺も、早いと思います」
「そうか?」
エルチェが頷けば、ベルナールはひとつ息をついて苦笑した。
「あくまでもレフィ様に合わせるのだな」
「……そういう訳では……」
何もできなかったことに変わりはない。崖から飛び降りて騎士になれるのなら、いくらでも飛び込むやつがいそうだ。エルチェはそんな風に思っている。
「わかった。まずはゆっくり治せ。思ったより軽く済んで良かった」
ベルナールはエルチェの肩を叩こうといつものように手を上げたが、その満身創痍ぶりに気付いて向きを変え、エルチェの母と会釈を交わして病室を出て行った。
レフィがエルチェを見舞ったのは、五日ほど経ってからだった。
打ち身の痛みが引いてきて、病院生活に退屈し始めた頃だ。病室を抜け出して勝手に散歩していて見咎められたエルチェが渋々病室に戻ると、ベッドに腰掛けている人間がいた。
置かれていた見舞いのカゴから勝手にひとつオレンジを手にして、放り上げては受け取っている。組まれた足と、鎖のついた銀縁の眼鏡が嫌みなくらい似合う青年になっていることに、知っていたはずなのにもう一度気付かされて、エルチェはうっかり顔をしかめてしまった。
「……なに、その顔。体を張って助けた相手だろ? もう一度会えて嬉しくないの」
「元気そうで何よりだよ」
「そっちも。もう出歩いていいの?」
「怒られたから戻ってきた。ひとりか?」
供の姿が見えなくて、エルチェは廊下の奥まで見やってしまった。
「見舞いを持ってくるの忘れたから、買いに行かせた。まあ、座れば」
まるで自分のベッドのようにエルチェのベッドを勧められて、納得いかないまでも従う。レフィは備えついた小さな棚の引き出しからナイフを取り出して、適当に椅子を探し当てるとそれに座り直した。
器用にオレンジを剥いていく。
「……ダニエルは?」
「さぁ。片腕を失いかけてたけど、置いてきたから。みんな忙しかったし、発見が遅れてたらわからないな」
「それで、よかったのか? 答えとやらを聞けた、から?」
レフィは手を止めて、アイスブルーをエルチェに向けた。
「墓場まで持って行くって。持って行ったんじゃないか?」
凍った湖の表面のように、揺るがないその色が少し哀しくて、エルチェの方が目を逸らす。
「……何を聞いたんだよ」
ダニエルの、レフィに向ける感情がひどくブレていたのが気にかかる。守りたいような、殺したいような、相反するものが混じり合っていた。
レフィは病室のドアの外を気にして、オレンジを剥く手をまた動かしながら声を落とす。
「『エーリク兄さんの
淡々と、今と同じ調子で訊いたのだとエルチェは直感した。内容まではわからないはずなのに、聞いた瞬間より時間が経てば経つほど背中が冷えていく。
病気でままならない体。熱に浮かされ、肺を病んで息苦しい夜。命令に逆らわない騎士。揃ったものから、10歳の子供が他の誰も思いつかなかったことを口にして、当人はもっと凍えるようだっただろうか。
「だから、レフィはあいつを許したのか?」
「馬鹿言うな。許してなんかいない。でもそれは彼自身もそうだろうし、僕が同じ立場だったら解ってしまう気がしたから……だから訊いたんだけど。忠義者は頑固だね。わからず仕舞いだ」
誤魔化すように少しおどけて、レフィはオレンジを剥き終えた。ナイフでスマイル型に切り取った一口分を自分の口に放りこむ。もうひとつ、と、リズミカルに手元は動いて、あっという間にオレンジは無くなった。
「タオルある?」
「剥いてくれるんじゃねーのかよ!」
「欲しかったの?」
キョトンとした顔がまだ少し幼く見えて、殺意と共に仕方ないなという想いも湧いてしまう。崖の上でお互いに手を伸ばすくらいには、言わなくても繋がるものはあるのだろう。けれど、それに甘えていては、いつか本当に命を落としてしまうかもしれない。好きでそうなった訳ではないだろうが、自分はダニエルのようになってはいけないのだ。たぶん。エルチェはそれだけを胸に刻んだ。
「だいたい、俺の見舞いの品だろ? 何勝手に食ってんだよ。もう一個剥けよ」
「やだよ。僕はもう満足した」
「……は?」
「もうすぐアランが戻ってくるから、アランに剥いてもらえばいい」
「お……っま……何しに来たんだよ!! 帰れ!!」
エルチェの剣幕に、レフィは綺麗な顔で笑った。
「ああ。元気そうでよかった。バカは殺しても死なないって実証できて安心した」
危うく病院で乱闘事件が起きそうだったのを、アランが死ぬ気で止めたことは、あまり知られていない。
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