第47話 どろどろと

 レフィの指先は、袖の縫い目に引っかかってようやくエルチェを支えているという有様だった。どこかに力を入れれば、レフィも一緒に落ちかねない。ずきずきいっている肩も、引き上げるなど無理だと悲鳴を上げそうだった。


「……レフィ、離せ」

「うるさい」

「お前じゃ無理だ。一緒に落ちるぞ」


 支えているのがエルチェだったら、ひとりでもレフィを引き上げられただろう。応援を待つのも、ここに二人きりだったなら考えたかもしれない。

 けれど。

 エルチェは、崖から飛び出したときに見えた光景をもう一度確かめるためにそっと下を向く。

 どのくらいの高さなのか、木々が生い茂っていて地面が見えない。が、少なくとも切り立った崖ではなく、斜面か段になっているのだろう。梢の位置はエルチェの足先からまだ二、三メートル先だが、運が良ければ枝が受け止めてくれる。

 

 エルチェはとっくにレフィから手を離している。震え始めたレフィの手から力が抜けてしまうのも時間の問題だ。


「お前より、俺の方が丈夫だ。心配ねーよ。そこにはお前だけじゃない。身を護れ。腕を使い物にならなくさせるな。さっさと片付けて、早く迎えに来い! 俺を、何も護れなかった騎士にするんじゃねーよ!!」

「……ほんと、バカ」


 ふっと口元を緩めて、アイスブルーが一瞬揺らぐ。その向こうに人影を感じた。


「レフィ」

「君はまだ騎士じゃないし、今はの従者でもない。に命令するなんて、百年早い、よっ!」


 その力がどこに残っていたのか、振り上げるようにエルチェの腕を放って、レフィは身体を転がした。ダニエルかと思った人影は金髪ではなく暗い髪色の兵士のものだった。舌を打ちつつ、エルチェにはどうしようもない。落下までのわずかな滞空時間に、エルチェは崖を蹴りつけて少しでも岩壁から距離を作る。緑の中に落ちるように、身体を捻った。



 *



 崖の上では、兵士が痛む頭をさすりながら立ち上がるレフィを睨んでいた。先ほどまでレフィが転がっていた位置に剣が杖のように立っている。よろりと向きを変える様子は、エルチェに殴り付けられた衝撃がまだ残っているのだとレフィに知らせた。

 レフィがダニエルをちらと確認すれば、彼もまた立ち上がろうとはしていたが、その腕や足には血が滲んでいる。


「ダニエル、この襲撃にお前は絡んでいるのか?」


 ふっとダニエルは口元を歪ませる。


「襲撃には絡んでませんよ。には誘われましたけど」


 舌打ちをして、兵士の殺気が濃くなる。


「もう黙っていろ。勝手に動きやがって……こいつが憎いのはわからないでもないが、あの爆破は何だ? お前だろう!」

「さてね……ガスでも出たんじゃないか?」

「のらりくらりと……くそ。まあいい。ここで失敗しても、邪魔者をひとり潰しておけば、先々も楽になるというもの……!」


 逃げられるかと思ったレフィは甘かったようだ。ダニエルが登ってきたけもの道を塞ぐように移動して、落ちていた曲刀を拾い上げた。

 まだ揺れる兵士の剣筋を見極めてレフィは右に左に避ける。


「私は、協力する、と返事をした覚えはないけどね。何よりも優先すべき約束がある。忌々しいことに……」


 ほんの、軽い動作で、ダニエルは曲刀を兵士へと投げつけた。兵士は慌てて後ろへ下がる。地面へと突き立ったそれを見ながら、ダニエルはレフィへと顎をしゃくった。


「おまえ……!」

「幼少期をぬくぬくと育てられた、知略を巡らす跡取りのスペア、なんだろ?」


 ダニエルの嫌味な笑いを睨みつけて、兵士は剣を構え直す。曲刀を手にしたレフィは、先に飛び込んで剣を持つ手を狙った。突きを躱され、少し下がった兵士にレフィは追撃をかける。軽い金属音が続いて、黙って見ているダニエルが眉をひそめた。


「……助けようなんてするから……」


 微かな呟きは、打ち合う二人には聞こえない。

 相手の剣を受けるレフィが顔を歪める。微かに震えている曲刀は、ぐるりと返された刃に弾かれて宙に浮いた。

 上向いた剣が振り下ろされる。とっさに身を引いたレフィの前に、浮いた曲刀に伸ばす腕が見えた。子供が蝶やトンボを追いかけるかのように、それしか見えていないような顔が続く。


「……ダ……」


 斬撃に一瞬ふらついて、それでも踏み止まり、ダニエルは腰から身体を捻る。曲刀は疑問と驚きの表情を浮かべた兵士の首を半ばまで断ち切った。

 そこまでとばかりに、ダニエルも膝から崩れ落ちる。

 斬られた左腕は辛うじてそこに繋がっている程度で、見る間に血だまりが出来ていった。


「ダニエル! 本当に、どうしたいんだ!」


 止血のためにベルトを外そうとするレフィの手を、ダニエルは止めた。


「放っておいてください。もういい。貴方に庇われるのももう辛い」

「庇ってるんじゃない。質問の答えを聞くためだ」

「お答えできません。エーリク様との約束です。ああ……羨ましい……妬ましい。私も、彼のようにエーリク様と代わってあげたかった……」


 そこにエーリクの面影を探すように、ダニエルはレフィの頬に触れた。


「代わってなどいない。アレはバカだから、そんなこと考えてない。そして、今は脳味噌まで筋肉だから、あのくらいじゃ死なない」


 くっ、と喉の奥で笑って、ダニエルは眉尻を下げた。


「ではなぜ無理をして彼の手を取ったのです……その肩を痛めていなければ、その腕にもう少し力が入れば、もっと簡単に切り抜けられたでしょう」


 黙るレフィにダニエルは少し深い息をついた。


「早く探しに行ってあげなければいけないのでは? 貴方に必要なのは私ではない」

「……そうだな。貴殿に必要なのも、じゃない」


 ダニエルに微かに浮かぶ笑みを見ないようにして、レフィは兵士の剣を掴むと、けもの道を駆け下り始めた。

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