第38話 ななつなさねば

 コートを受け取り、来た道を戻る。

 空は曇っているようだったけれど、あちこちに吊るされたランプの明かりが雪に反射してほの明るい。

 先を歩いていたエルチェは、オランジュリーの入口に人が立っているのを見て、足を止めた。


「……どうしたの?」


 後ろからきて前を覗き見たローズが、頬染めて頭を引っ込めた。エルチェも見えない星など見上げて、二人の人影が去るのを待つ。


「そういえば、ヤドリギのリース、飾ったんだったわ……」


 クリスマスノエルの時期には、ヤドリギの下にいる女性はキスを拒むことができない。ヤドリギの下でキスをしたカップルは幸せになれる――そんな風習があった。

 なんとなくぎくしゃくしながらリースの下をくぐり、キャンドルが乗せられたテーブルにひとつ席を離して座る。ローズが言ったように、上着を脱いでも寒くはなかった。ローズはさすがに肩が出ていると寒いのか、コートの前を開けたまま腰を下ろす。ふと気付いて、エルチェはもう一度立ち上がった。


「どうしたの?」

葡萄酒ワインがあるんだ。温めてくる。スパイスはないけど……」


 ぺろりと唇を舐めて、エルチェは並んでいるオレンジの鉢から、目立たない部分の実をひとつもぎ取った。


「ま……!」

「見なかったことにしてよ」


 笑いながら荷物の中からワインを探り当て、キャンドルをひとつ拝借して給湯室に向かう。オレンジの皮をよく洗い、半分は輪切りに、後の半分はスマイルカットにして皮も剥いてしまう。ミルクパンにワインとはちみつを入れ、沸騰直前まで温めて火を消し、輪切りのオレンジを入れてよくかき混ぜた。カップに注ぎ、スマイルカットのオレンジを添えて、給仕係よろしくトレーに乗せてローズの前へと運んだ。

 少しぽかんとエルチェを眺めるローズに、自分の席に戻りながら肩をすくめる。


「おかしい? やればできる……できてると、思うけど」

「……ううん。ちゃんと出来すぎてて……ごめんなさい。エルチェは頑張ってるの、知ってるのに……違う人みたいで……」

「なんだよ。できちゃ悪いみたいだ」


 陰る瞳を、頼りないキャンドルの灯りのせいだと誤魔化しておどけたのに、ローズは笑ってくれなかった。カップを大事そうに両手で包み、そっと口元に持っていく。


「私、わかってなかった。レフィ様に言われても、まだ」

「……? またなんかレフィに言われたのか?」


 もう一口ホットワインヴァン・ショーを口に含んで、ローズは曖昧な微笑みを浮かべた。


「このドレス、レフィ様がくれたの。既製品だけど、クリスマスノエルに着てって。お詫びだって、カードを添えて」

「……ああ、そう」

「やっぱり、狩猟舞踏会のこと、レフィ様に聞いてたのね」

「詳しくは聞いてない。俺には口の出せない話だ」

「そうよね。そうなのよね。……信じなくてもいいけど、今日のダンスを終えたら話すつもりでいたの。それで、決めようって」

「何を」


 ローズは、すっと背を伸ばして伯爵令嬢らしい優雅な微笑みを浮かべる。ローズがエルチェに違う人みたいと言ったのと、おそらく同じ感覚をエルチェも味わった。


「わが伯爵家はヴォワザンの歩みと共にありました。それも、近年は国の製鉄所への投資に押され、不作が重なった時の借金もあり、情勢に乗り切れなかった我が家は衰退の一途をたどっています。使用人は最低限、畑で作ったもので自分たちの食を確保するありさま。子は私ひとり。田舎貴族で社交も上手くはない。社交の場に出ることも減り、出席できても借金持ちの土地付き令嬢ではなかなか相手にされません」


 貴族の中でも差があることに驚いて、ただただローズを見つめるエルチェに、彼女はいつもの笑顔を戻した。


「このまま、父の代でうちは終わるのだろうなぁって、思ってたの。中央の商家にでも嫁いで土地を返還して、爵位を剥奪されて終わり。それがいいところかなって。だから、せめてここで働けるうちは華やかな雰囲気を楽しみたくて」

「……楽しかった?」

「楽しかった。舞踏会がこんなに楽しかったのは初めて。家のことを気にすることなく、純粋に踊ることを楽しめた。ありがとう。エルチェ」


 目を瞑り、ひとときを反芻してから、ローズは心から笑う。エルチェはゆっくりとかぶりを振るだけ。


「私、エルチェが小姓ペイジを辞めて実家に帰るなら、いつか一緒に農業をやるのも悪くないって思ってた。ほんの、少しだけ。同じ名前の妹さんと仲良くおしゃれするのもいいなって。でも」


 小さく息を吐き出してローズは首を少し倒す。


「エルチェは騎士になるって。レフィ様の騎士になるから、お前の都合をエルチェに押し付けるなって」

「は? また、あいつは勝手に……」

「勝手? それはレフィ様がエルチェに押し付けた勝手な理想? だったら、エルチェ、誰かの騎士になった後に私と結婚して、父の跡を継いでくれる?」


 目が泳いだ。騎士になる自分もまだよく見えていない。それでもエルチェが黙々と頑張っているのは、はっきりと定めた目標があるからだ。


「それでも私、数年しか待てない。こう見えて、もう十九だし、家の方が保たない……騎士爵を踏み台に、伯爵が欲しい? エルチェ」

「……いや」


 優しい問いかけに、エルチェは眉を寄せてうつむいた。


は俺のゴールじゃない」


 ローズは微笑みながら頷いた。


「俺が、騎士も伯爵もできるような器用な男だったら、そうしようって言う。最速で駆け上がるから、待ってて。でも……」

「エルチェはもう決めてるんだものね。レフィ様はよくわかってらっしゃる。それでも、エルチェ自身に答えを聞くチャンスをくれた……私、狩猟舞踏会でレフィ様と踊るわ。みんな、注目してくれる。レフィ様と縁付くチャンスですもの。中央から来る、商家上がりの男爵令息なんて、狙いどころだと思う……レフィ様の受け売りだけどね」


 エルチェの膝の上で固く握られた拳に、ローズはそっと手を添えた。


「それでも私、嫌な男だったら足を踏んでやるわ。そうして落ちてしまっても、エルチェ、友達でいてくれる?」


 揺らぐキャンドルの火が、小さくジジ、と音を立てる。シンと静まり返った暗がりの奥から、微かに小ホールの演奏が聞こえていた。

 エルチェはローズの手を取って立ち上がり、少し広い場所へ連れ出した。


「エルチェ?」


 ローズの手をとり、腰に手を回して、微かな旋律に耳をそばだてる。頭の中でカウントを取って、ステップを踏み始めた。


「……約束する。俺はずっとローズの味方だ。嫌なやつがいたら、殴ってやる」

「……もう。乱暴。でも……ありがとう」


 ローズは潤んだ瞳でうつむいて、それきり柑橘類の爽やかな香りの中、静かに二人はステップを踏み続けた。




 音楽が止み、帰途につく人々のざわめきが遠のいてから、ローズは帰り支度を始めた。名残惜しそうな背中をエルチェは押す。


「楽しかった。誘ってくれてありがとう」

「……うん」


 ドアを潜ったところで、エルチェはローズの手を引いた。


「キスしてもいい?」

「え!?」


 上を見上げる悪戯っぽいエルチェの顔につられて、ローズもそこを見上げる。ヤドリギのリースが見えた。カッと顔を赤らめ、瞬間だけ迷って、ローズは目を瞑る。

 緊張に強張った肩に手を置き、少し上向いたその顔を堪能してから、エルチェは顔を寄せた。頬に口づけて離れる。

 驚いて目を開けたローズにエルチェは笑いかけた。「おやすみ」と手を振れば、頬に手を当て、拗ねたように上目づかいで「おやすみ」と返される。


 予定通り、エルチェはオランジュリーで一晩を明かした。

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